60年代から70年代に学生運動していた大学生は実家が太い、という今の若い世代の発言につい議論があって、反対意見が多かったのだが、上のような現実もあった。
私が中学生だったのは60年代後半で、首都圏の中学で1クラス50人中、中卒で就職は1人いた。その人は滑り止めの私立も落ちてしまい、もうほんとに勉強に向かないと思って就職したので、家が貧しくて就職したのではなかった。
その一方で、毎年地方から上京してくる集団就職の中卒の人たちは金の卵と呼ばれていたので、数は少なくなっていたものの、それでも集団就職で上野駅に到着するくらいはいた。
上野駅ってことは北海道や東北が多かったってこと。上野駅の常磐線始発のホームは電車が出発するとき今も発車ベルを鳴らすが、それは集団就職の名残りである。
当時は高卒で就職する人が多かったが、成績のいい人は大学進学者が多数の高校へ行き、そうでない人は就職する人が多数の高校へ行くので、高校へ行くともう社会が分断されていて、進学校へ行くと高卒で就職する多数の人のことは見えなくなる。
私が大学進学したときは国立大の授業料が年間3万6千円だったから、親がいなくても自力で卒業できた。だから、当時は貧乏でも大学へ行けたというのは真実である。あるけれども、実家が太いというのはなにも経済だけではないので、親が中卒でも頭がよくて教養があったりする家もあったのだ。中卒高卒が普通だった時代には、頭のいい人がたくさん中卒高卒で就職していたと思う。彼らは自分の子供は大学へ行かせたいと思うし、親が頭がよければ子供も勉強ができる。
受益者負担で授業料がバカ高くなった背景には、一部の学生だけが安い授業料で得をしているという不公平感が一般人の中にあったのではないか。
上のツイートの先生はよいことを言っているのだが、次の先生は困った大学教員だと思う。
ツイートの下の方を見ると、大学の設置基準でそうなっていると書いている。確かにそうなっているらしく、シラバスでも1回の授業につき予習1時間、復習1時間で具体的に何をするかまで書かされる(私が非常勤してる某大学)。
この先生はもしも自分の授業は予習復習ガチで必要だと本気で思うなら、その理由を説明すべきだし、単に文科省の設置基準で決まってるなら、文科省に文句言え、と霞ヶ関方面に投げちゃえばいいのだ。
それを粛清対象だの、1週間目いっぱい授業を入れるのがいけないだの、こいつ、自分の授業になぜこういう予習復習が必要なのか説明できないのだな。
学生は1日に最低3コマは授業を入れる。すると、3コマの授業に必要な予習復習は計6時間。朝から夕方まで大学にいて、そのあとバイトして、そのあと6時間予習復習。寝る時間がない。
1日2コマでは4年で卒業できない。特に4年は就活と卒論があるから3年でほとんどの授業をとっておかないといけないのだ。
つまり、文科省の設置基準に無理があるので、建前なんである。
つか、授業によって予習復習の時間は違っていいはずで、この先生の授業がほんとに予習復習ガチで必要だとしても、他の授業はそれほど必要なくて、それでなんとかやっていけるはずなんだが、この先生の言い方だと問答無用で全部ガチで予習復習しろって話になる。
実際は、この先生の授業で予習復習大変な分、手を抜かれてる先生がいっぱいいるんですよ。