土曜日は東京は積雪25センチ、夕方からは吹雪になってますが、部屋に籠城しながらネットでいろいろ調べていたら、手塚治虫のW3事件が出てきて、またいろいろ考えてしまいました。
W3事件というのは、手塚治虫が「少年マガジン」に連載していた「W3」を6回でやめて「少年サンデー」に移してしまい、その理由が、手塚のアイデアを盗んだ「宇宙少年ソラン」の連載がマガジンで始まるからだった、というものです。
実は私はこの事件、リアルタイムで知っていました。マガジンのW3もサンデーのW3もリアルタイムで読んでいます。そして、その原因が「宇宙少年ソラン」にあることも当時から知っていました。
当時私は小学校5年生。そんな子供がなんで大人の事情を知っていたかというと、「鉄腕アトムクラブ」というファンクラブに入っていたからです。これは虫プロのファンクラブで、入会すると毎月「鉄腕アトムクラブ」という雑誌が送られてきます。私は発足当初から入ったのではなかったので、全部の雑誌を持ってはいませんでしたが、欠けていたのは最初の数冊くらいでした。このファンクラブはテレビのアトムの終了と同時になくなりましたが、雑誌はだいじにとっていて、死ぬまで持っているつもりだったけれど、数年前に引っ越ししたとき、古い漫画本や映画のパンフレットを大量に処分し、そのときにこの「鉄腕アトムクラブ」も古書店に売ってしまいました。ええ、いいお金になりましたよ。ただ、ところどころ、切り取ってしまった箇所があったので、それがなければもっと高くできたのに、と古書店のお兄さんに言われました。
W3事件の大人の事情を知ったのは、この「鉄腕アトムクラブ」の手塚治虫のエッセイからです。検索したところ、1965年9月号だったそうで、のちにマガジンのW3が文庫で発売されたときに再録されたそうです。
当時の私はこの手塚治虫のエッセイでしか事件の概要を知らず(というか、手塚以外の人は沈黙していたと思う)、当然、手塚ファンなので、彼の言葉を100パーセント信じていました。だから、私は「宇宙少年ソラン」は、まわりの女の子たちに人気があったのに、決して見ようとはしなかったのです。今でもソランとかチャッピーとか聞くと、ムカっとしてしまうのは三つ子の魂百までもか?
W3事件については、このサイトにまとめが出ています。下の方ですが。
http://www.geocities.jp/mandanatsusin/nihon042fr.htm
ここにある参考文献を見ると、リアルタイムで書かれたのは「鉄腕アトムクラブ」の手塚のエッセイだけです。あとはみな、事件から20年以上たって書かれている。手塚のエッセイはもちろん、手塚の側の都合で書いているので、公平ではないですが、他の人も20年以上たってから思い出しているので、記憶違いなどもありうるのでは、という気がします(もちろん、他の人もその人なりのバイアスがかかっているはず)。
私が知っていたのは、まず、手塚の旧作「ナンバー7」をアニメ化することになったが、別の会社がよく似た設定の「レインボー作戦」というアニメを企画していることがわかり、企画を中止。このときの「レインボー作戦」がのちの「レインボー戦隊ロビン」と言われています。
手塚は次に、同じタイトルで007のような秘密諜報部員が主人公の話を提案。そのとき、主人公・星光一の肩に超能力を持つリスが載っていて、相棒になるというアイデアを出します。これが「宇宙少年ソラン」に盗まれるわけです(関係者の誰かがぽろっともらしてしまったのは事実らしい)。
手塚の頃の日本のテレビアニメ界というのは、のちのスピルバーグの映画界みたいなもので、スピルバーグがアイデアを盗まれないように必死になっていたように、手塚も常に盗まれるリスクを背負っていたわけですが、スピルバーグの頃と違ってまだ守秘義務を徹底させるとかいうのが手薄だった時代なのでしょう。
とにかく「ソラン」にリスを盗まれた手塚は「ナンバー7」の企画を中止。かわりに星光一の設定はそのままに、弟の真一と宇宙人3人組が活躍する「W3」を企画、アニメ化の前に漫画の連載をマガジンで始めたら、今度は憎い仇の「ソラン」がマガジンで連載するとわかったので、「W3」を引き上げて、新たにサンデーで連載を始めた、というのが、小学校5年生だった私の知った顛末。
上のリンク先の人は講談社に同情的で、手塚が大人げないとか書いていますが、小学校5年生の私は企画が2度もだめにされることのつらさに100パーセント共感していました(今も共感しています)。常に新しいアイデアを出し続けるクリエイターがそのアイデアを盗まれて別の作品を作られてしまうことの悔しさ、こういうのはわかる人とわからない人がいるのでしょうか。
もっとも、その後、映画をたくさん見るようになった私は、「ナンバー7」の7人1組の主役は「七人の侍」という前例があること、主人公の肩に載るリスはジェームズ・スチュアート主演「ハーヴェイ」がヒントでは?と思うようになりましたが、それでもこのリスはやっぱり絶対盗まれたくないものだったっていうのはわかるんですよ。
