フランソワ・オゾンの新作「Summer of 85」。
夜、墓の上で踊っているところを逮捕された16歳の少年アレックス。彼はなぜそんなことをしたのか、それを理解してもらうために文章を書く、という設定だけれど、一応、小説となっているけれど、理解してもらうためだからフィクションなわけないと思うので、手記を小説ふうに書いているということだと思う。なので、メタフィクション的な要素はない。
1985年の夏、ヨットが転覆したところを助けてくれたダヴィドという少年とのひと夏の経験を描いた作品で、最近のオゾンの作風からするとかなり軽い印象。
アレックスとダヴィドはゲイの関係を結ぶが、ダヴィドは1人の相手では満足できず、しかもバイセクシュアルで、アレックスが知り合った21歳のイギリス人女性と関係を持ってしまう。彼女はアレックスとダヴィドがゲイの関係とは知らず、誘われるままにダヴィドと関係してしまうのだが、アレックスはダヴィドに怒りをぶつけ、ショックを受けたダヴィドはアレックスの後をバイクで追いかけようとして事故にあい、亡くなってしまう。
1985年ということで、パソコンやスマホはまだなく、ワープロ専用機も一般に普及する直前くらいだから、アレックスはタイプライターで文章を書いている。ロッド・スチュワートの「セーリング」が重要な音楽として登場し、80年代を表現しているが、時代を強烈に押し出しているわけではない。
ただ、同性愛への理解がまだなかった、というのが重要な背景であることは確かだ。
ダヴィドの遺体と対面したいアレックスだが、ダヴィドの母親が断固許さない。ダヴィドの母はアレックスにはかなり好意的だったのに、息子の死はアレックスのせいだと言って彼を拒絶する。アレックスの後を追って事故にあったので、彼のせいだと言えばそうなのだが、このくらいであれほど拒絶するのか、と思うと、息子とアレックスの関係を知ったからでは?と思わなくもない。あるいは、ダヴィドの家がユダヤ教であることが関係しているのだろうか。
そんなわけで、アレックスはイギリス人女性の協力を得て、女装して、女性の恋人のふりをして遺体と対面するのだけれど、ここにも世間の同性愛への無理解が感じられる。
差別とか偏見とかいうほどではないのだが、まだまだ理解が足りなかった時代、という感じだ。
ただ、オゾンの演出は全体に軽くて、死とか同性愛への無理解といった重い内容がずいぶんと軽く描かれている。愛する人の死を乗り越えて新しい人生を生きる、という結末も、この描き方だと軽すぎて、こんな表現でいいのか、と言いたくなる。
とはいえ、2人の美少年は眼福で、そのすべらかな白い美しい肉体、アレックスの無垢な顔立ちとダヴィドの精悍な顔立ち、そこに宿る少年らしい表情を見ているだけで十分だという気になる。
こういう美しい少年同士の愛というのがまた、あの時代だったかな、と思う。