2014年2月13日木曜日

コンテンツとコンテキスト

例の偽ベートーベン事件で、今の時代はコンテンツよりもコンテキストが重視される、みたいな意見を散見しましたが、これって何も今の時代だけじゃないよね、と思って考えてみたら、コンテンツ(中身)よりコンテキスト(文脈というか背景)が重視されるというか、コンテキストで人気が出るみたいなのが流行ったのは実は19世紀じゃないかということに思い当たりました。
かのベートーベンもそうだし、シューベルトとか、ショパンとか、シューマンとかリストとかチャイコフスキーとかもう数え上げたらきりがない、あの19世紀ロマン派の作曲家たち。耳の聞こえないベートーベン、早死にしたシューベルト、精神の病に侵されたシューマンなどなど、みんなコンテキストでもってる作曲家ばかりやんけ。
いや、もちろん、曲自体=コンテンツがすばらしいからそれと作曲家の背景があいまって、ということなんだろうけど、18世紀までの作曲家はコンテキストなんてほとんど問題にされてないと思う。
それは美術や文学も同じで、シェイクスピアなんていったいどんな人だったのかよくわからない。が、19世紀になると、貧乏だったディケンズとか、社会正義に燃えたユーゴーやゾラとか、まあいろいろ。画家もゴッホとか、その苦労の人生=コンテキストで死んでから大人気じゃないのかね?
そして20世紀に入ると、そういうコンテキストに対する反動が文学の世界では起こる。それがニュークリティシズムというやつで、作品そのもの=コンテンツだけを見て背景=コンテキストは見るな、という運動。でも、実際は、自殺したヴァージニア・ウルフ、奥さんといろいろあったスコット・フィッツジェラルド、というふうに、コンテキストは駆逐されなかったのだ(一部にはコンテキストがあまりコンテンツに反映してない作家もいるが)。
んなわけで、私も文学の授業とかすると、作者や当時の社会のコンテキストを紹介しながら作品を紹介している。作品そのものだけを教えるのは自分自身、あまり面白くないし、過去の名作に関してはやはりコンテキストは重要だ。
というわけで、19世紀以降、人間はコンテキストの呪いを背負っているわけだが、コンテキストが注目されるようになったのはメディアの発達が大きいだろう。シェイクスピアの時代では記録が少なく、コンテキストが知られたり残ったりする余地があまりなかったのだ。おかげで私たちは、シェイクスピアという人物を考えずに彼の劇を楽しむ自由がある。


さてさて、先週の雪がまだ残っているというのにまた雪かよ、という天気予報ですが、久々に映画についての文章を書く依頼が来たので、部屋にこもってじっくり文章を書くことにしましょうか。
プロとして原稿を書くようになってこの2月で30年ですが、その間には紆余曲折があり、原稿依頼がまったく来ない時期も何度かありました。そんなわけで、去年あたりから開店休業状態でもあまりあせってはいないのですが、以前と比べて違うな、と思うのは、映画評のような世界でもコンテンツよりコンテキストが重要になっているな、ということ。昔は編集者はこういう内容の映画評がほしいと思って依頼してくれた、少なくともそういう編集者が何人もいて、だから無名でもなんとかなったと思うのですが、しばらく前から編集者は「こういう内容の映画評」ではなく、「こういう肩書の人」をほしがるようになったというか、そういう人ばかりになっているのかな?という気がしているのです。もちろん、無名の人もどんどん出てきていて、単に昔は若かったからコンテンツで依頼してもらえたけど、年をとるとコンテキストがないとねえ、ということなのかもしれないのですが。
コンテキストがわからなくてもコンテンツで読まれる、というのはむしろブログですね。こちらはこちらで、有名ブロガーのようなコンテキストで読まれるものもたくさんあるのですが、それでも、コンテンツだけで多くの読者をひきつけるケースは多数あると思います。