だいぶ昔に電子書籍になった本の印税が振り込まれた。
金額780円ほど。
え? こんなに?
以前は1年間でドトールのコーヒー1杯分しか入らないので、まったく気にもとめていなかったのだが、いったい。
この本が電子書籍になったのはもう10年以上前だと思うが、当時はまだキンドルなんてしゃれたものはなく、各社が勝手に読むための機械を作るので、全然売れてなかった。それがキンドルの登場で、売り上げが確実に上がったのだろう。
その本は紙の本も今も現役で、9割は翻訳者の文章、残りの1割が私の解説。だから、翻訳者は私の9倍の印税をもらうことになるので、私が200円でも翻訳者は1800円だったのだ、ということに今気づいた(とにかく金額が安いので、何も考えてなかったのだ)。
実は、すでに絶版になっている私の翻訳書を電子書籍にしたいという手紙が来て、OKすれば契約して電子書籍になるのだけど、1年で200円じゃ面倒でやってられないわ、と思って返事をしていない。が、考えてみたら、こっちの翻訳書は100パーセント私の本だから、その10倍の印税が入るのだ。
と、ちょっと欲の皮が突っ張ってきたが、解説を書いた方の本はすでに30年近く売れ続けているけれど、絶版になった翻訳書の方は最初から部数が少なく、しかも売れなくてすぐ絶版だったので、電子書籍になってもそんなに売れないと思う。契約などの面倒を考えたらやっぱりやってられないわ、というのが結論。第一、その本、アマゾンの古書だと1円じゃないかな? ただ、キンドルは購入した瞬間に自分の手元に来るというのが魅力のようです。
追記 電子書籍の欠点は、古本屋に売ったり人に譲ったりという再利用ができないことです。
2013年9月25日水曜日
2013年9月23日月曜日
ジュディ・デンチに花道を
ツタヤ閉店の日に1週間レンタルで借りたDVDは月曜が返却日。ということで、最後に残っていた「ドラゴン・タトゥーの女・完全版」と「007スカイフォール」を見る。
「ドラゴン・タトゥーの女」はスウェーデンのオリジナルの方だけど、やはりノオミ・ラパスはよい。劇場版もよかったが、3時間のロング版も細かいところまでていねいに描いて、一気に見ても全然飽きない。このスウェーデン版ミレニアムは第2部第3部は監督が替わり、第1部よりも軽い映画になってしまったが、この第1部は映像もいいし、話の展開などもきめ細かく、非常に見ごたえがある。リスベットのラパスだけでなく、ミカエル役の俳優はじめ、役者もみんないい。
特典映像でラパスの来日インタビューが入っていたが、素顔の彼女はまったくおだやかな表情の女性らしい柔和さを感じさせる人で、彼女自身、自分が女らしい女優なのでリスベットには選ばれないと思ってすごく腹が立った、と言っていた(でも、彼女が選ばれた)。演劇学校出身ではないそうだが、リスベットの役の演技は奥行きが深く、人間としてのリスベットをよく表現している。
「スカイフォール」はダニエル・クレイグの007第3作だが、クレイグのボンドがすごく老けているのにびっくり。「カジノ・ロワイヤル」ではMに甘えるマザコン少年のようだった彼が「慰めの報酬」では大人に成長、そして「スカイフォール」では早くも無精ひげに白いものがまじる初老(?)のボンドになっていた。Mも「お互い年をとった」みたいなことを言っているが、Mのジュディ・デンチはあんまり変わらないような。
この映画はボンド・ガールらしいヒロインがいないのも驚きで、ボンドとロマンチックな関係になる女性は非常に短い出番しかない。かわりに全編を通じてヒロインになっているのがデンチのM。Mを母親のように慕う諜報員に対して非情な態度をとるM、というのがまずあって、それでボンドは撃たれて九死に一生というのが出だし(これ、どうやって助かったのか描かれてないんですけど)。そして、今度は、昔、母のように慕っていたMに裏切られたという男シルヴァ(ハビエル・バルデム)がMに復讐にやってくる。ボンドは女王を守る騎士のようにMを連れて両親の残した屋敷にたてこもり、そこへシルヴァが、というのがクライマックス。
この映画、ものすごく評判がよくて、確かにこれまでの007の常識を破るようなドラマツルギーを感じるが、同時に、でもねえ、と、冷めた目で見ている自分がいるのを感じる。
途中まではインターネットを駆使した大規模な陰謀に見えるのですが、クライマックスは田舎の屋敷にボンドとMがたてこもって、武器はライフルとダイナマイトがあるくらい。そこへ攻めてくるシルヴァも、別に重装備じゃないし、仲間も案外少ない。シルヴァはただMと心中したいだけで、そのお膳立てをボンドが作ってるみたいな感じさえある(ボンドも仲間を呼んだりしない)。その辺割り引いても、これは西部劇のたてこもりと同じレベルなのだ。
そしてラスト、Mがレイフ・ファインズに交代し、登場人物の1人がミス・マネーペニーであることがわかり、それ以前に「シャーロック」のカンバーバッチみたいな(つか、パクリか?)若いQが出てきているので、この「スカイフォール」で007はリセットされ、新たなシリーズになっていくのだろうということが予想できる。
つまり、この映画は、90年代半ばのピアース・ブロスナンのシリーズから20年近くにわたってMを演じてきたジュディ・デンチの花道なのではないかと思う。
デンチは若い頃はシェイクスピアの舞台で活躍し、映画によく出るようになったのは80年代で、そのときすでに50代。何度もアカデミー賞候補になり、「恋におちたシェイクスピア」で受賞も果たし、その他、さまざまな賞を受賞している名優だが、最近になって、目の病気で視力が衰えて台本が読めないことを告白したのだという。Mを演じ続けるのも限界と、その引き際として「スカイフォール」が企画されたのではないか、と感じる。
「カジノ・ロワイヤル」でMに対してマザコンのように振舞うボンドを描いていたので、その路線で、Mを母親のように愛する2人の男のストーリーにしたのだろう。ダニエル・クレイグとハビエル・バルデムに愛されるヒロイン(母親のように、だけれど)としてのMの物語となったのだ。惜しいのは、バルデムのMへの執着がわりとあっさりしてるというか、「ノーカントリー」みたいな狂気がないのが物足りない気がする。あと、「カジノ・ロワイヤル」のときはMはベッドで夫と寝ていたけど、この映画では夫はもう死んでいるのだね。
デンチがMになったとき、Mは影の女王となり、エリザベス女王やサッチャー元首相のようなイギリスを支配する女性と重なったことだろう。実際、デンチはエリザベス一世とヴィクトリア女王を演じている。もっとも、彼女のMは鉄の女サッチャーに近いかもしれないが。
007では主要メンバーに引き際を用意するということはこれまでなく、いつのまにか人が変わるというのが普通だったと思うが、今回は特別なケースに思える。50周年という節目もあってのことだろうが、次はクレイグがまた若返って、新たなメンバーとシリーズ再開となるのだろうが、クレイグは007になってから演技や個性がわりと同じ方向のものばかりになっているので、昔のファンとしてはちょっと残念。監督のサム・メンデスは「ロード・トゥ・パーディション」の監督で、あの映画ではクレイグはバカ息子だったのに(あれが好きだったのだ)。クレイグもいつまでも007をやってはいないだろうけれど、まだしばらくはやるかな、という気がする。レイフ・ファインズとの対決シーンとか、名優激突で見ごたえがあった。007もだんだんシェイクスピア劇みたいになっていくのだろうか?
この映画のデンチについての英語のインタビュー記事。
http://www.huffingtonpost.com/2012/11/09/judi-dench-skyfall-007-bond_n_2102516.html
最後に彼女は、「幽霊になってまた出てくるかもよ。シェイクスピア劇みたいに」と言っている。
なお、Mは引退しても、彼女の映画出演はまだまだ続くようだ。
「ドラゴン・タトゥーの女」はスウェーデンのオリジナルの方だけど、やはりノオミ・ラパスはよい。劇場版もよかったが、3時間のロング版も細かいところまでていねいに描いて、一気に見ても全然飽きない。このスウェーデン版ミレニアムは第2部第3部は監督が替わり、第1部よりも軽い映画になってしまったが、この第1部は映像もいいし、話の展開などもきめ細かく、非常に見ごたえがある。リスベットのラパスだけでなく、ミカエル役の俳優はじめ、役者もみんないい。
特典映像でラパスの来日インタビューが入っていたが、素顔の彼女はまったくおだやかな表情の女性らしい柔和さを感じさせる人で、彼女自身、自分が女らしい女優なのでリスベットには選ばれないと思ってすごく腹が立った、と言っていた(でも、彼女が選ばれた)。演劇学校出身ではないそうだが、リスベットの役の演技は奥行きが深く、人間としてのリスベットをよく表現している。
「スカイフォール」はダニエル・クレイグの007第3作だが、クレイグのボンドがすごく老けているのにびっくり。「カジノ・ロワイヤル」ではMに甘えるマザコン少年のようだった彼が「慰めの報酬」では大人に成長、そして「スカイフォール」では早くも無精ひげに白いものがまじる初老(?)のボンドになっていた。Mも「お互い年をとった」みたいなことを言っているが、Mのジュディ・デンチはあんまり変わらないような。
この映画はボンド・ガールらしいヒロインがいないのも驚きで、ボンドとロマンチックな関係になる女性は非常に短い出番しかない。かわりに全編を通じてヒロインになっているのがデンチのM。Mを母親のように慕う諜報員に対して非情な態度をとるM、というのがまずあって、それでボンドは撃たれて九死に一生というのが出だし(これ、どうやって助かったのか描かれてないんですけど)。そして、今度は、昔、母のように慕っていたMに裏切られたという男シルヴァ(ハビエル・バルデム)がMに復讐にやってくる。ボンドは女王を守る騎士のようにMを連れて両親の残した屋敷にたてこもり、そこへシルヴァが、というのがクライマックス。
この映画、ものすごく評判がよくて、確かにこれまでの007の常識を破るようなドラマツルギーを感じるが、同時に、でもねえ、と、冷めた目で見ている自分がいるのを感じる。
途中まではインターネットを駆使した大規模な陰謀に見えるのですが、クライマックスは田舎の屋敷にボンドとMがたてこもって、武器はライフルとダイナマイトがあるくらい。そこへ攻めてくるシルヴァも、別に重装備じゃないし、仲間も案外少ない。シルヴァはただMと心中したいだけで、そのお膳立てをボンドが作ってるみたいな感じさえある(ボンドも仲間を呼んだりしない)。その辺割り引いても、これは西部劇のたてこもりと同じレベルなのだ。
そしてラスト、Mがレイフ・ファインズに交代し、登場人物の1人がミス・マネーペニーであることがわかり、それ以前に「シャーロック」のカンバーバッチみたいな(つか、パクリか?)若いQが出てきているので、この「スカイフォール」で007はリセットされ、新たなシリーズになっていくのだろうということが予想できる。
つまり、この映画は、90年代半ばのピアース・ブロスナンのシリーズから20年近くにわたってMを演じてきたジュディ・デンチの花道なのではないかと思う。
デンチは若い頃はシェイクスピアの舞台で活躍し、映画によく出るようになったのは80年代で、そのときすでに50代。何度もアカデミー賞候補になり、「恋におちたシェイクスピア」で受賞も果たし、その他、さまざまな賞を受賞している名優だが、最近になって、目の病気で視力が衰えて台本が読めないことを告白したのだという。Mを演じ続けるのも限界と、その引き際として「スカイフォール」が企画されたのではないか、と感じる。
「カジノ・ロワイヤル」でMに対してマザコンのように振舞うボンドを描いていたので、その路線で、Mを母親のように愛する2人の男のストーリーにしたのだろう。ダニエル・クレイグとハビエル・バルデムに愛されるヒロイン(母親のように、だけれど)としてのMの物語となったのだ。惜しいのは、バルデムのMへの執着がわりとあっさりしてるというか、「ノーカントリー」みたいな狂気がないのが物足りない気がする。あと、「カジノ・ロワイヤル」のときはMはベッドで夫と寝ていたけど、この映画では夫はもう死んでいるのだね。
デンチがMになったとき、Mは影の女王となり、エリザベス女王やサッチャー元首相のようなイギリスを支配する女性と重なったことだろう。実際、デンチはエリザベス一世とヴィクトリア女王を演じている。もっとも、彼女のMは鉄の女サッチャーに近いかもしれないが。
007では主要メンバーに引き際を用意するということはこれまでなく、いつのまにか人が変わるというのが普通だったと思うが、今回は特別なケースに思える。50周年という節目もあってのことだろうが、次はクレイグがまた若返って、新たなメンバーとシリーズ再開となるのだろうが、クレイグは007になってから演技や個性がわりと同じ方向のものばかりになっているので、昔のファンとしてはちょっと残念。監督のサム・メンデスは「ロード・トゥ・パーディション」の監督で、あの映画ではクレイグはバカ息子だったのに(あれが好きだったのだ)。クレイグもいつまでも007をやってはいないだろうけれど、まだしばらくはやるかな、という気がする。レイフ・ファインズとの対決シーンとか、名優激突で見ごたえがあった。007もだんだんシェイクスピア劇みたいになっていくのだろうか?