虫プロは毎年カレンダーを出していて、市販はされてなかったかもしれませんが、1965年のカレンダーの1枚がこの、秘密諜報部員・星光一とその肩に載るリスでした。絵柄を今でも覚えています。幻の「ナンバー7」です。
上のリンク先の時系列を見ると、手塚は65年1月の初めにはマガジンに「ソラン」が載るのを知っていたみたいですが、それならなぜ、このときに連載をしないと言わなかったのか、そこがちょっと疑問。このときマガジンを降りていれば事件にはならなかった。マガジン側が、「ソラン」を載せないと約束したとか、そういうことはなかったのか? それが連載を始めたら載るとわかったので、手塚が怒ってしまったのでは?と思わなくもないのですが。
私は手塚サイドというか、ほとんど手塚漫画に洗脳されてますから、手塚が「W3」を「ソラン」と同じ雑誌に載せたくないというのは当然だと思うのですよ。上のリンクの人が、この時期に無茶を言っていると書いてますけど、「ソラン」は載らないと思ったから連載を始めたとしか思えないのですが。そうでなければ、手塚がマガジンにいやがらせするために連載を始めて、途中でやめたということになってしまいます。マガジンとサンデーでは主人公・真一の絵柄ががらっと変わり、宇宙人3人の名前も変わっているので、アニメ放映が迫っているこんな短い期間に変えられるのか、という疑問も残りますが。あと、私自身はマガジンのW3はあまり好きじゃなくて(もともとサンデー派でした)、サンデーに移ってからの方が好みでした。
「W3」も、銀河連盟が地球は野蛮だから滅ぼすかどうか決めようというのは50年代初めのSF映画「地球の静止する日」がヒントだろうということは、のちに知ることになります。
「W3」は漫画は長編作品ですが、アニメは1回完結で、内容は毎回、真一とW3が走るタイヤに乗って世界のあちこちへ行って事件を解決するというようなものでした。各話の内容が出ているサイトがありましたが、覚えている話は非常に少なかったです。むしろ、放送から半年たったら「ウルトラQ」が裏番組になり、「W3」は完敗して、曜日を変更せざるをえなかったということが一番記憶に残っています。「ソラン」も「ウルトラQ」もTBSなんだよね。
一方、漫画の「W3」は今でもよく覚えています。連載で読み、そのあと、当時は単行本ではなくB5サイズのムック本みたいな形でまとまって出ていたのを読んでいましたが、中学に入ると漫画をあまり読まなくなったので、それ以後は読んでいないはずなのに、よく覚えています。
「W3」は次の3つのモチーフがからみあって出来ていた作品です。
1 地球を滅ぼすかどうかを探る使命を帯びてやってきたW3の物語。
2 正義感が強く、不正を見ると怒りのあまり暴力をふるってしまい、それゆえに不良とみなされている少年・真一の成長。
3 秘密諜報部員・光一の悪の組織との戦い。
この中で最も魅力的だったのは2の物語です。
実は私は、今もそうなんですが、わりとカッとなりやすい性格で、真一に似ているのです。だから、正義感が強いのに暴力をふるってしまい、誤解される真一を自分の分身のように感じていました。その真一が馬場先生の教えも受けて、しだいに成長していく姿に感動したものです。
「W3」の連載を終えた手塚は、同じサンデーで「バンパイヤ」の連載を始めます。「バンパイヤ」は何かのきっかけで(人によってそれは違う)狼に変身してしまう人々の物語で、主人公トッペイは真一と同じく正義感が強く、不正を見ると怒りを感じ、怒りを感じると狼に変身して人を殺したり傷つけたりしてしまうのです。人間の姿に戻るとトッペイは激しく後悔するのですが、どうにもなりません。そこにつけこんでくるのが悪の化身ロック、というふうに話は展開していきます。
この頃から私は手塚を、そして漫画を卒業してしまうのですが、「バンパイヤ」は面白いけれど、小学校6年生の私には受け入れがたい部分も多かったです。同じような設定でも真一なら共感し、一緒に成長できる、でも、トッペイでは共感することはできませんでした。
この頃から手塚は低迷期に入っていくのですが、不正への怒りが暴力になってしまうという主人公の設定は、リスを盗まれた手塚の心境から来ているものがあるのでは?と、大人になった今は思います(あくまで推測)。
長い間読んでいない「W3」ですが、雑誌連載からB5版のムック本になったとき、カットされたシーンがありました。それは悪人が真一のガールフレンドのカノコを痛めつけるシーンで、かなり残酷なシーンだったのでカットしたのかもしれませんが、その後の単行本でもたぶんカットされているでしょうね。雑誌からムック本になったときに変わったところがあった、というのも、もう一度読むのをためらっている理由です。