2012年8月6日月曜日

私の原子力ヒストリー、またはストーリー

せっかくですから、広島・原爆の日に書いてしまいましょう。
子供の頃、私がなりたかった職業は2つあって、1つは漫画家、もう1つは物理学者でした。
小学2年のとき、テレビで「鉄腕アトム」のアニメが始まり、原作漫画も読むようになり、手塚治虫にあこがれた私は、手塚治虫がもともとは医師だったと知って、漫画家と物理学者になりたいなあ、と子供っぽく考えていたわけです。
医師ではなく、物理学者だったのは、やはり「アトム」をはじめとするSFのせいです。
当時(1960年代前半)、原子力という言葉は、子供心にも魅力的に聞こえていました。それは未来の科学で、要するに、現実のものじゃないという感覚で魅力的だったのです(私には)。
また、原子力エネルギーを使ったものでも原爆は悪だが、善の原子力があるという漠然とした空気が当時はありました。
あとで調べたら、原子力の平和利用が提言されたのが1950年代はじめ。それからアメリカ、イギリス、ソ連であいついで原子力発電が実用化されます。日本で原子力発電が実用化されるのは1960年代なかば。まさに私が原子力は未来の科学と思っていた時代に、日本は原発実用化にむけて着々と歩みを進めていたのです。原子力の平和利用、善の原子力という空気はそうした中から生まれていたのでしょう(当時はまだ原発の悪い面などはあまり気づかれていなかったかもしれません)。
そして1965年、小学5年生のとき、遠足で、東海村の原子力施設のそばの博物館へ行きました。中に入ると、係員が子供たちに原子力の明るい未来について熱心に説明していました。
そのときの私の反応

原子力って、未来の科学じゃなかったんだ。
原子力って、ただの電気を作る装置にすぎなかったんだ!

原子力のすばらしさを説明する博物館が、皮肉にも、私の原子力への夢を打ち砕いたのです。
同じ頃、親が買ってくれた国語辞典に、原爆でケロイドを負った人の写真が出ていました。その写真がとても怖くて、私はそのページを見ることができませんでした。そこで原爆と原子力の平和利用がくっつくことはありませんでしたが、ある種のトラウマになりました。
1970年代になると反原発運動が盛んになり、放射能汚染の問題や使用済み核燃料の問題が語られるようになります。私が反原発を意識したのもこの頃です。高校生でした。
すでに漫画家になるのは中学生であきらめ、物理学者も高校の物理の成績のひどさにあきらめていましたが、量子力学や素粒子物理学には興味がありました。もちろん、高校の物理もわかってないのだから本当にはわかってないのですが、原子の世界への興味は宇宙への興味と結びつき、大変魅力的に感じられました。特に1920年代の量子力学発展の時代は、ハイゼンベルクをはじめとする若い科学者たちが天才を発揮し、新しい科学を打ち立てるという、本当に魅力的な時代で、それに関する本をよく読んでいました。
量子力学はやがて原爆開発へとつながります。ナチスを逃れたユダヤ人科学者たちがロスアラモスで原爆を作り、ドイツに残ったハイゼンベルクはナチスのために原爆開発をしていたと疑われる。それをテーマにした2冊の本を夢中になって読み、それからだいぶたって、これをテーマにした劇「コペンハーゲン」についての書評をBookJapanに書くことになります。
原発に関しては、日本はとにかく、原爆と原発を分けていたので、私も1つとは考えていませんでした。3・11以後、原爆と原発を1つのものと考える言説が、反原発派にも、反原発批判派にも増えていますが、3・11前は、日本人は原爆と原発は違うものと考えていた、そういうふうに洗脳されていたと私には思えます。実際、毎年8月に2回も原爆被害者慰霊を行い、非核三原則を掲げ、原爆を落とされた国だから原爆絶対反対を唱える国が、原爆と原発を分けないはずがないと思います。日本人が原発依存になったのは、この2つを分けたのが最大の原因だと、私は思っています(そこには政府、電力会社、マスコミによる洗脳があり、原発推進CMも洗脳に一役買ったと思う)。私も反原発でありながら、分けるという洗脳には引っかかってしまいました。
以上がヒストリーというかストーリーというか、積極的に反原発のために何かしたわけじゃないし、適度に洗脳もされてたわけですが、これが私のバックグラウンドです。
広島と長崎には何度か行ったことがあります。最初に広島を訪れたのは高校の修学旅行。記念館の展示を見てまわるとき、女子生徒の中にはこわくて見ることができず、目をつぶったまま、友達に手を引かれている人もいました。原爆についてはこのように積極的に見せているのですが、原発については見せない。アメリカはどっちも見せないんだけど、このあたりにも日本は2つに分けてきたというのがわかります。