この映画のデンチについての英語のインタビュー記事。
http://www.huffingtonpost.com/2012/11/09/judi-dench-skyfall-007-bond_n_2102516.html
最後に彼女は、「幽霊になってまた出てくるかもよ。シェイクスピア劇みたいに」と言っている。
なお、Mは引退しても、彼女の映画出演はまだまだ続くようだ。
2013年9月22日日曜日
彼岸花@近所
土曜日はコインランドリーで洗濯。が、うちはランドリーが遠いので、お金を入れたらいったんうちに帰る、ということができない。なので、カメラを持ち出して、適当に散歩して猫の写真でも撮ろうかと思ったが、昼間の暑い時間帯なので猫はいなかった(1匹いたが、カメラを出す前に逃げられた)。
しかし、草ぼうぼうの空き地で彼岸花を発見。赤と白が一緒に生えていて、なかなかの色合い。
コインランドリーそばの花壇にも花が。
その花壇はいろいろな草花が植えてあるのだが、よく見るとほおずきが。
またさっきの空き地へ行ったら、奥の方にこんなに彼岸花が。赤も白もいっぱい咲いていて、なかなかの見ごたえ。
夕方から散歩に出る。近所の猫。
上野公園。鷺がいた。
水面の色は足こぎボートの色。
ライトアップ。もう夕暮れ。
しかし、草ぼうぼうの空き地で彼岸花を発見。赤と白が一緒に生えていて、なかなかの色合い。
コインランドリーそばの花壇にも花が。
その花壇はいろいろな草花が植えてあるのだが、よく見るとほおずきが。
またさっきの空き地へ行ったら、奥の方にこんなに彼岸花が。赤も白もいっぱい咲いていて、なかなかの見ごたえ。
夕方から散歩に出る。近所の猫。
上野公園。鷺がいた。
水面の色は足こぎボートの色。
ライトアップ。もう夕暮れ。
2013年9月20日金曜日
彼岸花
彼岸花がかなり咲いているので、写真を撮りに谷中散歩。
まず、路地裏を歩いていたら、こんな建物が。
(あとでHPを見つけました。入ってみればよかった。http://gallery.necomachi.com/)
ギャラリーらしいのだが、この階段を上がらないとわからない。
写真だけ撮って、上には上がらず。
そして、お寺がいくつもある場所へ。お寺の入口に紅白の彼岸花。
白は満開だが、赤はまだこれからのよう。
猫のいる墓地へ。春は花でいっぱいのこのお寺は今は花はなし。仏像に横から日差しが。
墓地の中。一列に彼岸花が咲く。まだつぼみが多い。
猫の写真はあまり撮らなかった。
トンボ。
トンボのそばの彼岸花。バックが青空だと赤が映える。
いつのまにか日が落ちて、シャッタースピードが遅くなった。
まず、路地裏を歩いていたら、こんな建物が。
(あとでHPを見つけました。入ってみればよかった。http://gallery.necomachi.com/)
ギャラリーらしいのだが、この階段を上がらないとわからない。
写真だけ撮って、上には上がらず。
そして、お寺がいくつもある場所へ。お寺の入口に紅白の彼岸花。
白は満開だが、赤はまだこれからのよう。
猫のいる墓地へ。春は花でいっぱいのこのお寺は今は花はなし。仏像に横から日差しが。
墓地の中。一列に彼岸花が咲く。まだつぼみが多い。
猫の写真はあまり撮らなかった。
トンボ。
トンボのそばの彼岸花。バックが青空だと赤が映える。
いつのまにか日が落ちて、シャッタースピードが遅くなった。
老いらくの恋
老いた男が若い女に恋をする、という映画を今週は2本も見てしまった。
「ベルエポック」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞したスペインのフェルナンド・トルエバ監督による「ふたりのアトリエ ある彫刻家とモデル」は、ジャン・ロシュフォール演じる老いた彫刻家が若い女性と出会い、作品を仕上げていく。
舞台は第二次世界大戦中、ドイツ占領下のフランス。主人公は実在の彫刻家がモデルらしいが、彼が若い女性をモデルに彫刻を仕上げる間に、いろいろな人が現れ、そして去っていく。
若い女性を連れてきたのは彫刻家の妻(クラウディア・カルディナーレ)で、ミューズを失っている夫のために、夫好みの肉体を持つ彼女を町で拾って連れてきたのだ。
しかし、この女性は実は対独レジスタンスの活動もしていて、仲間の青年がやってきて彼女と同居したりする。彫刻家は妻がいるし、若い彼女に言い寄ったりはしないが、彼女が青年とむつまじくしているのを見ると嫉妬にかられる。
彫刻家には美術研究家のドイツ軍将校の知り合いがいて、彼も彫刻家のアトリエを訪れ、フランス文学や美術の話をして帰る。将校はロシア戦線へ行く予定なので、生きて帰れないかもしれない。
その後、今度はレジスタンスの青年が去り、そして妻とモデルの女性も旅立っていく。ひとり残された彫刻家が完成した彫刻を庭に出すラストに衝撃が走る。
モノクロの映像が、ロシュフォール演じる彫刻家のストイックさにぴったりであり、また、色を塗らない彫刻という芸術にも合っている。
ジュゼッペ・トルナトーレの「鑑定士と顔のない依頼人」では、ジェフリー・ラッシュ演じる鑑定士にしてオークショニアが鑑定の依頼をしてきた若い女性に恋してしまう。
ロシュフォールの芸術に賭けるストイックな彫刻家に比べ、こちらの鑑定士は同じ美術品を扱う職業なのに、なんというか、ストイックとは程遠い。
だからといって別にスケベではなく、むしろ逆で、あまりに潔癖で女性と恋もできないまま年をとってしまった初老の男。でも、ストイックとはまったく別なんだなあ、と気づくのは、「ふたりのアトリエ」を見た直後だからだ。
主人公の鑑定士ヴァージル・オールドマン(オールドマンて、文字通り老人)は、両親を失い、家具や美術品をオークションで売りたいと思っている若い女性クレアから相談を受ける。しかし、クレアは彼の前に姿を見せない。なぜなら、彼女は広場恐怖症、対人恐怖症で、外に出られない、人に会えないからなのだ。オールドマンは彼女の屋敷に行き、鍵を預かり、鑑定をする。そして、彼女の姿をこっそり見た彼は、彼女に恋をしてしまう、というお話。
オールドマンは非常に成功した鑑定士・オークショニアで、しかも価値のある美術品を価値がないように見せかけて安く手に入れたりと、ずるいこともしている。秘密の部屋には女性の肖像画が多数飾ってあり、彼は生身の女性ではなく、二次元の女性に囲まれて暮らしている(要するに、日本のアニメオタクとかと同じですな)。
彼は非常に潔癖で、食事をするときも手袋をしたまま、携帯電話もハンカチをかぶせて使う。そんな彼が、対人恐怖症で外に出たがらない女性クレアとの間に共通点を感じ、お互いに惹かれあうが、しかし、クレアの行動はどこか変、ということで、まあ、最初から彼女が怪しいわけです(このくらいはネタバレにならんだろ)。
オールドマンが親しいのは元画家でオークションの不正仲間の男と機械に強い青年。あとはあまり人付き合いもしていないような感じ。クレアの屋敷の目の前にカフェがあって、そこにやたら数字に強い奇妙な女がいるが、登場人物としては彼女が謎めいて面白い。
正直、この手の映画を見慣れている人なら、途中でだいたいネタがわかってしまうと思う。私もたぶんこうだろうと思ったら、そのとおりだった。ただ、一番最後にわかるネタは気づかず、やられた。
映画には絵画だけでなく、18世紀の自動人形(字幕は機械人形だったが、自動人形の方が一般的だと思う)らしきものが出てきたり、ラストのプラハのカフェが時計の歯車を巨大にしたようなインテリアだったりと、スコセッシの「ヒューゴの不思議な発明」の影響を受けたのかな、と思うところがある。ちなみに、オールドマンの友人を演じるドナルド・サザーランドが主演したフェリーニの「カサノバ」にも自動人形が登場する。
というわけで、面白い映画なのだが、見終わってどうもすっきりしないのは、オールドマンという男が同情すべき人なのかどうかがよくわからないからだ。潔癖症だがずるいこともし、女性の肖像画に囲まれて暮らす男が若い女性にメロメロになるのを、同情して見るべきなのか、皮肉に見るべきなのかわからないのだ。また、他の人物も、何を思ってこういうことをするのか、イマイチわからない。登場人物の誰の立場になっても、カタルシスが感じられないのだ。
「ベルエポック」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞したスペインのフェルナンド・トルエバ監督による「ふたりのアトリエ ある彫刻家とモデル」は、ジャン・ロシュフォール演じる老いた彫刻家が若い女性と出会い、作品を仕上げていく。
舞台は第二次世界大戦中、ドイツ占領下のフランス。主人公は実在の彫刻家がモデルらしいが、彼が若い女性をモデルに彫刻を仕上げる間に、いろいろな人が現れ、そして去っていく。
若い女性を連れてきたのは彫刻家の妻(クラウディア・カルディナーレ)で、ミューズを失っている夫のために、夫好みの肉体を持つ彼女を町で拾って連れてきたのだ。
しかし、この女性は実は対独レジスタンスの活動もしていて、仲間の青年がやってきて彼女と同居したりする。彫刻家は妻がいるし、若い彼女に言い寄ったりはしないが、彼女が青年とむつまじくしているのを見ると嫉妬にかられる。
