金曜日は午後、雨が小やみになったので、近場のシネコンに「怪物」を見に行ったのだが、帰りが大変なことになった。映画の中でも台風が来ていた。
この映画、「怪物」だーれだ、と子どもたちが言う予告編を何度も見て、これは「本当に怪物なのは誰か」というテーマの映画なのだろうと予想していた。が、まったく違っていた。
映画は3部構成で、最初は息子が担任にいじめられていると思う母親の視点、次が担任の視点、そして最後が2人の少年、湊と依里の視点になる。全体としては、母親と担任の部分は前座で、少年の視点の部分が本題といった感じ。
以下、ネタバレ全開で行きます。
映画が始まってすぐ、母子家庭の少年、湊が変だな、という感じがあったが、母親のパートでは学校の先生たちがみな、死んだような目をして、まるで怪物に見える。明らかに先生たちの対応がまずいのだけれど、これは母親の目から見たものだということがあとでわかる。たとえば、孫が交通事故で亡くなったという校長は、最初は母親の話を真剣に聞き、メモも取っていたのに、そのあと、他の先生と一緒に来るとロボットのように同じ言葉を繰り返す。その後、スーパーで校長が足を出して子どもを転ばせたように見えるシーンがあるが、その後の母子の反応を見ると、どうも子どもが勝手に転んだらしい。実際、あとになると、校長はそんな邪悪な人ではなく、このシーンはおそらく母親の妄想だったのだろう。
次のパートでは湊の担任の教師の視点になる。母親から見たシーンが今度は担任の目で見られ、無気力で変だった担任は子どもに好かれようと不自然な笑顔を浮かべてしまうが、子どものことを思ういい先生だとわかる。また、校長は自宅の駐車場で遊んでいた孫を誤って事故死させてしまい、自分が運転者だとわかると学校に迷惑がかかるので、やむなく夫が罪をかぶったのだとわかる。そのために彼女は無表情になっていたのだ。
舞台は諏訪湖のほとりの諏訪市。地方都市ということで、大きな都会よりは閉塞感があり、でも、田舎というほどではない場所。近くには自然も多く、廃線になった鉄道線路のシーンは「スタンド・バイ・ミー」を思い出させる。
そして、子どもたちのパートになると、ああ、これは確かに「スタンド・バイ・ミー」なのだ、と思う。
さらに言うと、湊と仲のよい少年、依里=エリからは、スウェーデン映画「ぼくのエリ」を連想させる。
母親のパートで担任が、湊は依里にいじめをしている、と言うとき、「エリ」と聞こえたので、女の子をいじめているのかと思ったが、依里は少年だった。「ぼくのエリ」のエリは去勢された少年だったが、この映画のエリはゲイかトランス女性だろう。子どもなのではっきりこうだとは言えないが、セクシャル・マイノリティであることは確かだ。
湊もまたセクシャル・マイノリティで、母親のパートで母親から、普通に結婚して家庭を持ってほしい、と言われ、走っている車から降りてしまうシーンがある。自分には女性と結婚して家庭を持つ未来などないと思っているのだ。
少年パートは湊の方が中心で、これも「ぼくのエリ」と重なる。
依里は父子家庭で、父親は息子がセクシャル・マイノリティなので、おまえは豚の脳を持っていると言ったり、暴力をふるっていることもあとでわかる。この、父親が依里に言ったことを、湊が担任から言われたと母親に嘘をついてしまう。そこが事件の発端だった。
担任はガールズ・バーに通っているという噂があったが、実は依里の父親がガールズ・バーに通っていたので、父親に会うために行っていたことも結末近くのせりふでわかる。港が担任に「おまえは豚の脳を持っている」と言われたと嘘をついたのは、担任がなにげに「男らしく」と言ったり、依里の父親とガールズ・バーでよく会っていたことから、父親と担任を同類と考えていたのかもしれない。実際は、父子に問題があると気づいて、担任は父親に会っていたのではないかと思う。
担任パートの最後に、担任が湊と依里の関係に気づき、自分が間違っていたと知って2人を探しに行き、そこで湊の母親と合流、というところで子どもたちのパートに移り、そこでこれまでのシーンの真相が明らかにされていく。
豚の脳を持つと言われた依里と湊はもちろん、怪物ではない。そう思うのは依里の父だけだ。先生たちもほんとうはよい人たちだ。校長は罪の意識に苦しんでいる。その校長が湊と語り合い、「誰もが手に入れられるものがほんとうの幸せだ」という校長の言葉には涙してしまう。ただ、ここで急に校長が湊の救い主になるのは少し唐突な感じは否めない。
少年たちのパートはほんとうにすばらしくて、これまでの作品でもそうだが、是枝監督は子どもの描写がうまい。特に今回は線路の描写が「スタンド・バイ・ミー」を思い出させることもあって、これまでの映画に比べて閉塞感がなく、ラストも明るい未来を感じさせる。
怪物だーれだ、と子どもたちは言うが、実は、誰も怪物ではない、というのがこの映画のテーマなのだ。
この映画で怪物と呼べる人物は依里の父だけだが、その父も、台風の中で右往左往するシーンを結末近くに入れることで、彼はセクシャル・マイノリティに対して憎しみや偏見を抱いているが、彼もまたただの弱い人間であること、間違った考えを植え付けられてしまっただけだということを感じさせる。
セクシャル・マイノリティに対する理解はここ10年くらいの間に非常に進んだと思う。大学で10年ほど前から何度か同性愛への差別をテーマにした映画を扱っているが、10年前に比べて学生の同性愛に対する許容が非常に進んでいる。10年前は、差別はいけないとわかっているが、身近に同性愛者がいたらという不安を述べる学生が少なくなかった。今はそんなことを言う学生はいない。むしろ、映画に描かれる差別に驚き、怒る。同性婚容認が過半数になっているのは当然なのだ。
依里の父以外はみなよい人である、その父も含めて怪物はいない、という描き方は、現実の悪しき部分を描かないきれいごとに見えなくもない。悪しき部分を父親だけに集約させている感も否めない。でも、これまでの是枝作品のいくつかにあった閉塞感や悲観がこの映画にはなく、明るく開放的な未来を感じる。私は是枝作品は正直、あまり好きではなかったが(評価とはもちろん別)、この映画は率直に好きだと思えた初めての是枝作品である。
追記
大人についての解釈を中心に述べてきたが、少年パートでは子どものいじめが描かれている。子どもたち、特に男の子たちは普通の男の子と違う依里をいじめている。それで湊が怒って暴れて担任に関する誤解が生まれる。女の子の中にも湊を陥れようと嘘をついたり、トイレに自分を閉じ込めたのは湊だと思い込んだりする子がいる。湊と依里がカップルであることはクラスの全員が知っていて、音楽室に楽器を運ぶときに2人を一緒にさせる女の子もいる。
このあたりの子どもたちの描写もなかなかのもので、大人よりもこっちがリアルで自然。こういう中で差別意識が生まれ、あの父親のような人間が生まれるのかもしれない。「ウーマン・トーキング」で少年の教育が大事と言っていたが、それはこの映画でも言えそうだ。