2018年12月16日日曜日

これはヒドい、ヒドすぎる「メアリーの総て」

メアリー・シェリーの伝記映画「メアリーの総て」を見に、わざわざさいたま新都心まで遠征。
まあ、ロッテントマトの評価は批評家も観客も低かったので、期待してなかったが、まさかこれほどヒドい映画とは。
見なきゃよかった。
見て損したとか、時間返せとか、もうそういうレベル超えてる。見なかったことにしたい、忘れたい映画。
さいたま新都心のMOVIXさいたまは「妖怪ウォッチ」や「ドラゴンボール」や「ボヘミアン・ラプソディ」や「ファンタビ」2を見る人でごった返していて、飲食物売り場もグッズ売り場も長蛇の列。スクリーンのある入口のところも列ができている。
ここは今年の春に「空海」字幕版で2回来たきりだけど、「空海」も土日だったけれどこんなに混んでなかった。さいたま新都心自体が混雑していて、年末だなあと思う。
「メアリーの総て」はすいていました。

で、始まってすぐにもういやな予感が。
メアリーの継母が毒母に描かれている。
メアリーの実母は出産で亡くなっていて、その後、父ゴドウィンが娘に母親をと思って再婚したのだが、メアリーと継母はそりが悪かったらしい。ただ、継母は別に悪い人ではなかったようなのだが、この映画では継母をまず毒母に描く。
そして、シェリーと恋に落ちたメアリーの前にシェリーの妻が現れ、彼女もなんか悪役っぽく描かれる。
父ゴドウィンもなんか感じ悪いおっさんで、シェリーとバイロンも薄汚い兄ちゃんに描かれている。
メアリーとは仲がよかった継母の連れ子クレアもなんだかなあ。
唯一、好意的に描かれているのが、「ボヘミアン・ラプソディ」でロジャーを演じたベン・ハーディが扮するポリドリ。「吸血鬼」の作者でバイロンの主治医だが、なんだかすごーくいい人に描かれている。
大部分の登場人物が悪役で、メアリーとクレアとポリドリが被害者みたいな映画。
なに、この、人物のパターン化。人間ってそんな単純なものじゃないし、「フランケンシュタイン」という小説もそうした人間の複雑さを描いているのに、なにこのバカ映画。

この種の伝記映画は史実どおりではなく、ドラマチックにするために脚色されているのは当然だけど、この映画はなんで史実を変えてこういう脚色したのが意味不明。
たとえば、「Merry Christmas!」みたいに、ディケンズを主人公にした完全なフィクションもあるわけだけど、このディケンズの映画もそれほど面白くはなかったけれど、こういうふうにフィクションにしました、という方向性は納得できる。あと、英文学の要素とかロンドンの描写とか、一応納得できるもの。
ところが「メアリーの総て」は英文学的要素も当時のイギリス中産階級の描写も全然だめ。作った人たちは勉強してないのか?
ゴドウィンやシェリーが借金まみれだったのは事実だけど、彼らは中産階級なわけで、貧しい労働者階級とは違うのだが、映画だと、これは貧しい労働者階級なの? でも本当の労働者階級とは違うし、なんなのこれ、と思ってしまう。
まあ、予算がないから貴族なのに貧乏くさいバイロンとかになってしまうのか。

で、何が許せないかって、メアリーが「フランケンシュタイン」を書くきっかけとなったジュネーヴのエピソードからあとが嘘ばっかりなのこと。
この辺りはとても有名なので、こういうふうに変えてしまうことにどんな意味があるのかと思う。
たとえば、シェリーの妻が自殺するのはこのエピソードの半年くらいあとなのに、シェリーたちがジュネーヴにいたときに妻が自殺したことになっている。
このエピソードについてはメアリーが1831年版の序文に書いているので、その序文に書かれたことと完全に違うことは原作を読んだ人にはわかるし、このエピソード自体が「ゴシック」や「幻の城」といった映画になっているので、なんであえて変えてしまうのか理解不能。
そして、「フランケンシュタイン」の執筆や出版のあたりもとにかくメアリーが被害者ということを強調するために変えていて、おまけにメアリーはシェリーと一時別れたみたいになっている。実際は、シェリーの妻が自殺したあと、2人は結婚していて、「フランケンシュタイン」出版(1818年)のときはすでにシェリー夫人になっているのだが、映画ではまだ結婚していないことになっている。
まあとにかく、メアリーとクレアと、「吸血鬼」をバイロンの名前で出されたポリドリを被害者にして、それを怪物と重ねるみたいな方に持っていこうとしているのだが、あまりにも恣意的でげんなりする。
メアリーという人物もかなり支離滅裂な造形で、演じるエル・ファニングがヒステリー女にしか見えず、無理にフェミニズムに持って行こうとして空回り。
ああ、あと、メアリーは最初の子供はすぐに死んでしまうけど、「フランケンシュタイン」を書き始めたときは次の子供が生まれてたんですが、それは無視ですか、そうですか。
つか、この映画見ると、まるでメアリーとシェリーは仲悪かったみたいだけど、そんなことなかったはずなんですがね。映画にみたいに別れてもいないし。

メアリー・シェリーが登場する映画はこれまでにもいくつかあって、上にあげたジュネーヴのエピソードを描いた2作のほかでは、ボリス・カーロフの「フランケンシュタイン」の続編「フランケンシュタインの花嫁」の冒頭でエルザ・ランチェスター扮するメアリーがシェリーとバイロンに続きを語るという手法。ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」では冒頭、メアリーに扮したエマ・トンプソンのナレーションがある。
「メアリーの総て」はこれまでと違って伝記映画なのだけれど、メアリーやその周辺の人たちがこんなふうにつまらなく、薄っぺらく描かれるのはひたすら苦痛だった。
彼ら彼女らはこの映画を作った人たちよりはるかに偉大なのだ、と思う。
作った人たちは、彼ら彼女らに対する敬意、文学の世界に対する敬意を欠いている。
彼ら彼女らの人生を薄っぺらに通俗的に作り変え、文学の神髄をかいま見せることさえしていない。
本当にヒドい映画で、この文章を書き終えたら、私の中ではなかったことにしよう。
それにしても、こんな映画に☆4つもつけている評論家たちは(ひどいこと書きそうなので以下略)。

あと、まあ、これは邦題の問題なんだけど、メアリーが「フランケンシュタイン」を出版するまでしか描いていないのに「メアリーの総て」ってどうよ。1818年の出版のあとの方がずっと長い人生で、その中では夫の死、子供の死、父親の死、シェリーの父との確執、シェリーの友人たちとの確執など、「フランケンシュタイン」出版以後の方がいろいろ大変だったんだけどね。
まあ、イギリス小説研究者は触らない方がいい映画。

新潮文庫と光文社文庫の「フランケンシュタイン」は今年4月に増刷したばかりなのにまた増刷してこの映画の帯をつけたらしいのだが、全国で14館しか上映してないので、上映されている地域の書店でしか帯つき文庫は置いてないようだ。私が解説を書いた創元は夏にかなりの部数を増刷してゲームキャラ帯をつけてフェアをやったので、映画の帯をつけるための増刷はしていないんだけど、映画があれじゃ、帯つかなくてよかったとしみじみ思った。ゲームキャラ帯で十分でございます。