彫刻家には美術研究家のドイツ軍将校の知り合いがいて、彼も彫刻家のアトリエを訪れ、フランス文学や美術の話をして帰る。将校はロシア戦線へ行く予定なので、生きて帰れないかもしれない。
その後、今度はレジスタンスの青年が去り、そして妻とモデルの女性も旅立っていく。ひとり残された彫刻家が完成した彫刻を庭に出すラストに衝撃が走る。
モノクロの映像が、ロシュフォール演じる彫刻家のストイックさにぴったりであり、また、色を塗らない彫刻という芸術にも合っている。
ジュゼッペ・トルナトーレの「鑑定士と顔のない依頼人」では、ジェフリー・ラッシュ演じる鑑定士にしてオークショニアが鑑定の依頼をしてきた若い女性に恋してしまう。
ロシュフォールの芸術に賭けるストイックな彫刻家に比べ、こちらの鑑定士は同じ美術品を扱う職業なのに、なんというか、ストイックとは程遠い。
だからといって別にスケベではなく、むしろ逆で、あまりに潔癖で女性と恋もできないまま年をとってしまった初老の男。でも、ストイックとはまったく別なんだなあ、と気づくのは、「ふたりのアトリエ」を見た直後だからだ。
主人公の鑑定士ヴァージル・オールドマン(オールドマンて、文字通り老人)は、両親を失い、家具や美術品をオークションで売りたいと思っている若い女性クレアから相談を受ける。しかし、クレアは彼の前に姿を見せない。なぜなら、彼女は広場恐怖症、対人恐怖症で、外に出られない、人に会えないからなのだ。オールドマンは彼女の屋敷に行き、鍵を預かり、鑑定をする。そして、彼女の姿をこっそり見た彼は、彼女に恋をしてしまう、というお話。
オールドマンは非常に成功した鑑定士・オークショニアで、しかも価値のある美術品を価値がないように見せかけて安く手に入れたりと、ずるいこともしている。秘密の部屋には女性の肖像画が多数飾ってあり、彼は生身の女性ではなく、二次元の女性に囲まれて暮らしている(要するに、日本のアニメオタクとかと同じですな)。
彼は非常に潔癖で、食事をするときも手袋をしたまま、携帯電話もハンカチをかぶせて使う。そんな彼が、対人恐怖症で外に出たがらない女性クレアとの間に共通点を感じ、お互いに惹かれあうが、しかし、クレアの行動はどこか変、ということで、まあ、最初から彼女が怪しいわけです(このくらいはネタバレにならんだろ)。
オールドマンが親しいのは元画家でオークションの不正仲間の男と機械に強い青年。あとはあまり人付き合いもしていないような感じ。クレアの屋敷の目の前にカフェがあって、そこにやたら数字に強い奇妙な女がいるが、登場人物としては彼女が謎めいて面白い。
正直、この手の映画を見慣れている人なら、途中でだいたいネタがわかってしまうと思う。私もたぶんこうだろうと思ったら、そのとおりだった。ただ、一番最後にわかるネタは気づかず、やられた。
映画には絵画だけでなく、18世紀の自動人形(字幕は機械人形だったが、自動人形の方が一般的だと思う)らしきものが出てきたり、ラストのプラハのカフェが時計の歯車を巨大にしたようなインテリアだったりと、スコセッシの「ヒューゴの不思議な発明」の影響を受けたのかな、と思うところがある。ちなみに、オールドマンの友人を演じるドナルド・サザーランドが主演したフェリーニの「カサノバ」にも自動人形が登場する。
というわけで、面白い映画なのだが、見終わってどうもすっきりしないのは、オールドマンという男が同情すべき人なのかどうかがよくわからないからだ。潔癖症だがずるいこともし、女性の肖像画に囲まれて暮らす男が若い女性にメロメロになるのを、同情して見るべきなのか、皮肉に見るべきなのかわからないのだ。また、他の人物も、何を思ってこういうことをするのか、イマイチわからない。登場人物の誰の立場になっても、カタルシスが感じられないのだ。
2013年9月18日水曜日
ツタヤ閉店の翌日
ツタヤ閉店の日に借りた5枚のDVDのうち、2枚は2泊3日なので、さっさと見て返そうと思い、すぐに見た。
1つは「ゼロ・ダーク・サーティ」。これは新作なので2泊3日。
もう1つは「東京物語」。旧作2泊3日100円。
この「東京物語」が失敗であった。といっても、映画の内容が、ではなく、ディスクが。
ディスクに問題があるようで(肉眼ではわからない)、時々、止まって動かなくなる。それでスキップしてなんとか最後まで見たが、見られない箇所がいくつか出てしまったのだ。
このツタヤでは以前にもこういうケースが何度かあって、たくさん借りているので確率的にそうなるのかもしれないけど、何度も借りられている旧作だったら苦情が出ているはずなのに、それでも置いてレンタルしているってのがやはり気分が悪い。しかも、今回は苦情もいえないのだ。
というわけで、不完全な視聴ではあるけれど、「東京物語」を見て思ったこと。
東京の空が広い! ビルとか全然ないやんけ。いや、長男の家のあたり、家そのものがあまりないのか? あそこは堀切あたりらしいけど、そこからさらに東へ行くと、寅さんの柴又があり、あの「野菊の墓」の矢切の渡し(歌でも有名)があり、川を渡れば千葉県。「東京家族」のつくし野と違って、こちらは私の守備範囲だ。
しかし、あそこを、東京のはずれの方と言われてしまうと。でも確かにどこの田舎かと思うような風景。
そして、最初の方に出てくる煙突は、千住のお化け煙突でしょうかね。なつかしい。
老夫婦が観光バスに乗るシーンでは、皇居の背後にビルが1つもないし、銀座は今もあるのは和光のビルくらい。どこかのビルの階段を上がって東京を眼下に見下ろすシーンがあるけど、まだ東京タワーもできていなかったのだな。
それでも、小津監督は映画のはしばしに黒い煙を吐く煙突や工場、そして建築中のビルの鉄骨の映像を入れて、東京がこれからまったく違う町になるということを予感させている。そこはすごい。
この映画は東京オリンピックの11年前だけれど、オリンピックの前と後では東京はもう同じものではなくなったのだな、と感じた。
「東京物語」から60年たち、あの堀切の数キロ南に、実はスカイツリーが建っているのだ。
「ゼロ・ダーク・サーティ」の方は、「ハート・ロッカー」がいやな感じがして見なかったキャスリン・ビグローの最新作だけれど、まあ、「アルゴ」のようなアメリカ万歳ではないけれど、アメリカのやってることを万歳にしないで描くのはこれが限界なのかな、という、やはりあまりいい印象を受けなかった。万歳にはしていないけれど、否定も批判もしていない。そこがオリヴァー・ストーンなどの映画と違う。基本的に、アメリカとアメリカ人のことしか頭にない感じ。
ただ、興味深かったのは、主人公のマヤという女性のこと。この映画は人物の来歴などはほとんど描かず、ただ、ビンラディン暗殺に至るまでのCIAの活動を描くだけで、そのエピソードもただ羅列するだけで因果関係で引っ張るところはなく、わりと平板。正直、長すぎると思った。
それはともかく、このマヤというCIAの分析官、いったいどういう生まれでどういう人なのか、さっぱりわからない。高卒でCIAにリクルートされて12年たつ、というせりふがあるので、このせりふのシーンでは30歳なのだろう。そのシーンは彼女がビンラディン捜索班に入ってから5年くらいたったときなので、彼女は25歳くらいでこの仕事に配属されたことになる。若いのに年上の男たちに向かってきついことを言ったり、けっこう女王様なのだが、ビンラディンのアジトを突き止めたこと以外は何の実績もなかったような。ただ、彼女が何が何でもビンラディンを殺すという執念でまわりを動かして活動したので、ビンラディンは暗殺されました、というお話。その執念のきっかけが自爆テロで仲間が死んだから、というのもイマイチ説得力に欠ける。そういう私的な感情で動く女性に描かれていないので。
以下は私の勝手な憶測だが、高卒ですぐにCIAに入ったということは、彼女の家族、おそらく父親がCIA局員で、娘も将来は局員にするつもりで教育していたから高卒でリクルートされたのだろう。そして、入局してからも徹底的に局員としての訓練を受け、拷問が日常化している現場へ派遣された。彼女は最初は拷問の現場を見て多少ひるむが、その後は自分でも拷問を使った取調べをするようになる。彼らのように拷問が平気な人はそう多くはないだろう。彼らは戦場で正気を失ったから虐殺をしてしまうような兵士とはまったく違う人たちだ。
となると、マヤは生まれてからずっと、こういう拷問が平気なCIA局員になるような教育を受け、訓練を受け、そして若いのにビンラディン捜索の中心人物になったわけで、これは一種の洗脳じゃないかと思えてくる。テロリストも子供や若者を洗脳して仲間にし、自爆テロをさせたりするが、マヤも同じようにCIAの非情な殺し屋として洗脳され、作られたのだ、という気がする。実際、マヤはある意味、ターミネーターのようなところがある。
映画の冒頭、拷問されるアラブ人の流す涙と、ラストでマヤが流す涙がコントラストになっているが、どちらも流す涙の意味がよくわからない。というか、マヤの涙をむなしさと受け取って、この戦いのむなしさと解釈し、映画を評価することもできるが、マヤは果たして戦いのむなしさを感じるような人間なのか。ターミネーターは涙を流すのか。それはなぜ?
