2018年5月2日水曜日

炎上商法成功で連載ゲットなのか?(5月4日追記)

5月4日、この記事の前記事に追記しました。
https://sabreclub4.blogspot.jp/2018/04/blog-post_29.html
この阿部幸大って、佐藤良明や柴田元幸が先生らしいのがまたなんというか。まあ、大学の先生で出版界で活躍ってアメ文が多いよね。

5月3日追記
この件についてはもうあらためて記事を書くつもりもないが、追記しておきたいことがあるので追記します。
この件について、阿部氏は事実と違うことをもとにして論じているのに、それがわかった上で氏を擁護する声が多いことに驚き、その中に大学教授や有識者までいることに憤っている人がいましたが、この件は小保方晴子案件だと思えば、何の不思議もありません。
実は私は最初から阿部氏には小保方氏に似たところがあると感じていましたが、第2弾を読んでその考えはますます強くなりました。
小保方氏はないものをあったと主張している(現在も)わけですが、阿部氏はあるものをないと主張しているのです。
小保方氏の場合は論文が研究不正であることが証明され、研究不正の論文が証明したスタップ細胞は存在しないという結論になったのですが、阿部氏のように、あるものをないと主張すると、あるじゃないか、と証拠がボロボロ出てくる。にもかかわらず、阿部氏は詭弁を弄して「ない」という主張を変える気はないようです。小保方氏にとってスタップ細胞が存在するように、阿部氏にとって釧路市中心部は何もない僻地なのです。
小保方氏の考えを変えるのが無理なように、阿部氏も考えを変えることはないでしょう。
小保方氏は理系だったので、研究不正で科学の世界から追放されましたが、阿部氏は文系なので、現在着々と進んでいる研究職への道を進み、近い将来、どこかの大学の専任教員になり、虚偽にもとづく文章を書き散らしている可能性は高いです。というのも、一流大学の准教授や教授でひどいことを書き散らしている文系の人は何人もいて、阿部氏が特別ではないからです。
そして、阿部氏の文章が問題だらけだと指摘されても阿部氏を支持する人が多く、その中には大学教授や有識者がいる、というのも小保方氏の場合とそっくりです。
小保方氏も文系だったら生き残れたでしょう。
ただ、小保方氏を支持した人たちがだんだん彼女を忘れていったように、阿部氏も炎上を続けることができなければ、支持者も彼を忘れていくに違いありません。
阿部氏の炎上を助けているのは彼の支持者だけでなく、彼の批判者もまた燃料投下しているのですが、どちらもだんだん飽きてくるに違いありません。


以下、本記事

阿部幸大氏の「底辺校から東大へ」について先日書いたが、阿部氏はその後、第2弾を発表。大反響のため連載になるとかで、炎上商法成功で連載ゲットか、と思ったが、その第2弾がかなりひどい文章だった。
興味ある人はぐぐって探してくだされ(リンク貼る気も失せる)。

で、ツイッター上の反応のうち、なーるほど、と思えたもの。

増田の准教授
「底辺校出身の田舎者が東大に入って絶望した理由」が、より実態に近い「地方のトップ校から東大に来たら絶望した理由」というタイトルだったら確かにインパクトに欠ける。タイトルつけた編集者も悪い。

池内恵(上への返信)
むちゃくちゃよくある話を、自分に与えられた特別な使命みたいに勘違いできるのが若さの特権。問題は、詠み人知らずのネタとして流すならいいが、個人の言論として出してしまうと、後々それに縛られてしまうこと。言葉は怖い。自分が社会に発した言葉はどこまでもついてくる。出版社は商売だから煽る。

第2弾について
池内恵
ディフェンスするほどに、「運動系でやっていきます」という方向にコミットせざるを得ない羽目に。その方面でやっていくなら別に自由だけど、自分語りを核にした言論には限界があることは過去の例でも明らか。

中島淳一
あの「田舎の底辺校から東大」の記事は、地域間格差という視点で問題を捉えたのが筋悪だったのかなと思う。田舎という視点よりも、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在な「親や家庭」に焦点をあてればまた違ったテイストの記事になったはず。

池内恵(上への返信)
「親や家庭」の話となるとn+1の自分語りでは弱くなるので地域の話に広げたんだろうな。まあ、出版社は怖いよ、と気づくといいな、と生暖かく見ていたら、「大義名分があるからいいんだ」「専門の先生も賛成してくれる」「運動だ」とやったので、「これあかんやつ」メーターが急上昇。

このほか、「これで東大、学振、フルブライトなのか、やっぱり大学に文学研究いらない」というのもあった。

一応、生暖かく見守ってくれる人もいる。
http://tonishi0610.blogspot.jp/2018/05/blog-post.html?spref=tw
ここに阿部氏の第2弾へのリンクもある。

それよりも何よりも、阿部氏のぐだぐだな文章を必死で擁護する人が多いのにも驚くのだが、彼らはなぜ擁護するのだろう。擁護しないと自分の立場がなくなるのだろうか。

まあ、第2弾の話の中で注目していいのは、中学が荒れてたってあたりね。
80年代に突然全国の中学校が荒れて、それで東京などの大都市圏では荒れた中学に入れたくないので私立に入れる親が増えた。進学のためとかそういうのではなく、とにかく荒れた公立に入れたくないから私立、だった。そして、大都市圏には私立中学がたくさんあった。
一方、釧路のような地方都市には私立はたぶん非常に少ない。札幌とかでないと私立に入れるのは無理っぽいのではないか。釧路の場合は北海道教育大の付属が荒れない中学だろうが、ここはエリート校で誰でも入れるわけじゃない。だから、地方の場合、中学が荒れていても逃げられない、というのはあっただろう。
阿部氏が中学生になったのは2000年頃で、だいぶ状況はよくなっていたが、それでも荒れている部分があったと氏は書いている。そこで氏は荒れている方の集団に所属してしまったのだろう。
なぜそうなったかというと、小学校時代の交友関係が原因だろうと推測できる。
で、ここで問題なのは、地方は私立がないから私立に逃げられない、という前に、私立に逃げられるとしても、阿部氏の親は私立に入れてくれなかったのではないかという気がする。
阿部氏の家はかなりの金持ちらしい、というのは、高校を卒業後、一家で東京に引っ越しし、そこで2年間宅浪できたというところから推測する。
だからもしも私立があったら、お金がないから私立に行けないことはないわけだが、親が私立に行かせるなんてことはまったく考えない人だったら、荒れた中学へ行く羽目になる。
つまり、この部分に地域格差と家庭格差の両方を見ることができるわけだが、阿部氏はそういうところにはまったく無自覚のようだ。
上にリンクを貼ったブログ主さんは、阿部氏には他の釧路の人が見えていなかったと書いているが、まったくそのとおりである。そして、なぜそうなったかというと、家庭環境や本人の性格、小学校中学校時代の交友関係などが関係しているだろう。
阿部氏の記事を読むと、この人は文学研究者なのに言葉の使い方がいいかげんで、客観的に論理を組み立てる能力が欠けていると感じる。社会学者じゃないからと言い訳しているが、これらの能力は文学研究者に求められるものだ。
文学研究者として能力が高くないと感じる人は東大の大学院にも普通にいたが、阿部氏のようなひどい例は見たことがない。東大も相当に劣化してるのだろうか(古市某とかいるしなあ)。