2018年11月14日水曜日

音楽が生まれ育つさまを描く「ボヘミアン・ラプソディ」

土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行って、本当に感動し、幸福感に包まれ、その余韻を楽しむためにふだんなら三越前駅から地下鉄に乗るのに、神田駅まであるいたことを前の記事で書いた。
クイーンについては有名な曲を知っているくらいで、フレディ・マーキュリーの名前はさすがに知っていたが、バンド自体についてはまったく知らず、まったくといっていいほど予備知識なしに、まさに真っ白な状態で見に行った。
その真っ白な心に焼きついた感動を胸に帰宅したのだが、やはり背景を知りたいと思い、ネットで調べてしまった。
そこで、ブライアン・シンガーがスタッフ・キャストと衝突して監督降板したことを知り、ロッテントマトで批評家は60%という、かろうじて赤いトマトになる数字だと知る(観客は90%と圧倒的な支持)。
そのあたりから自分の目が曇ってしまい、見えていたものが見えなくなっていた。

見た直後に私が感じていたのは、今世紀に入って20世紀後半のアーティストの伝記映画が次々と作られているけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」はその中でも出色の出来だということだった。
もちろん、今世紀に入って次々と作られる音楽映画が、そこそこいい映画ではあるけれど、そんなにすごい、奥深い傑作というわけではなく、その中で出色の出来といっても、別にすごい芸術というわけではないのだが、それでもこの映画は頭ひとつ抜きんでた傑作だという思いは強かった。
そのわけは、この映画が、音楽が生まれることをテーマにしているからだ。
フレディ・マーキュリーの伝記ではあるが、フレディの人生の葛藤や苦悩を前面に出した映画ではない。
さらに言うと、この映画は、音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれる、というテーマを採用していない。
音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれるというのは人気のあるモチーフである。ベートーヴェンはそのモチーフで描かれることが多い。しかし、モーツアルトはしょうもないひどいやつで、ふざけたことばかりしていたけれど、それでも美しい音楽を苦もなく書き上げた。一方、サリエリはどんなに苦悩したってたいした曲は書けなかったのだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」の音楽は、天才の苦悩や葛藤から生まれるのではない。それは、仲間との協力によって生まれるのだ。天才と彼をとりまく仲間との間のケミストリーが、すばらしい傑作を生み出すのだ。
そう、この映画は音楽におけるケミストリーをテーマにしているのであり、そのケミストリーは音楽を受容する観客にまでつながるものだ。

私にこの映画に興味を持たせた予告編、中でも猫がピアノの鍵盤の上を歩くシーンは、映画のはじめの方に登場する。まだ無名のフレディがガールフレンドとベッドに寝ていて、彼らの頭の斜め上にピアノの鍵盤があるのだ。そこを猫が歩く。(追記 再見したところ、猫が鍵盤を歩くシーンはこのシーンではなく、そのの少しあとに出てくる。)
弦楽器や管楽器はまともな音を出すまでが大変だが、ピアノは猫が歩いても音が出る、とはよく言われる言葉。しかし、猫が歩いて出る音を音楽とは呼ばない。
音楽はどのようにして生まれるのか。あるいは、クイーンの音楽はどのようにして生まれたのか。
映画はそれを実に巧妙に描いている。
タイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」は、題名からしてクラシックを連想させる。ラプソディはクラシックの曲の1種であるし、ボヘミアンはプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を連想させる。ボエームはボヘミアンのことで、芸術家の意味だ。フレディはオペラをよく聞いていて、この曲はロックでオペラをやろうとしたものだが、6分もあるからラジオでかけてもらえないとか、歌詞が意味不明とかさんざん言われる。発売されるが、批評家からは評価されていないことがわかる字幕が画面に次々と浮かぶ。しかし、芸術家の狂詩曲(ボヘミアン・ラプソディ)はフレディの死後に再評価されたことが最後に告げられる。
白眉は「ウィー・ウィル・ロック・ユー」誕生シーン。メンバーが手拍子足拍子でリズムをとっていると、そこへフレディが現れ、「で、歌は?」と言い、それが「ウィー・ウィル・ロック・ユー」となって、観客も巻き込んでの絶唱となる。天才フレディとメンバーの間のケミストリーが名曲を生み、それが観客によって受容されて、音楽として完成するのだ。
だから後半、金がすべての業界人がフレディにソロになることをすすめ、フレディもその気になって、バンド解散の危機になったとき、そのケミストリーの重要性が浮かび上がる。
フレディはバンドのメンバーとの確執に疲れていて、それでバンドを離れてソロになろうとしていたのだが、どうもうまくいかない。精神的にも肉体的にも疲弊したフレディの目を覚まさせたのは元恋人の女性で、雨の中、立ち尽くすフレディは、自分にとってだいじな人は金目当ての人々ではなく中まであることに気づく。この雨の中の覚醒シーンはこれまでもよく映画などで描かれたシーンで、決して新しさはないのだが、それでも手垢のついた感じはなく、すなおに感動できる。
バンドのメンバーと再会したフレディは言う、「新しいバンドのメンバーは自分の言いなりで意見も何も言わない。でも、きみたちは俺に意見を言ったり不満な顔をした。それでいい曲ができたのだ」と。バンド・メンバーとの切磋琢磨がすぐれた音楽を生み出していた、と彼は悟ったのだ。
この映画は、クイーンの音楽が1人の天才だけによって作られたという見方はしていない。フレディは天才であり、レジェンドだが、音楽は神のような天才1人によって作られるのではない、というのがこの映画の見方である。だから、名曲が生まれるときにバンド・メンバーの関与があったとするシーンが、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」以外の曲でも描かれる。
このような見方は、フレディ・マーキュリーの才能を過小評価することになるのだろうか? そういう見方もあるだろう。
しかし、音楽や映画のような芸術は1人の人間によって作られるのではない。そして、音楽も映画も、最終的には観客の受容によって完成する。この映画はフレディの才能とバンドのケミストリーによって音楽が誕生し、そして観客に受容されるまでを描いている。そこまで行って初めて音楽は完成するのだということを。クライマックスの大観衆の熱狂はまさにそれを描いている。