なんにしろ、CIAをヒーローとして描く映画が2本もアカデミー賞の候補になり、1本が受賞したという意味を、もっと深く考えてみなければならない。ハリウッドはCIAをヒーローにすることはあまりなかったと思うのだが。
というふうな感想を抱きながら、2枚のDVDを返しにツタヤへ行った。閉店翌日ということで、ガラスの扉からは棚を片付ける従業員の姿が見えた。DVDを借りに来た親子が閉店と知って、がっかりして帰っていった。
1つは「ゼロ・ダーク・サーティ」。これは新作なので2泊3日。
もう1つは「東京物語」。旧作2泊3日100円。
この「東京物語」が失敗であった。といっても、映画の内容が、ではなく、ディスクが。
ディスクに問題があるようで(肉眼ではわからない)、時々、止まって動かなくなる。それでスキップしてなんとか最後まで見たが、見られない箇所がいくつか出てしまったのだ。
このツタヤでは以前にもこういうケースが何度かあって、たくさん借りているので確率的にそうなるのかもしれないけど、何度も借りられている旧作だったら苦情が出ているはずなのに、それでも置いてレンタルしているってのがやはり気分が悪い。しかも、今回は苦情もいえないのだ。
というわけで、不完全な視聴ではあるけれど、「東京物語」を見て思ったこと。
東京の空が広い! ビルとか全然ないやんけ。いや、長男の家のあたり、家そのものがあまりないのか? あそこは堀切あたりらしいけど、そこからさらに東へ行くと、寅さんの柴又があり、あの「野菊の墓」の矢切の渡し(歌でも有名)があり、川を渡れば千葉県。「東京家族」のつくし野と違って、こちらは私の守備範囲だ。
しかし、あそこを、東京のはずれの方と言われてしまうと。でも確かにどこの田舎かと思うような風景。
そして、最初の方に出てくる煙突は、千住のお化け煙突でしょうかね。なつかしい。
老夫婦が観光バスに乗るシーンでは、皇居の背後にビルが1つもないし、銀座は今もあるのは和光のビルくらい。どこかのビルの階段を上がって東京を眼下に見下ろすシーンがあるけど、まだ東京タワーもできていなかったのだな。
それでも、小津監督は映画のはしばしに黒い煙を吐く煙突や工場、そして建築中のビルの鉄骨の映像を入れて、東京がこれからまったく違う町になるということを予感させている。そこはすごい。
この映画は東京オリンピックの11年前だけれど、オリンピックの前と後では東京はもう同じものではなくなったのだな、と感じた。
「東京物語」から60年たち、あの堀切の数キロ南に、実はスカイツリーが建っているのだ。
「ゼロ・ダーク・サーティ」の方は、「ハート・ロッカー」がいやな感じがして見なかったキャスリン・ビグローの最新作だけれど、まあ、「アルゴ」のようなアメリカ万歳ではないけれど、アメリカのやってることを万歳にしないで描くのはこれが限界なのかな、という、やはりあまりいい印象を受けなかった。万歳にはしていないけれど、否定も批判もしていない。そこがオリヴァー・ストーンなどの映画と違う。基本的に、アメリカとアメリカ人のことしか頭にない感じ。
ただ、興味深かったのは、主人公のマヤという女性のこと。この映画は人物の来歴などはほとんど描かず、ただ、ビンラディン暗殺に至るまでのCIAの活動を描くだけで、そのエピソードもただ羅列するだけで因果関係で引っ張るところはなく、わりと平板。正直、長すぎると思った。
それはともかく、このマヤというCIAの分析官、いったいどういう生まれでどういう人なのか、さっぱりわからない。高卒でCIAにリクルートされて12年たつ、というせりふがあるので、このせりふのシーンでは30歳なのだろう。そのシーンは彼女がビンラディン捜索班に入ってから5年くらいたったときなので、彼女は25歳くらいでこの仕事に配属されたことになる。若いのに年上の男たちに向かってきついことを言ったり、けっこう女王様なのだが、ビンラディンのアジトを突き止めたこと以外は何の実績もなかったような。ただ、彼女が何が何でもビンラディンを殺すという執念でまわりを動かして活動したので、ビンラディンは暗殺されました、というお話。その執念のきっかけが自爆テロで仲間が死んだから、というのもイマイチ説得力に欠ける。そういう私的な感情で動く女性に描かれていないので。
以下は私の勝手な憶測だが、高卒ですぐにCIAに入ったということは、彼女の家族、おそらく父親がCIA局員で、娘も将来は局員にするつもりで教育していたから高卒でリクルートされたのだろう。そして、入局してからも徹底的に局員としての訓練を受け、拷問が日常化している現場へ派遣された。彼女は最初は拷問の現場を見て多少ひるむが、その後は自分でも拷問を使った取調べをするようになる。彼らのように拷問が平気な人はそう多くはないだろう。彼らは戦場で正気を失ったから虐殺をしてしまうような兵士とはまったく違う人たちだ。
となると、マヤは生まれてからずっと、こういう拷問が平気なCIA局員になるような教育を受け、訓練を受け、そして若いのにビンラディン捜索の中心人物になったわけで、これは一種の洗脳じゃないかと思えてくる。テロリストも子供や若者を洗脳して仲間にし、自爆テロをさせたりするが、マヤも同じようにCIAの非情な殺し屋として洗脳され、作られたのだ、という気がする。実際、マヤはある意味、ターミネーターのようなところがある。
映画の冒頭、拷問されるアラブ人の流す涙と、ラストでマヤが流す涙がコントラストになっているが、どちらも流す涙の意味がよくわからない。というか、マヤの涙をむなしさと受け取って、この戦いのむなしさと解釈し、映画を評価することもできるが、マヤは果たして戦いのむなしさを感じるような人間なのか。ターミネーターは涙を流すのか。それはなぜ?
なんにしろ、CIAをヒーローとして描く映画が2本もアカデミー賞の候補になり、1本が受賞したという意味を、もっと深く考えてみなければならない。ハリウッドはCIAをヒーローにすることはあまりなかったと思うのだが。
というふうな感想を抱きながら、2枚のDVDを返しにツタヤへ行った。閉店翌日ということで、ガラスの扉からは棚を片付ける従業員の姿が見えた。DVDを借りに来た親子が閉店と知って、がっかりして帰っていった。
2013年9月17日火曜日
ツタヤ閉店の日
16日は近所のツタヤの閉店の日でした。
前にも記事を書きましたが、その後、ネットの情報で、同じ区の西地区に移転することがわかりました。
が、私の住んでいる区は、南北には地下鉄がいくつも走っているのに、東西には交通機関が何もない。バスも区の境を走っているので、東西の移動には使えない。なので、同じ区内の移動なのに、東西に移動するにはまず地下鉄で別の区の駅に行き、そこで乗り換えて自分の区に戻って目的地へ行くという、時間もかかるし交通費もかかる方法しかないのです。
よって、同じ区内でも東地区と西地区は全然別の世界。むしろ、隣の区の方が便利、という状況。
というわけで、東地区のツタヤが閉店して西地区に新たに開店しても、そこへ行くことはまずないと思います。だって、隣の区のツタヤの方が便利なんだもの。
というわけで、ついに16日に閉店、ということで、最後に行ってみました。
16日が最後のレンタルできる日、ということで、2泊3日で100円の旧作を2本借りてみようかな、と思ったのですが、店に入ると、3分の1くらいの棚がすでに空っぽ。先月借りた「惑星ソラリス」はジャケットすらなく、西地区に移転といっても、この店のDVDがすべて移転するとは限らないと思いました。第一、新たにできる店が大きいとは限らないし。
お客さんも最後だからたくさんいるということもなく、レンタルされているDVDもとても少なくて、なんだか寂しくなってしまいました。が、並んでいるDVDを見ているうちに、やっぱり4枚1000円1週間のレンタルをしたくなり、結局、「ゼロ・ダーク・サーティ」、「スカイフォール」、「シルク・ド・ソレイユ」、「ドラゴン・タトゥーの女・完全版」(スウェーデン映画の方)を4枚1000円で、そして「東京物語」を100円でレンタル。CD無料レンタルの券をくれて、西地区の新しい店で使えるといわれたけど、そこは行かないのですぐゴミ箱に。寂しいなあ。この店、レンタルすると、ファミマの割引券やジョナサンやバーミヤンの特定メニューの割引券をくれたんですけどね。ファミマ以外は使いませんでしたが。
レンタルしたあと、通りの反対側から店の写真を携帯で撮っておきました。長い間、お世話になりました。
前にも記事を書きましたが、その後、ネットの情報で、同じ区の西地区に移転することがわかりました。
が、私の住んでいる区は、南北には地下鉄がいくつも走っているのに、東西には交通機関が何もない。バスも区の境を走っているので、東西の移動には使えない。なので、同じ区内の移動なのに、東西に移動するにはまず地下鉄で別の区の駅に行き、そこで乗り換えて自分の区に戻って目的地へ行くという、時間もかかるし交通費もかかる方法しかないのです。
よって、同じ区内でも東地区と西地区は全然別の世界。むしろ、隣の区の方が便利、という状況。
というわけで、東地区のツタヤが閉店して西地区に新たに開店しても、そこへ行くことはまずないと思います。だって、隣の区のツタヤの方が便利なんだもの。
というわけで、ついに16日に閉店、ということで、最後に行ってみました。
16日が最後のレンタルできる日、ということで、2泊3日で100円の旧作を2本借りてみようかな、と思ったのですが、店に入ると、3分の1くらいの棚がすでに空っぽ。先月借りた「惑星ソラリス」はジャケットすらなく、西地区に移転といっても、この店のDVDがすべて移転するとは限らないと思いました。第一、新たにできる店が大きいとは限らないし。
お客さんも最後だからたくさんいるということもなく、レンタルされているDVDもとても少なくて、なんだか寂しくなってしまいました。が、並んでいるDVDを見ているうちに、やっぱり4枚1000円1週間のレンタルをしたくなり、結局、「ゼロ・ダーク・サーティ」、「スカイフォール」、「シルク・ド・ソレイユ」、「ドラゴン・タトゥーの女・完全版」(スウェーデン映画の方)を4枚1000円で、そして「東京物語」を100円でレンタル。CD無料レンタルの券をくれて、西地区の新しい店で使えるといわれたけど、そこは行かないのですぐゴミ箱に。寂しいなあ。この店、レンタルすると、ファミマの割引券やジョナサンやバーミヤンの特定メニューの割引券をくれたんですけどね。ファミマ以外は使いませんでしたが。
レンタルしたあと、通りの反対側から店の写真を携帯で撮っておきました。長い間、お世話になりました。
2013年9月14日土曜日
マイ・マザー(ネタバレ大あり)
「わたしはロランス」が公開中のカナダの若き新鋭グザヴィエ・ドランの処女作「マイ・マザー」を見てきた。
「わたしはロランス」が23歳の作ならば、こちらは19歳のときの作品。10代後半で優れた小説を発表する人は少なくないが、映画となると大勢の年上の人を動かさねばならず、技術だけでなくさまざまな面で若いとむずかしいと思うのだが、19歳とは思えない成熟した出来栄えで驚いた。
「わたしはロランス」に比べるとまだ洗練が足りないが、内容的にはむしろ、こちらの方が深いものを感じさせる。
主人公はドランの分身を思わせる16歳の高校生ユベール(ドラン自身が演じている)。両親は幼い頃に離婚し、母親と2人暮らし。父親は近くに住んでいるが、たまに会う程度。低所得の母親は息子を育てるために懸命に働いてきたが、洗練されたところがなく、服装はださく、いつも意地汚くものを食べ、やたら息子にうるさい。そんな母親にうんざりしているユベールは、祖母の遺産を使って1人暮らししたいと思うが、母親に反対される。
