2018年11月13日火曜日
最近見た映画から:「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を中心に
この記事は「「ボヘミアン・ラプソディ」&「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」」というタイトルで書いたものですが、どちらの映画についても自分の言いたいことが十分に書かれていないことに気づきました。そこで、「ボヘミアン・ラプソディ」については別の記事に改めて書くこととし、この記事では「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」について後半を大幅に加筆しました。他の部分もリライトしています。
土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った。
クイーンは歌は知っているけれど、メンバーのこととか全然知らない。なのに、映画が断然見たくなったのは、猫がピアノの鍵盤の上を歩くあの予告編のためだった。
フレディ・マーキュリーが猫好きだなんて全然知らなかったのだが、あの予告編は猫好きに刺さる。対して、「旅猫リポート」は、もう、まったく猫好きに刺さらない予告編で、まあ、試写状来たので、映画は見ましたが、猫より子役がよかった。
で、「ボヘミアン・ラプソディ」。本来なら、シネコンの新作は金曜日の初日に見るのが常なのだけれど、今回は金曜日にコリン・ファースの新作「喜望峰の風に乗せて」の試写があったので、土曜日にまわしたのだ。「喜望峰~」はなかなかちょっと微妙な感想が浮かぶ映画で、それの前にやはり試写で見た「未来を乗り換えた男」が今、原作を読んでいるところなので、この試写2本はあとでまとめて書くつもり。
「ボヘミアン・ラプソディ」は日本橋のTOHOシネマズだとスクリーンが大きくて映像がクリアーなTCXなので、ここで見ることに決めた。日本橋ではドルビーアトモスでも上映されていて、こちらの方が人気だったが、映画を見てみると音楽がすばらしいので、割増料金でもドルビーアトモスで見たい人が多いのもわかる。
土曜日ということで、予約したときはさすがに座席がかなり埋まっていたが、それでも好みの席がぽつんと1つ空いていて、そこを予約。行ってみると、両隣がシニア夫婦で、ほかにも白髪の人が目立つ。クイーンはシニアの同世代だったのだ。
映画ですが、とても気に入りました。
ふだんはここで見ると、銀座線の三越前駅から地下鉄に乗るのだが、しばらく余韻にひたりたくて、神田駅まで歩いてしまった(たいした距離ではないけど)。こんなことは久しぶり。
もともとクイーンの曲はアイスホッケーのアリーナでよくかかっていたこともあって、わりと好きだったのだが、この映画を見て、ますます好きになった。
監督のブライアン・シンガーがスタッフ、キャストと衝突して途中降板とか、ロッテントマトでの評価が批評家は賛否両論、観客は大絶賛とか、いろいろ微妙な映画ではあるのだけれど、それがどうした、と言いたくなるような作品なのだ。
というわけで、この映画については別の記事で詳しく。
そして、月曜日は、仕事帰りにレイトで「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を見る。セクシーズとは両性、つまり男と女のことで、1970年代のテニス界の男と女のバトルを描く。
最近もテニス界の男女差別が話題になったが、当時は賞金が男は女の8倍。人気は同じなのに許せない、と、女子チャンピオンのビリー・ジーン・キングが反発。それに対し、元チャンピオンのボビー・リッグスが男女対抗試合を持ちかけた、という実話の映画化。
映画は公然と女性差別をするテニス界の男たちに対し、キングが男女平等を掲げて戦いを挑む姿を中心に描いている。キングが55歳のリッグスをコートで打ち破るクライマックスには、ヒラリー・クリントンの大統領選勝利というかなわなかった夢が託されているようにも感じた。
それと同時に、夫のいるキングが女性にひかれてしまう様子が描かれていて、このあたりが「ボヘミアン・ラプソディ」の女性の恋人がいながら男性にひかれてしまうフレディ・マーキュリーと似ていて、しかも、どちらも異性のパートナーがいい人なのである(実際にそうだったらしい)。
ただ、フレディは女性の元恋人に心の友を求めていたが、キングはテニスがすべてで、夫も女性の恋人もテニスの次、という感じで、2人もそれを理解している。男性は仕事のためにパートナーが必要で、女性は仕事のときはパートナーを忘れる、みたいなのはうーん、やっぱり男女に対する偏見かなあ、という感じも。
リッグスはキングを破ったマーガレット・コートと先に試合をしていて、このときはコートはまるでだめだったのだが、それを見てキングが奮起、リッグスの挑戦を受ける。で、このコートが夫と赤ん坊のいるいかにも女性らしい女性で、それに対し、キングは男っぽい女性として描かれているが、こういう女性観もちょっと問題があるかもしれない。
キングは自分が同性愛者であることを自覚し、その後はLGBTQの権利のための活動をしているが、最近、マーガレット・コートがLGBTQを差別する発言をしているとしてキングが反発したというニュースがあったが、どうも因縁のある2人のようだ。
ただ、上に書いたような、今なら問題あるかも、と思う女性観、男性観は、1970年代当時では普通だったし、そうした女性観、男性観の根底に男女差別があって、その中でキングのような人々が平等を主張してきたことは事実。
たとえば、この映画に描かれる女性差別発言を公の場で平気でする人々。今なら公の場で著名な人や地位のある人がそういう発言をすれば叩かれるが、当時は叩かれなかったという事実(日本ではいまだに叩かれない人もいるが)。キングとリッグスの試合の中継で、女性差別を公然としているテニス界の重鎮を中継からはずせとキングが主張するシーンでは、キングはその男に向かって、「リッグスは女性差別を煽っているが、心底差別主義者というわけではない。でもあなたは、上品にふるまっているけれど、言葉の端々に差別がある根っからの差別主義者だ」と言う。男は結局「自分のせいで負けたとキングに言われたくないから」という理由で中継を降板、かわりに女子テニス選手が解説で登場。だが、そばにいる聞き役の男は終始、彼女の肩に手をかけている。今なら完全にセクハラだし、また、これは男が女より上だということを露骨に示す行為でもある。だが、当時は男はこういうことをしても、それが当然だと思われていたということ。
おかしなことばかりやっているリッグスの煽るのが目的の女性差別と、日常的に行われ、しかも多くの人は差別ともセクハラとも思っていないことの両方が描かれるが、本当に問題なのは後者だということを映画は描いている。
キングが、あなたはフェミニストかと聞かれて、違う、と答えるシーンがある。ここではウーマン・リブ、あるいはリブという言葉が何度も使われている。フェミニズムとかフェミニストとかいう言葉にどこか違和感を感じていた私は非常に納得した。
映画は女性差別との闘いだけでなく、同性愛への差別と偏見も描き(「ボヘミアン・ラプソディ」同様、あまり深くは追究しないが)、女性の地位向上とともにLGBTQが普通に存在できる社会ができることを願う男性デザイナーの言葉で締めくくられる。キングはその後、同性愛者として生き、この2つの実現のために尽力することになる。
全体的にやや冗漫な構成で、「ボルグ/マッケンロー」の方が求心力があってうまい演出だったと思うし、脇役がビル・プルマンなど有名どころが出ているのに、いまひとつキャラが立っていないのが惜しい。ただ、主役のエマ・ストーンとスティーヴ・カレルの名演は光る。