この映画は当初、デクスター・フレッチャーが監督する予定だったが、ブライアン・シンガーが監督になり、3分の2ほど撮影したところでシンガーが降板、その後はフレッチャーが監督して映画を仕上げたのだという。シンガーだったらもっとシリアスで奥深い傑作にできたかもしれないが、上に書いたようなバンドのケミストリーによって音楽が生まれ、そこにフレディをめぐる人々の人間模様がかぶさるというモチーフはシンガーには合わなかったのだろう。おそらくこのモチーフは映画の肝であって、あとを継いだフレッチャーはこのモチーフに従って映画をまとめたのではないかと思う。
クレジットはシンガーになっているが、シンガーの映画とは言えないのかもしれない。
でも、と私は思う。
「風と共に去りぬ」には3人の監督がいた。ジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミング、サム・ウッド。キューカーがまず監督し、それをフレミングが受け継いで全体をまとめ、最後にウッドが補った、という感じらしいのだが、実は同じ年に同じMGMで作られた「オズの魔法使」もジョージ・キューカーがまず監督し、それからフレミングが受け継いだのだそうだ。どちらもフレミングがクレジットされているが、「オズの魔法使」DVDの特典映像によると、当時のハリウッドでは監督は1本の映画に専念せずに次から次へとプロジェクトを移っていくのは普通だったらしい。「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」のようなビッグバジェットの娯楽映画は、作家性を主張しないフレミングのような監督の方が全体をまとめるには合っていたのだろう。神のような1人の監督が支配する作家の映画ではないからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」も、作家性の強い神のような監督が支配するタイプの映画ではない。しかし、「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」がキューカーのような名匠の手によって土台作りをされたことで格調の高さも手に入れたのだとしたら、「ボヘミアン・ラプソディ」もシンガーの参加で映像的なすばらしさを手に入れているのかもしれない。この映画には間の抜けた映像が見当たらないのだ。
いさかいがあっても、最終的には多くの人のケミストリーで出来上がる傑作というものがあって、「ボヘミアン・ラプソディ」という映画自体もそうした作品かもしれない。そして、それは、クイーンの音楽のケミストリーという映画のテーマにぴったりと合うのだ。

音楽が生まれ育ち、観客に受容されることを描くのが主眼だとしたら、人物描写に奥深さがないのは決して欠点ではない。芸術はケミストリーで生まれるということを描くとき、そこに登場人物たちの友情や絆を重ねるのはうまいやり方だ。前者だけでは知的すぎるが、後者を重ねることで、観客が率直に感動できるドラマが生まれる。
満を持してのクライマックス、大観衆の前で歌われる「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」では、金のことしか考えず、フレディを堕落させようとした人々は敗者であり、仲間を大切にする人こそが勝者であるというモチーフが映像で強調される。音楽を生み出す仲間とのケミストリーを、人間ドラマの寓話で表現したシーンだが、この人間ドラマの寓話の部分を安っぽいとか浅はかとか言ってはいけない。これは寓話なんである。音楽を生み出すケミストリーに人間ドラマの寓話を重ね、音楽の高まりとともに観客を感動させる手段なのだ。
もう一度言おう。この映画は、音楽家の苦悩や葛藤が音楽を生み出すという見方をしない。かわりに、天才と仲間たちとのケミストリーが音楽を生み出し、それが観客によって受容されたときに音楽が完成するという見方をとり、それをみごとに表現している。
クイーンの音楽について、その見方は正しいのかどうか、それは私にはわからない。ただ、音楽を描いた映画として出色の出来栄えだということは断言したい。