ユベールはゲイで、同性の恋人がいる。その恋人の母親は男をしょっちゅう取り替えているようなあけっぴろげで自由な女性で、息子が同性愛でもまったく気にしていない。その彼女が、ユベールの母親と会ったとき、息子たちがゲイの関係であることを話してしまう。ユベールの母親はショックを受け、というところから話はどんどんと転がっていき、ユベールの母殺し(原題は「私は母を殺した」)はしだいに別の方向へと変化していく。
(このあと、最後までネタバレ大ありで話を進めるので、注意してください。)
もともとこの映画の元になったのはドランが16歳のときに書いた短編小説で、それは母殺しを題材にしていたのだという。やがてそれが脚本になり、映画化へと進んでいくのだが、この映画でもユベールは母親に死んでほしいと何度も思う。特に、ある授業で、女性の先生から「親の年収や勤め先の福利厚生について調べてくるように」という課題を出されたとき、ユベールは母殺しをする。「父親とは長く会っていないし、母親はもう死んだので、おばについてでもよいか」と教師に言うのである。教師はそれを信じて許可するが、それを知った母親は、「私を死人にした」と学校に怒鳴り込んでくる。
このことがきっかけで、ユベールはこの女性教師と親しくなる。「わたしはロランス」の主演女優スザンヌ・クレマンが演じるこの教師は、ユベールにとっての第2の母のようになる。
しかし、物語が本当に動くのはこのあとだ。ゲイの恋人の母親が自分の母に息子同士がゲイだと教えてしまい、ユベールの母は大ショックを受ける。さすがに同性愛は許さないとは言わないが、そのかわり彼女が何をしたかというと、父親を訪ね、ユベールの成績が悪いことを理由に彼を寄宿学校に入れることにしてしまうのだ。
もちろん、映画の表面上は、ゲイの恋人から引き離すために寄宿学校へ入れるということはまったく匂わせていないし、週末や夏休みにはユベールは恋人に会える。しかし、母親が離婚した夫を訪ね、2人でユベールを寄宿学校へ入れてしまうというのは、母親が父親の価値観と同化したことを意味する。ユベールの父親は育児がいやで離婚したのであり、たまには息子に会っていたとはいえ、クリスマスにはカードを現金を送るだけ。母親が身を粉にして働いているのを見ると、養育費を十分に払っていたのかどうかは疑わしい。そんな父親に母親は接近して、息子を寄宿学校へ入れることにしてしまうのだ。
ユベールの母親が存在感たっぷりに描かれるのに対し、父親はあまり出番もなく、どんな人物なのかわかりにくいが、ここで母親が父親とタッグを組んでしまったというのは示唆的だ。しかもきっかけは息子がゲイだとわかったこと。いわゆる男性中心主義、男性権威主義とは正反対のゲイという存在に対し、母親は男性中心主義の父親(育児が嫌いなわけだから)に擦り寄って、息子を寄宿舎に入れ、ゲイの恋人から離そうとしたのである。
ユベールは1年は我慢するが、2年目も父と母が自分を寄宿舎に入れると知ってついに学校から逃げ出す。校長が母親の勤務先に電話し、ユベールの失踪を母子家庭のせいにすると、母親は激怒する。「私は躁鬱症の母親を看取り、息子を育てるために必死で働いてきた。それを母子家庭だからどうとかいうあんたはマッチョ主義だ!」
ここで胸のすく思いのする女性は多いのではないだろうか。よく言った、である。
このあと、母親はユベールとその恋人のいる場所へ出かけ、息子の恋人と対面する。息子がゲイだと知り、父親に擦り寄って息子を恋人から離そうとした母親が校長の電話に激怒、ついにゲイを否定するマッチョ主義と決別し、息子の恋人に会うことができたのだ。
ドラン自身がゲイであることを考えると、母殺しのテーマが最終的にゲイを否定する父親的権威の否定となり、母が息子の味方になるという結末は非常に納得のいくものだ。
19歳のドランは主人公の少年の立場だけでなく、母親の立場にも立って話を進めていく。最終的に母が息子の味方になったとき、息子は母を理解することができたのだ。女手ひとつで息子を育てる低所得のださい母親を、ドランは19歳とは思えない洞察力で描いている。最後まで見たとき、この映画は何よりも母親の映画であり、1番の主役は彼女を演じたアンナ・ドルヴァルであることがわかるのだ。
「わたしはロランス」映画評はこちら。http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/08/blog-post_13.html
「わたしはロランス」が23歳の作ならば、こちらは19歳のときの作品。10代後半で優れた小説を発表する人は少なくないが、映画となると大勢の年上の人を動かさねばならず、技術だけでなくさまざまな面で若いとむずかしいと思うのだが、19歳とは思えない成熟した出来栄えで驚いた。
「わたしはロランス」に比べるとまだ洗練が足りないが、内容的にはむしろ、こちらの方が深いものを感じさせる。
主人公はドランの分身を思わせる16歳の高校生ユベール(ドラン自身が演じている)。両親は幼い頃に離婚し、母親と2人暮らし。父親は近くに住んでいるが、たまに会う程度。低所得の母親は息子を育てるために懸命に働いてきたが、洗練されたところがなく、服装はださく、いつも意地汚くものを食べ、やたら息子にうるさい。そんな母親にうんざりしているユベールは、祖母の遺産を使って1人暮らししたいと思うが、母親に反対される。
ユベールはゲイで、同性の恋人がいる。その恋人の母親は男をしょっちゅう取り替えているようなあけっぴろげで自由な女性で、息子が同性愛でもまったく気にしていない。その彼女が、ユベールの母親と会ったとき、息子たちがゲイの関係であることを話してしまう。ユベールの母親はショックを受け、というところから話はどんどんと転がっていき、ユベールの母殺し(原題は「私は母を殺した」)はしだいに別の方向へと変化していく。
(このあと、最後までネタバレ大ありで話を進めるので、注意してください。)
もともとこの映画の元になったのはドランが16歳のときに書いた短編小説で、それは母殺しを題材にしていたのだという。やがてそれが脚本になり、映画化へと進んでいくのだが、この映画でもユベールは母親に死んでほしいと何度も思う。特に、ある授業で、女性の先生から「親の年収や勤め先の福利厚生について調べてくるように」という課題を出されたとき、ユベールは母殺しをする。「父親とは長く会っていないし、母親はもう死んだので、おばについてでもよいか」と教師に言うのである。教師はそれを信じて許可するが、それを知った母親は、「私を死人にした」と学校に怒鳴り込んでくる。
このことがきっかけで、ユベールはこの女性教師と親しくなる。「わたしはロランス」の主演女優スザンヌ・クレマンが演じるこの教師は、ユベールにとっての第2の母のようになる。
しかし、物語が本当に動くのはこのあとだ。ゲイの恋人の母親が自分の母に息子同士がゲイだと教えてしまい、ユベールの母は大ショックを受ける。さすがに同性愛は許さないとは言わないが、そのかわり彼女が何をしたかというと、父親を訪ね、ユベールの成績が悪いことを理由に彼を寄宿学校に入れることにしてしまうのだ。
もちろん、映画の表面上は、ゲイの恋人から引き離すために寄宿学校へ入れるということはまったく匂わせていないし、週末や夏休みにはユベールは恋人に会える。しかし、母親が離婚した夫を訪ね、2人でユベールを寄宿学校へ入れてしまうというのは、母親が父親の価値観と同化したことを意味する。ユベールの父親は育児がいやで離婚したのであり、たまには息子に会っていたとはいえ、クリスマスにはカードを現金を送るだけ。母親が身を粉にして働いているのを見ると、養育費を十分に払っていたのかどうかは疑わしい。そんな父親に母親は接近して、息子を寄宿学校へ入れることにしてしまうのだ。
ユベールの母親が存在感たっぷりに描かれるのに対し、父親はあまり出番もなく、どんな人物なのかわかりにくいが、ここで母親が父親とタッグを組んでしまったというのは示唆的だ。しかもきっかけは息子がゲイだとわかったこと。いわゆる男性中心主義、男性権威主義とは正反対のゲイという存在に対し、母親は男性中心主義の父親(育児が嫌いなわけだから)に擦り寄って、息子を寄宿舎に入れ、ゲイの恋人から離そうとしたのである。
ユベールは1年は我慢するが、2年目も父と母が自分を寄宿舎に入れると知ってついに学校から逃げ出す。校長が母親の勤務先に電話し、ユベールの失踪を母子家庭のせいにすると、母親は激怒する。「私は躁鬱症の母親を看取り、息子を育てるために必死で働いてきた。それを母子家庭だからどうとかいうあんたはマッチョ主義だ!」
ここで胸のすく思いのする女性は多いのではないだろうか。よく言った、である。
このあと、母親はユベールとその恋人のいる場所へ出かけ、息子の恋人と対面する。息子がゲイだと知り、父親に擦り寄って息子を恋人から離そうとした母親が校長の電話に激怒、ついにゲイを否定するマッチョ主義と決別し、息子の恋人に会うことができたのだ。
ドラン自身がゲイであることを考えると、母殺しのテーマが最終的にゲイを否定する父親的権威の否定となり、母が息子の味方になるという結末は非常に納得のいくものだ。
19歳のドランは主人公の少年の立場だけでなく、母親の立場にも立って話を進めていく。最終的に母が息子の味方になったとき、息子は母を理解することができたのだ。女手ひとつで息子を育てる低所得のださい母親を、ドランは19歳とは思えない洞察力で描いている。最後まで見たとき、この映画は何よりも母親の映画であり、1番の主役は彼女を演じたアンナ・ドルヴァルであることがわかるのだ。
「わたしはロランス」映画評はこちら。http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/08/blog-post_13.html
2013年9月12日木曜日
ハリウッド・セレブはセコムしてないのか?
ソフィア・コッポラ監督の「ブリングリング」を見ながら、2つのことが頭を離れなかった。
1つはタイトルにある、ハリウッド・セレブはセコムしてないのか?
物語は実話に基づく。カリフォルニア州のロサンゼルス郊外、ハリウッド・セレブが多く住むカラバサス地区の高校生の少年少女(主に少女)がパリス・ヒルトンやリンジー・ローハンなどのセレブの家に忍び込んで貴金属や服やお金を盗んでいたという事件をもとにしている。
冒頭と最後にエマ・ワトソン演じる少女ニッキーが出てきて、いっぱしのえらそうなことを言う。彼女のモデルになった少女が一番有名で、今でもネットで話題になっているらしい。しかし、全体の中心になるのはケイティ・チャン演じるアジア系の少女レベッカ。前の高校で欠席が多くて退学になり、三流高校に転校してきた少年が1人で孤立しているのを見て、レベッカは彼に接近、早速車上荒らしをして彼を盗みに誘う。やがて彼らはニッキーらを巻き込み、数人でセレブが留守の家に忍び込み、金品を盗むということを繰り返すようになる。
特にパリス・ヒルトンの家には何度も忍び込んでいて、なのにパリスは全然気づかない。その被害者のパリス、なんと、この映画では実際に自分の家を撮影に使うことを許可し、出演もしている。
驚くのは、彼らがいとも簡単にセレブの屋敷に入れてしまうこと。楽々と柵を越え、中に入ると必ずどこか鍵のかかっていない入口が見つかる。パリスの家なんか鍵を玄関マットの下に入れてある(今は入れてないと思うが)。なに、この無用心さ。セコムしてないの?
