2012年8月5日日曜日

役に立たない精神分析

って、なんでこんなに人気あるの?
斎藤環氏の原発精神分析。
http://togetter.com/li/347020
8月末に出る本で詳しく書いてるそうですが、200ページもないのに1680円て、ぼったくりか?
批判するには買わなくちゃならないからなあ。めんどくさいし、批判してもあまり効果ないというか、精神分析ゲーム自体、社会的な影響はさほどないからほっときゃいいか。
キネ旬の例の講演採録で、「太陽を盗んだ男」の分析を読んで、こんなので原発論じられちゃたまらんと思ったが、おそらく新著はこの線で行くだろうとそのとき思った。
要するに、原子力はマッチョの世界っていうのは、確かにそうらしいけど、日本人の多くはマッチョじゃあるめえ、第一、日本人の半分は女で、女の多くはマッチョじゃねえ。
斎藤氏は「父殺しはあるけど母殺しはないから」とかで、「すべての母は毒母である」という本を出して、これもいろいろ言われているが、そのせいか、私がブログに書いた「母親の罪と母殺し」という記事に少しアクセスがあります。少しね。
でもまあ、斎藤氏はカルトの範囲内だからいいのかな。その線、越えないでね、ってとこか。

フロイトに始まった精神分析は現在では患者の治療には役に立たないので、今はみんな行動療法の研究をしているのだそうです。精神分析はいまや現代思想とか表象文化とか、そういうマイナーな哲学やそれを利用した物語の世界になっているようだ。どんな事象も精神分析でやると、物語になる。例の、アカハラだかセクハラだかで解雇になった某大学非常勤講師の現代思想・表象文化論の先生も、自分の陥った状況を精神分析や現代思想の言葉で書いていて、それが面白いストーリーになっていたのだが、私に言わせれば、あれは「風と木の詩」だ。学生がジルベールで、その父がオーギュで、先生がセルジュ。もろ、そうなんだけど、そういう反応はなかった。現代思想と表象文化のジャーゴンで書かれてるから誰も気づかなかったのか、あるいは、「風木」がすでに古いのか。このストーリー、もう削除されてしまったけど。

追記 ドイツ映画「コッホ先生と僕らの革命」という映画を見ました。19世紀後半、ドイツにサッカーをもたらした教師を主人公にした映画で、サッカーを通じていじめの問題を解決したりという内容になっています。ところで、斎藤環先生は、いじめをなくす方法の1つとして、学校の体育から球技をはずせ、と言っているのです(これは私は理解できるところがある)。なので、ぜひ、先生にはこの映画と、球技がいじめの原因という自論をからめて論じていただきたいものです。

追記2
「なぜ原発は推進されるのか」という記事。http://www.nuketext.org/suishin.html
その中の「政策決定に市民が参加しようとしないから」http://www.nuketext.org/suishin.html#reason7
ここに書いてあるさまざまな理由、市民が原発に反対しない、無関心の理由は、たぶん、日本の一般市民が原発を許してきた大きな理由として、多くの人が納得できるものでしょう。
また、その上にあるさまざまな理由(1-6)も、よく言われてきたことです。
それらを無視して、日本人は原発や原子力が大好きだ、危険な美女のようなものだから、という本を書くことに何の意味があるのか、あるいは講演で語り、映画雑誌に採録することに、ということを、問いたいわけなんですが、でもまあ、トンデモだと思えばいいのか。しかし、この期に及んでトンデモを原発で…。

追記3 あるツイッターから「世俗的な原発論はすぐれてどうでもいいので、ラカン的に読むとどうなるのか興味がある」ふうむ、なるほど。

追記4 実は、ラカンとかドゥルーズとかジジェクとか、いわゆる「現代思想」を愛する方のブログに、斎藤環氏の原子力享楽論について書いてあるのを見つけました。
が、この人はゴジラやガンダムには興味ないのか、「享楽」の部分にしか興味ないみたいで、なんだか的外れな議論をしてましたね(実際は、この人の考えが斎藤氏のメインだったりするかもしれないけど)。
そういえば、「あの空の花」の監督も、インタビューで、斎藤氏のアニメや漫画や怪獣ものと原子力の関係につながるようなことを言ってましたね。案外、同じ考えかもしれませんが、「昔は原子力に非常に魅力を感じたから原発推進のCMに出てしまったが、その後、考えが変わった」とはおっしゃってはいませんでした。
あの監督さんのCMについては、リアルタイムで見た人の話をネットで複数読むことができるのです。それを読むと、インタビューのようなきれいごとではないなと思うのですが、まあ、ふた昔も前のことで、それをほんの数行とはいえ、映画評の中に書いたのはけしからん、と、熱狂的ファンやその他の人が思うのも無理ないでしょう。私も、今では、あの映画評を書かなければよかったと思っています(ブログに書こうと思っていたとき、依頼が来て、かなり迷ったのだが、やはりブログの方がよかった)。私が書いたから、ではなく、監督さん自身が自分で決着をつけてほしかった。まさか、私の文について、その後、インタビューで質問するとは思ってなかったのでね。

この追記を書いているのは、広島・原爆の日。この日は毎年、私の誕生日の翌日なので、生まれてこのかた、私はいつも、暗い誕生日を迎えています。
私と原子力の歴史というか、ストーリーについては、そのうち、書きます。