が、さすがに中にはセコムしている家もあって、防犯カメラに彼らの姿が映り、結局、お縄となってしまうのだが、犯罪の多いアメリカでこんなに戸締りの悪い家があるのか、しかも大金持ちのセレブなのに、と驚いたのだった。
窃盗団の少女たちと少年はわりと裕福な家の子供たち。ただ、三流高校にしか入れない問題児だったり、麻薬をやっていたり、親が変でおかしな教育をしていたり、という背景はあるようだ。そして、現代ではネットのグーグルマップの航空写真やストリート・ビューでセレブの家がどこでどうなってるかわかってしまうこと。セレブの行動を逐一紹介するサイトがあること、そして、窃盗団自身がフェイスブックで盗んだ品物を持っている写真を公開したりしていることなどがいかにも現代なのだ。
監督のソフィア・コッポラも有名監督の娘でハリウッド・セレブとして育ったのだが、彼女は窃盗団の高校生たちを断罪もせず、同情もしない、という少し距離を置いた描き方をしている。プレスシート掲載のインタビューで、彼女はこう述べている。
「この映画は、家庭でしっかりとした価値観を与えられていない子供たちが、文化というものにいかに感化されうるかを描いているのです。」
やはりそうなのか、と、この部分を読んで思った。
この映画を見ている間中ずっと、私の頭にあったもう1つのこと、それは、最近日本で起きた、コンビニや飲食店での若者の悪ふざけの写真がネットに出回り、それで店が閉店にまで追い込まれるといった一連の騒動のことだった。
この騒動には2つの側面がある。1つは、若者たちの悪ふざけの対象が食品であったことから、衛生面が問題視されて騒ぎが大きくなったこと。ユニクロのTシャツの上に寝そべったのなら、果たしてここまで騒ぎになっただろうか?(食品の方が悪ふざけとしてインパクトがあると、彼らはわかっていたのだろう。)
そしてもう1つは、こういう悪ふざけをネットに流してしまうと、みんなに知れ渡ってしまうということを知らない若者が多いということがはからずも明らかになってしまったことだ。
後者については、コンビニの店長をしているという人がブログで、「低学歴の世界」というのを書いて、話題になった。コンビニや飲食店でバイトをしている若者を多く知る店長は、彼らがあまり頭がよくなくて、ネットが公開された場だということを知らず、安易に携帯やスマホでプライベートなことや店のことを公にしてしまう。そこで店長は、仕事の連絡はメール以外では絶対にしないこと、などの注意を常にしているらしい(さもないとツイッターとかで連絡されてしまうので)。
店長は彼らのことを、「うちらの世界」の住人と呼び、広い社会を知らない、内輪だけしか見えない若者と呼んでいた。だから、この映画「ブリングリング」の中で、レベッカのせりふの字幕に「うちら」が出てきたときはギョッとしてしまった。
また、この店長の言う「低学歴の世界」という言葉自体が大きな反響を呼び、一流大学の学生がした不祥事をあげて、学歴の問題ではない、と反論する人もいたが、逆に、地方在住の低学歴の若者たちの実情をあげて、店長の言う「低学歴の世界」はまさにそのとおりだと自身のブログに書いた人が複数いた。また、若者の中には携帯やスマホは持っているがパソコンをやったことがないため、携帯やスマホをやることとネットはまったく別だと思い込んでいる人も多いらしい。みんなに見られてしまうということ自体がわからない人が多いらしいのだ。
「ブリングリング」の若者たちはもちろん、彼らのような世間知らずではない。しかし、ソフィア・コッポラの言う、「家庭でしっかりとした価値観を与えられていない子供たち」という定義にはどちらも完全にあてはまる。レベルは相当に違うが、日本で起きた悪ふざけ騒動と併せて考えたくなる映画だ。
1つはタイトルにある、ハリウッド・セレブはセコムしてないのか?
物語は実話に基づく。カリフォルニア州のロサンゼルス郊外、ハリウッド・セレブが多く住むカラバサス地区の高校生の少年少女(主に少女)がパリス・ヒルトンやリンジー・ローハンなどのセレブの家に忍び込んで貴金属や服やお金を盗んでいたという事件をもとにしている。
冒頭と最後にエマ・ワトソン演じる少女ニッキーが出てきて、いっぱしのえらそうなことを言う。彼女のモデルになった少女が一番有名で、今でもネットで話題になっているらしい。しかし、全体の中心になるのはケイティ・チャン演じるアジア系の少女レベッカ。前の高校で欠席が多くて退学になり、三流高校に転校してきた少年が1人で孤立しているのを見て、レベッカは彼に接近、早速車上荒らしをして彼を盗みに誘う。やがて彼らはニッキーらを巻き込み、数人でセレブが留守の家に忍び込み、金品を盗むということを繰り返すようになる。
特にパリス・ヒルトンの家には何度も忍び込んでいて、なのにパリスは全然気づかない。その被害者のパリス、なんと、この映画では実際に自分の家を撮影に使うことを許可し、出演もしている。
驚くのは、彼らがいとも簡単にセレブの屋敷に入れてしまうこと。楽々と柵を越え、中に入ると必ずどこか鍵のかかっていない入口が見つかる。パリスの家なんか鍵を玄関マットの下に入れてある(今は入れてないと思うが)。なに、この無用心さ。セコムしてないの?
が、さすがに中にはセコムしている家もあって、防犯カメラに彼らの姿が映り、結局、お縄となってしまうのだが、犯罪の多いアメリカでこんなに戸締りの悪い家があるのか、しかも大金持ちのセレブなのに、と驚いたのだった。
窃盗団の少女たちと少年はわりと裕福な家の子供たち。ただ、三流高校にしか入れない問題児だったり、麻薬をやっていたり、親が変でおかしな教育をしていたり、という背景はあるようだ。そして、現代ではネットのグーグルマップの航空写真やストリート・ビューでセレブの家がどこでどうなってるかわかってしまうこと。セレブの行動を逐一紹介するサイトがあること、そして、窃盗団自身がフェイスブックで盗んだ品物を持っている写真を公開したりしていることなどがいかにも現代なのだ。
監督のソフィア・コッポラも有名監督の娘でハリウッド・セレブとして育ったのだが、彼女は窃盗団の高校生たちを断罪もせず、同情もしない、という少し距離を置いた描き方をしている。プレスシート掲載のインタビューで、彼女はこう述べている。
「この映画は、家庭でしっかりとした価値観を与えられていない子供たちが、文化というものにいかに感化されうるかを描いているのです。」
やはりそうなのか、と、この部分を読んで思った。
この映画を見ている間中ずっと、私の頭にあったもう1つのこと、それは、最近日本で起きた、コンビニや飲食店での若者の悪ふざけの写真がネットに出回り、それで店が閉店にまで追い込まれるといった一連の騒動のことだった。
この騒動には2つの側面がある。1つは、若者たちの悪ふざけの対象が食品であったことから、衛生面が問題視されて騒ぎが大きくなったこと。ユニクロのTシャツの上に寝そべったのなら、果たしてここまで騒ぎになっただろうか?(食品の方が悪ふざけとしてインパクトがあると、彼らはわかっていたのだろう。)
そしてもう1つは、こういう悪ふざけをネットに流してしまうと、みんなに知れ渡ってしまうということを知らない若者が多いということがはからずも明らかになってしまったことだ。
後者については、コンビニの店長をしているという人がブログで、「低学歴の世界」というのを書いて、話題になった。コンビニや飲食店でバイトをしている若者を多く知る店長は、彼らがあまり頭がよくなくて、ネットが公開された場だということを知らず、安易に携帯やスマホでプライベートなことや店のことを公にしてしまう。そこで店長は、仕事の連絡はメール以外では絶対にしないこと、などの注意を常にしているらしい(さもないとツイッターとかで連絡されてしまうので)。
店長は彼らのことを、「うちらの世界」の住人と呼び、広い社会を知らない、内輪だけしか見えない若者と呼んでいた。だから、この映画「ブリングリング」の中で、レベッカのせりふの字幕に「うちら」が出てきたときはギョッとしてしまった。
また、この店長の言う「低学歴の世界」という言葉自体が大きな反響を呼び、一流大学の学生がした不祥事をあげて、学歴の問題ではない、と反論する人もいたが、逆に、地方在住の低学歴の若者たちの実情をあげて、店長の言う「低学歴の世界」はまさにそのとおりだと自身のブログに書いた人が複数いた。また、若者の中には携帯やスマホは持っているがパソコンをやったことがないため、携帯やスマホをやることとネットはまったく別だと思い込んでいる人も多いらしい。みんなに見られてしまうということ自体がわからない人が多いらしいのだ。
「ブリングリング」の若者たちはもちろん、彼らのような世間知らずではない。しかし、ソフィア・コッポラの言う、「家庭でしっかりとした価値観を与えられていない子供たち」という定義にはどちらも完全にあてはまる。レベルは相当に違うが、日本で起きた悪ふざけ騒動と併せて考えたくなる映画だ。
2013年9月11日水曜日
葛西臨海公園がつぶされる。
http://togetter.com/li/560917?page=1
東京オリンピックが決まり、あちこちで新たにさまざまな施設が建設される予定ですが、その1つの場所が江戸川区の葛西臨海公園。ディズニーランドのシンデレラ城が見える浜辺で、水族園や観覧車があり、鷹をはじめとするさまざまな鳥が棲み、野生化した野良猫もいるという自然に満ちた場所。
水族園ができたあと、何度か行ったきりですが、今では森ができているそうです。
東京オリンピックが誘致できることになったら、その臨海公園の3分の1を削ってカヌーの会場を作る、という話を知ったのは今年の春くらいでした。実際は2016年の招致活動のときにすでに決まっていて、野鳥の会などが反対していたようです。
そのときは、どうせ東京は無理だから大丈夫、と思っていたのですが、ここに来て、4日間のカヌー競技だけのためにコンクリートの施設が作られ、自然が破壊されることに。
どうせだったらディズニーランドに作って、あとで何かに再利用すればいいのに。あ、あそこは千葉県か、って、別にいいじゃん(いやいや、千葉県が嫌がります?)。
上のリンクにもあるけど、ほんと、急流下りだったら、奥多摩の方が風景的にも合うんだけど、そうすると今度は奥多摩が破壊されるのか。やれやれ、だからオリンピック反対でもあったのだけど。
とりあえず、早めに臨海公園へ行って写真を撮ってこようと思います。
追記
そういえば、1940年に東京でオリンピックやることに決まってたんだよね。
戦争でできなくなったけど。
最後の数字が同じ0っていうのはなんだか不吉な予感。
ちなみに、
東京オリンピック 1964年
札幌オリンピック 1972年
長野オリンピック 1998年
東京オリンピックが決まり、あちこちで新たにさまざまな施設が建設される予定ですが、その1つの場所が江戸川区の葛西臨海公園。ディズニーランドのシンデレラ城が見える浜辺で、水族園や観覧車があり、鷹をはじめとするさまざまな鳥が棲み、野生化した野良猫もいるという自然に満ちた場所。
水族園ができたあと、何度か行ったきりですが、今では森ができているそうです。
東京オリンピックが誘致できることになったら、その臨海公園の3分の1を削ってカヌーの会場を作る、という話を知ったのは今年の春くらいでした。実際は2016年の招致活動のときにすでに決まっていて、野鳥の会などが反対していたようです。
そのときは、どうせ東京は無理だから大丈夫、と思っていたのですが、ここに来て、4日間のカヌー競技だけのためにコンクリートの施設が作られ、自然が破壊されることに。
どうせだったらディズニーランドに作って、あとで何かに再利用すればいいのに。あ、あそこは千葉県か、って、別にいいじゃん(いやいや、千葉県が嫌がります?)。
上のリンクにもあるけど、ほんと、急流下りだったら、奥多摩の方が風景的にも合うんだけど、そうすると今度は奥多摩が破壊されるのか。やれやれ、だからオリンピック反対でもあったのだけど。
とりあえず、早めに臨海公園へ行って写真を撮ってこようと思います。
追記
そういえば、1940年に東京でオリンピックやることに決まってたんだよね。
戦争でできなくなったけど。
最後の数字が同じ0っていうのはなんだか不吉な予感。
ちなみに、
東京オリンピック 1964年
札幌オリンピック 1972年
長野オリンピック 1998年
2013年9月10日火曜日
初代さーべる倶楽部
ライブドアの初代さーべる倶楽部がヒストリー・ビューで見られるようになったそうです。
http://blog.livedoor.com/10th/history/blueandgold11?_f=10thmail_view
ここのさーべる倶楽部は2004年暮れから2007年夏までなので、それ以外は空白になっていますが、今更見られたくない記事もたくさんありそうで怖い。元のブログの方はテンプレートが古いままなので、一部の記事しか見られません。
また、ライブドアのアルバムはもうすぐ終了だそうです。ヤフーのアルバムはとっくに終了していて、これでアルバムが全部なくなってしまいます。
エキサイトのさーべる倶楽部2と3はまだ普通に見られると思います(自分が過去のブログを全然見てないので、どうなってるかさっぱりわかってません、すみません・汗)。
さーべる倶楽部2 http://sabreclub.exblog.jp/
さーべる倶楽部3 http://sabreclub3.exblog.jp/
エキサイトの方は広告がどんどんたくさん、しかも大きいのが入るようになってしまってますね。あと、余計なものがサイドに出てしまう。時々ログインして消せばいいのですが。もうちょっとしっかり管理しないといけませんね。
http://blog.livedoor.com/10th/history/blueandgold11?_f=10thmail_view
ここのさーべる倶楽部は2004年暮れから2007年夏までなので、それ以外は空白になっていますが、今更見られたくない記事もたくさんありそうで怖い。元のブログの方はテンプレートが古いままなので、一部の記事しか見られません。
また、ライブドアのアルバムはもうすぐ終了だそうです。ヤフーのアルバムはとっくに終了していて、これでアルバムが全部なくなってしまいます。
エキサイトのさーべる倶楽部2と3はまだ普通に見られると思います(自分が過去のブログを全然見てないので、どうなってるかさっぱりわかってません、すみません・汗)。
さーべる倶楽部2 http://sabreclub.exblog.jp/
さーべる倶楽部3 http://sabreclub3.exblog.jp/
エキサイトの方は広告がどんどんたくさん、しかも大きいのが入るようになってしまってますね。あと、余計なものがサイドに出てしまう。時々ログインして消せばいいのですが。もうちょっとしっかり管理しないといけませんね。
壁の花であることの特権
(一部、訂正しました。)
スティーヴン・チョボスキーが自作の小説を映画化した「ウォールフラワー」を見てきた。
原題はThe Perks of Being Wallflowerで、「壁の花であることの特権」という意味らしい。
原作は90年代末に出版されてベストセラーになり、すぐに映画化の話が舞い込んだが、映画監督をめざしていたチョボスキーはすべて断り、満を持しての映画化となった。
試写状を見たときは、スクールカーストの最下層でいじめにあっている高校生の少年がはみ出し者たちと知り合い、成長していく、みたいな感じで紹介されていたので、へえ、最近流行のスクールカーストの話なのか、と思い込んで見に行ったら、なんか違う。
主人公のチャーリーは問題を抱えていて、友達ができず、彼女もできず、孤立しているが、決してスクールカーストの最下層ではないし(というより、スクールカーストそのものはまったく出てこない)、いじめにあっているわけでもない。彼はただ、孤立しているのだ。
高校1年生のチャーリーは昼食をともにする友達もいないのだけど、国語の先生だけは彼の文才を理解してくれる。他の生徒が文学にまったく興味を示さないのに、チャーリーだけは読書が好きで、先生から本を借りてはレポートを書いて出す。そんな課外授業はあのフランソワ・オゾンの「危険なプロット」に少し似ているが、こちらはまったく健全な師弟関係だ。
同じ学年の友達ができないチャーリーだが、やがて3年生のパトリックとサムという義兄妹に出会う。2人は親が子連れで再婚したので義理の兄妹になったのだが、サムはとても魅力的な女の子なので、チャーリーはひそかに彼女を好きになる。でも、サムにはボーイフレンドがいて、そいつがあまりよくないやつなのに、なぜかサムはつきあっている。チャーリーの姉も実は、どうしようもない男とつきあっている。「どうして人は自分をだいじにしてくれないやつとつきあうんだろう」と問いかけるチャーリーに、国語の先生は「それが自分にふさわしいと思っているから」と言う。この辺、記憶で書いているので字幕の訳と違っているが、そんな意味の言葉だ。
自分をだいじにしてくれない、というのは、英語では自分をナッシング(無)として扱う、というようなことを言っていた。このナッシングがけっこう重要なキーワードで、サムの義兄パトリックは技術の先生に「ナッシング」と呼ばれる。人を無として扱う、つまり、相手を尊重しない、というのはこの映画に流れるモチーフの1つだ。後半、「Nothing hates us」と書いた紙をパトリックが出すシーンがあって、字幕ではナッシングはみんなが嫌いだとかそういう訳になっていたが、普通に訳せば何も私たちを憎まない=私たちを憎むものはない。でも、この場合はもっと複雑で、ナッシングはパトリックのことでもあるし、人から無として扱われる人は誰も憎まないから、人を無として扱う人にとって、無として扱われてもつきあう人は誰も憎まない、だから都合がいい人だ、というふうにも取れる。
壁の花であるチャーリーの特権は、こういうことを観察できることだ。
パトリックとサム、そしてその仲間たちとつきあうようになったチャーリーは楽しい学校生活を送る。しかし、チャーリーは心に病を抱えていて、時々気絶したりする。なぜなのかは、しだいにわかってくるが、チョボスキーの描き方はあまり親切ではない。
物語は1990年前後のピッツバーグに設定されている。チョボスキー自身がピッツバーグの出身なのだが、ここが90年前後のピッツバーグであることは会話や音楽などから想像するしかない。ウィンドウズ95が出る前なので、パソコンはまだ普及していない。日本ではこの頃、ワープロ専用機が普及していたが、アメリカはまだタイプライターだ。作家をめざすチャーリーはタイプライターをプレゼントされる。CDはすでにあるが、主人公たちはレコードやカセットテープを聞いている。そして、70年代の映画「ロッキー・ホラー・ショー」を上映しながらスクリーンの前で実演する(若き日のスーザン・サランドンの顔が映ります)。終わりの方のチャーリーの家族の会話に、ピッツバーグ・ペンギンズがディフェンスがだめで、という話が出てくる(ペンギンズは91年に優勝するが、その前はだめだめだった)。そして、ピックアップトラックに乗ったチャーリーとサムとパトリックがピッツバーグのトンネルを抜けて橋を渡るすばらしいシーンがある。まあ、こんな具合に、90年前後のピッツバーグを表現しているのだ。(追記 上の部分、うろ覚えの記憶で書いた部分があり、その後、訂正しました。また、「ロッキー・ホラー・ショー」は70年代の映画なので、90年前後を表すものではないですね。)
ナッシングという言葉の意味の複雑さ、観客に親切にしない手法。そういうレベルの高い技法を駆使しながら、でも物語は観客の共感を呼ぶようになっているあたりはなかなか感心する。
サムやパトリックたちと友達になったチャーリーだが、仲間内の恋愛関係のトラブルから、チャーリーはいったんはまた孤立してしまう。しかし、パトリックとアメフト選手のゲイの関係が選手の親にばれ、それが原因でパトリックが学校で生徒たちから殴られているとき、チャーリーがパンチを食らわしてパトリックを助けたことから、また仲間との関係が戻る。そしてそのあとはサムやパトリックなど3年生たちが大学入学のための適性試験を受け、やがて彼らは卒業していくのだが、この後半部分で、チャーリーの心の傷がしだいに明らかになっていく。
それはチャーリーの幼い頃に起こったある出来事のためなのだが、チャーリー自身がそれをよく理解できないでいる、という状況を、映画は実にうまく表現しているのだ。何かあるのだが、それが何かわからない、そういう感じがよく出ている。そして、ついにチャーリーが精神科の医師によって、過去と向き合い、何があったかを理解する、というクライマックスが来るのだけれど、ここもはっきりとは描いていない。ぼけっと見ていると、よくわからないままに終わってしまうかもしれない。
スクールカーストの最下層にいる孤立した少年が、というような前提で見ていると、この重要な部分を理解しないままに終わってしまう観客がいるのではないかと心配になる。ある意味、非常にレベルの高い表現法の映画なのだ。
精神科の女性医師の言うせりふ「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」という言葉がいい。チャーリーの過去は、はっきり言葉にできないほど過酷でつらいものなので、このくらいの言葉で乗り越えられるものではないと思うが、未来は変えられると思うしかないのだ。
最後に1つ気になったこと。結局、アメリカは秀才とスポーツ選手と腕力が強い人が1番なのだろうか。なぜって、サムやパトリックとその仲間たちは変わり者だけど、みんな勉強ができる。チャーリーも勉強ができるし、その上、けんかでパトリックを助けたのだから腕力も強い。映画の中ではスポーツ選手が一番幅をきかせているように見える。それに対抗するのは、やっぱり勉強と腕力なのか? 確かに、勉強ができたから孤立してもやっていけた、という人は少なくないのだが。その一方で、国語の授業で文学にまったく興味を示さない生徒たちはどういう存在なのだろうと、興味を感じる。
スティーヴン・チョボスキーが自作の小説を映画化した「ウォールフラワー」を見てきた。
原題はThe Perks of Being Wallflowerで、「壁の花であることの特権」という意味らしい。
原作は90年代末に出版されてベストセラーになり、すぐに映画化の話が舞い込んだが、映画監督をめざしていたチョボスキーはすべて断り、満を持しての映画化となった。
試写状を見たときは、スクールカーストの最下層でいじめにあっている高校生の少年がはみ出し者たちと知り合い、成長していく、みたいな感じで紹介されていたので、へえ、最近流行のスクールカーストの話なのか、と思い込んで見に行ったら、なんか違う。
主人公のチャーリーは問題を抱えていて、友達ができず、彼女もできず、孤立しているが、決してスクールカーストの最下層ではないし(というより、スクールカーストそのものはまったく出てこない)、いじめにあっているわけでもない。彼はただ、孤立しているのだ。
高校1年生のチャーリーは昼食をともにする友達もいないのだけど、国語の先生だけは彼の文才を理解してくれる。他の生徒が文学にまったく興味を示さないのに、チャーリーだけは読書が好きで、先生から本を借りてはレポートを書いて出す。そんな課外授業はあのフランソワ・オゾンの「危険なプロット」に少し似ているが、こちらはまったく健全な師弟関係だ。
同じ学年の友達ができないチャーリーだが、やがて3年生のパトリックとサムという義兄妹に出会う。2人は親が子連れで再婚したので義理の兄妹になったのだが、サムはとても魅力的な女の子なので、チャーリーはひそかに彼女を好きになる。でも、サムにはボーイフレンドがいて、そいつがあまりよくないやつなのに、なぜかサムはつきあっている。チャーリーの姉も実は、どうしようもない男とつきあっている。「どうして人は自分をだいじにしてくれないやつとつきあうんだろう」と問いかけるチャーリーに、国語の先生は「それが自分にふさわしいと思っているから」と言う。この辺、記憶で書いているので字幕の訳と違っているが、そんな意味の言葉だ。
自分をだいじにしてくれない、というのは、英語では自分をナッシング(無)として扱う、というようなことを言っていた。このナッシングがけっこう重要なキーワードで、サムの義兄パトリックは技術の先生に「ナッシング」と呼ばれる。人を無として扱う、つまり、相手を尊重しない、というのはこの映画に流れるモチーフの1つだ。後半、「Nothing hates us」と書いた紙をパトリックが出すシーンがあって、字幕ではナッシングはみんなが嫌いだとかそういう訳になっていたが、普通に訳せば何も私たちを憎まない=私たちを憎むものはない。でも、この場合はもっと複雑で、ナッシングはパトリックのことでもあるし、人から無として扱われる人は誰も憎まないから、人を無として扱う人にとって、無として扱われてもつきあう人は誰も憎まない、だから都合がいい人だ、というふうにも取れる。
壁の花であるチャーリーの特権は、こういうことを観察できることだ。
パトリックとサム、そしてその仲間たちとつきあうようになったチャーリーは楽しい学校生活を送る。しかし、チャーリーは心に病を抱えていて、時々気絶したりする。なぜなのかは、しだいにわかってくるが、チョボスキーの描き方はあまり親切ではない。
物語は1990年前後のピッツバーグに設定されている。チョボスキー自身がピッツバーグの出身なのだが、ここが90年前後のピッツバーグであることは会話や音楽などから想像するしかない。ウィンドウズ95が出る前なので、パソコンはまだ普及していない。日本ではこの頃、ワープロ専用機が普及していたが、アメリカはまだタイプライターだ。作家をめざすチャーリーはタイプライターをプレゼントされる。CDはすでにあるが、主人公たちはレコードやカセットテープを聞いている。そして、70年代の映画「ロッキー・ホラー・ショー」を上映しながらスクリーンの前で実演する(若き日のスーザン・サランドンの顔が映ります)。終わりの方のチャーリーの家族の会話に、ピッツバーグ・ペンギンズがディフェンスがだめで、という話が出てくる(ペンギンズは91年に優勝するが、その前はだめだめだった)。そして、ピックアップトラックに乗ったチャーリーとサムとパトリックがピッツバーグのトンネルを抜けて橋を渡るすばらしいシーンがある。まあ、こんな具合に、90年前後のピッツバーグを表現しているのだ。(追記 上の部分、うろ覚えの記憶で書いた部分があり、その後、訂正しました。また、「ロッキー・ホラー・ショー」は70年代の映画なので、90年前後を表すものではないですね。)
ナッシングという言葉の意味の複雑さ、観客に親切にしない手法。そういうレベルの高い技法を駆使しながら、でも物語は観客の共感を呼ぶようになっているあたりはなかなか感心する。
サムやパトリックたちと友達になったチャーリーだが、仲間内の恋愛関係のトラブルから、チャーリーはいったんはまた孤立してしまう。しかし、パトリックとアメフト選手のゲイの関係が選手の親にばれ、それが原因でパトリックが学校で生徒たちから殴られているとき、チャーリーがパンチを食らわしてパトリックを助けたことから、また仲間との関係が戻る。そしてそのあとはサムやパトリックなど3年生たちが大学入学のための適性試験を受け、やがて彼らは卒業していくのだが、この後半部分で、チャーリーの心の傷がしだいに明らかになっていく。
それはチャーリーの幼い頃に起こったある出来事のためなのだが、チャーリー自身がそれをよく理解できないでいる、という状況を、映画は実にうまく表現しているのだ。何かあるのだが、それが何かわからない、そういう感じがよく出ている。そして、ついにチャーリーが精神科の医師によって、過去と向き合い、何があったかを理解する、というクライマックスが来るのだけれど、ここもはっきりとは描いていない。ぼけっと見ていると、よくわからないままに終わってしまうかもしれない。
スクールカーストの最下層にいる孤立した少年が、というような前提で見ていると、この重要な部分を理解しないままに終わってしまう観客がいるのではないかと心配になる。ある意味、非常にレベルの高い表現法の映画なのだ。
精神科の女性医師の言うせりふ「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」という言葉がいい。チャーリーの過去は、はっきり言葉にできないほど過酷でつらいものなので、このくらいの言葉で乗り越えられるものではないと思うが、未来は変えられると思うしかないのだ。
最後に1つ気になったこと。結局、アメリカは秀才とスポーツ選手と腕力が強い人が1番なのだろうか。なぜって、サムやパトリックとその仲間たちは変わり者だけど、みんな勉強ができる。チャーリーも勉強ができるし、その上、けんかでパトリックを助けたのだから腕力も強い。映画の中ではスポーツ選手が一番幅をきかせているように見える。それに対抗するのは、やっぱり勉強と腕力なのか? 確かに、勉強ができたから孤立してもやっていけた、という人は少なくないのだが。その一方で、国語の授業で文学にまったく興味を示さない生徒たちはどういう存在なのだろうと、興味を感じる。
2013年9月9日月曜日
Not Make Sense
2020年のオリンピックが東京に決まりました。
それに対する日本人の反応はたぶん、次の3つ。
1 素直に喜ぶ。
2 原発事故のことを思ってネガティヴになる。
3 どうでもいい。
私の印象では3が一番多いような気がしますが、テレビなどマスコミは1ばかり報道、ネットでは2もある、という感じのようです(テレビないので推測)。
東京に決まったというときに私が感じたのは、これまではバカなのは日本だけだと思っていたけど、これからは世界もバカだと思う、ということ。
首相の演説があちらでは大変評判がよく、それが決め手になったと報道されていますが、その演説の中身、汚染水は外洋にもれておらず、完全にコントロールされている、という、いったい誰が信じるの、この嘘、という部分、早速東電が否定したとか。
IOCの委員がこの嘘を信じたのか、それとも、嘘だとわかってるけど東京にした方がIOC的にいいからなのか、わかりません。7年後だし、2週間程度の開催の間、東京にいても被害はないだろうと思います。「東京は福島から250キロも離れている」と中央の人が思っているなら、海外の人、特に日本から遠いヨーロッパやアフリカの人は、やっぱり福島なんかどうでもいいんだろうな、きっと。
日本は福島を忘れようとしている、とよく言われますが、世界も忘れようとしているんだと思います。
ネットで批判する人も日本のことだけ批判していますが、今度のことでは世界が批判されていいと私は思います。つか、そもそもIOCが金儲け主義だって批判はずっと前からあるんだけど。
もちろん、7年後に向けて原発事故をしっかり解決しようとしてくれるなら、それはいいことです。とりあえず、そこには期待します。
さて、終盤に来て最有力の声もあったマドリードはなんで最初の投票で落選したのでしょうね。シリア情勢考えたら、イスタンブールと東京、中東戦争と原発事故だったら、そりゃ、原発事故の方がまだ安全と思うでしょう。どうせ海外の人は2週間しか来ないわけですから。長期的に見たら原発事故の方が、というような考えはないわけです。
なので、マドリードが残らなければ東京になるのは無理もないのですが、なんでマドリードは落ちたのか。それは、Madrid makes senseという言葉を繰り返したのが、傲慢だとして委員の反発を食らったらしい。
make senseというのは、理にかなう、つじつまが合う、筋が通っている、当然である、というような意味です。下は英辞郎のサイト。not make senseの否定文も例文が出ています。
http://eow.alc.co.jp/search?q=make+sense&ref=sa
つまり、「マドリードが選ばれるのは当然だ」と繰り返したので、反発を食らったらしい(実際はロビー活動などが大きいと思うが)。
一方、首相の汚染水に関する「完全にコントロールされている」の発言は、まさにnot make senseだったのですが。
しかし、今回の3つの都市、マドリードのスペインは経済がやばいし、イスタンブールのトルコはシリアの近くだし、東京は原発問題と、もうちょっとほかに候補地なかったのかねえ、と思うのでした。
それに対する日本人の反応はたぶん、次の3つ。
1 素直に喜ぶ。
2 原発事故のことを思ってネガティヴになる。
3 どうでもいい。
私の印象では3が一番多いような気がしますが、テレビなどマスコミは1ばかり報道、ネットでは2もある、という感じのようです(テレビないので推測)。
東京に決まったというときに私が感じたのは、これまではバカなのは日本だけだと思っていたけど、これからは世界もバカだと思う、ということ。
首相の演説があちらでは大変評判がよく、それが決め手になったと報道されていますが、その演説の中身、汚染水は外洋にもれておらず、完全にコントロールされている、という、いったい誰が信じるの、この嘘、という部分、早速東電が否定したとか。
IOCの委員がこの嘘を信じたのか、それとも、嘘だとわかってるけど東京にした方がIOC的にいいからなのか、わかりません。7年後だし、2週間程度の開催の間、東京にいても被害はないだろうと思います。「東京は福島から250キロも離れている」と中央の人が思っているなら、海外の人、特に日本から遠いヨーロッパやアフリカの人は、やっぱり福島なんかどうでもいいんだろうな、きっと。
日本は福島を忘れようとしている、とよく言われますが、世界も忘れようとしているんだと思います。
ネットで批判する人も日本のことだけ批判していますが、今度のことでは世界が批判されていいと私は思います。つか、そもそもIOCが金儲け主義だって批判はずっと前からあるんだけど。
もちろん、7年後に向けて原発事故をしっかり解決しようとしてくれるなら、それはいいことです。とりあえず、そこには期待します。
さて、終盤に来て最有力の声もあったマドリードはなんで最初の投票で落選したのでしょうね。シリア情勢考えたら、イスタンブールと東京、中東戦争と原発事故だったら、そりゃ、原発事故の方がまだ安全と思うでしょう。どうせ海外の人は2週間しか来ないわけですから。長期的に見たら原発事故の方が、というような考えはないわけです。
なので、マドリードが残らなければ東京になるのは無理もないのですが、なんでマドリードは落ちたのか。それは、Madrid makes senseという言葉を繰り返したのが、傲慢だとして委員の反発を食らったらしい。
make senseというのは、理にかなう、つじつまが合う、筋が通っている、当然である、というような意味です。下は英辞郎のサイト。not make senseの否定文も例文が出ています。
http://eow.alc.co.jp/search?q=make+sense&ref=sa
つまり、「マドリードが選ばれるのは当然だ」と繰り返したので、反発を食らったらしい(実際はロビー活動などが大きいと思うが)。
一方、首相の汚染水に関する「完全にコントロールされている」の発言は、まさにnot make senseだったのですが。
しかし、今回の3つの都市、マドリードのスペインは経済がやばいし、イスタンブールのトルコはシリアの近くだし、東京は原発問題と、もうちょっとほかに候補地なかったのかねえ、と思うのでした。
2013年9月7日土曜日
携帯写真・ハスと猫
アジアリーグが今日から開幕。今、苫小牧市の白鳥アリーナのライブカメラを横目で見ながら更新中。最近は北海道のチームもレーザー光線を使った開幕ショーをやるのですね。
さて、8月下旬から9月上旬に撮った携帯写真から。
8月下旬にまた上野公園を通ったので、ハスの写真を撮りました。
夕方なので、西日が逆光になり、光がちょっと変わった感じです。
携帯なのでズームできないから、近くのハスを撮っていますが、背景とのかねあいでしゃがんで撮ってます。
これはハスの葉がブルーになっている。
光の帯が降り注ぐ。
近所の猫。3枚全部違う場所。
隣の区の階段わき。
さて、8月下旬から9月上旬に撮った携帯写真から。
8月下旬にまた上野公園を通ったので、ハスの写真を撮りました。
夕方なので、西日が逆光になり、光がちょっと変わった感じです。
携帯なのでズームできないから、近くのハスを撮っていますが、背景とのかねあいでしゃがんで撮ってます。
これはハスの葉がブルーになっている。
光の帯が降り注ぐ。
近所の猫。3枚全部違う場所。
隣の区の階段わき。
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