アマゾンの売れ行き順位というのはものすごく売れている本(少なくとも1000位以内)以外はまったくあてにならない、というのが私の感想。
理由は、ある人が本を出して、その友人がアマゾンで買ったら、1冊売れただけで順位がものすごく上がった、という話を聞いたから。
実際、私が関係した本もそういう感じがします。
で、前の記事で解説を書いた文庫本の紹介をしたら、その後2日くらい順位が急に上がり、その後また戻りました。
ここを読んで買ってくれた方が2、3人はいたのでしょうか?
さて、このところまったく増刷されていない創元推理文庫「フランケンシュタイン」。
全体の10分の1くらいが私の解説ですが、ページ割の印税で、1984年の初版以来、増刷のたびにささやかながら印税が入ります。
そんなわけで、ケネス・ブラナー監督主演の映画が公開されたときも角川文庫にタイアップをとられ、創元は映画に便乗できなかったにもかかわらず、増刷はそこそこされていて、もう30年も生き残っている本なのです。数年前に光文社古典文庫から新訳が出てからもしばらくは創元の方が売れている感じだったのですが、ここ2、3年、どうも立場が逆転してるっぽい。あっちが増刷になってこっちがならない、アマゾンでもあっちの方が順位が上。でもよく見ると、創元はキンドル版も出していて、300円と安いので、これを買う人が多いのかな、と思ったけど、このキンドルはじめ電子版の印税ももちろん入るのですが、年に200円とかそのくらいなので(!)、売れてるとは思えない(紙の本と違い、何部売れたかの報告が毎年入るので、実数もわかる。電子版は1冊売れるごとに印税が入る仕組み)。
そんなわけで、アマゾンの順位はあてにならないというか、実際はそんなに大きな差はないのかもしれないけど、確実に光文社の翻訳がメインになっていくのかな、と寂しい思いをしていたところ、この週末、わずかながら順位が上がり、一時的に光文社を抜いたのです。
光文社の方も売れているようで、順位が上がっています。
これって、もしかして、ブログでも書いた映画「アイ・フランケンシュタイン」の影響?
原作者が違うので、タイアップはしていませんが、もともとの原作を読んでみようと思う人が数人はいるのでしょう(あのくらいだとほんと、数冊売れる程度の上昇だと思う)。
創元は「屍者の帝国」とタイアップした帯がついていたな。でも、それでは売れまい。
創元の「フランケンシュタイン」は30年前初版なので、文字が小さい。光文社は最近なので文字が大きいのと、改行を多くして読みやすくしているのが今の人には受けそうです。
もちろん、私の解説は創元推理文庫にしかありません(当たり前だ)。
30年前というか、執筆したのは83年秋だったので、もう31年前ですが、「ブレードランナー」と「フランケンシュタイン」の関係を指摘したほとんど最初の文章の1つと自負しています。
というわけで、宣伝。創元推理文庫「フランケンシュタイン」。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3-%E5%89%B5%E5%85%83%E6%8E%A8%E7%90%86%E6%96%87%E5%BA%AB-532%E2%80%901-%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/4488532012/ref=zg_bs_2220088051_33
2014年8月31日日曜日
2014年8月29日金曜日
解説執筆
http://www.amazon.co.jp/%E7%8C%BF%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F-%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%B4%80-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4041015502/ref=tmm_pap_title_0?ie=UTF8&qid=undefined&sr=8-1
アマゾンであんまりというか全然売れてないみたいなので、紹介しますか。
「猿の惑星 新世紀」ノベライズに解説を書きました。
映画は見ていません。
「猿の惑星」シリーズについての解説が主です。
ところで、アメリカのアマゾン(英語)の原書のレビューに、映画とノベライズは結末などいくつか違うところがある、という指摘がありました。
このレビュアーは、映画よりもノベライズの方がいいと書いています。
私も、ドレイファスという人物がゲイリー・オールドマンと聞いて、なんか最初からエキセントリックな悪役になってそうだなあ、でも、ノベライズだとわりとまともな人で、最後に悪役っぽくなるだけなんだけど、と思ったのですが、どうでしょうね?
アマゾンであんまりというか全然売れてないみたいなので、紹介しますか。
「猿の惑星 新世紀」ノベライズに解説を書きました。
映画は見ていません。
「猿の惑星」シリーズについての解説が主です。
ところで、アメリカのアマゾン(英語)の原書のレビューに、映画とノベライズは結末などいくつか違うところがある、という指摘がありました。
このレビュアーは、映画よりもノベライズの方がいいと書いています。
私も、ドレイファスという人物がゲイリー・オールドマンと聞いて、なんか最初からエキセントリックな悪役になってそうだなあ、でも、ノベライズだとわりとまともな人で、最後に悪役っぽくなるだけなんだけど、と思ったのですが、どうでしょうね?
2014年8月28日木曜日
フランスおとぎ話も日本アニメの世界か?
ヴァンサン・カッセルが野獣、レア・セドゥが美女ベルを演じるフランス映画「美女と野獣」。
「アデル、ブルーは熱い色」の男っぽい女性セドゥがベル?はともかく、カッセルの野獣ならぜひ見たい、と思って試写に駆け付けた。
普通、「美女と野獣」というと、ボーモン夫人作の短い小説がもとになっているが、これはボーモン夫人以前にあった小説「美女と野獣」をもとに大胆に新解釈を加えた作品らしい。
舞台はナポレオン時代のフランス。破産した商人が不思議な城に迷い込み、そこで娘ベルに頼まれたバラの花を一輪、手折ってしまったのがきっかけで、野獣の城に住むことになったベル、というのはこれまでと同じ。
で、このあとが改変されているのだけれど、ベルは毎晩、野獣の過去の夢を見る。ベルの時代から300年前、王子だった野獣はプリンセスと愛し合い、結婚しているのだが、2人に不幸が起こる。それがきっかけで、王子は野獣にされてしまったことがわかる。この不幸な出来事というのが(ネタバレになるので詳しくは書かないが)ギリシャ神話ふうの味付け。
そして、この野獣の城は森の中にあるのだが、森が生きているというか、森の神や森の精が支配する世界。その描き方が、もろ、宮崎アニメ! なので、宮崎アニメに影響を受けた「アバター」に似てるところもある。
一方、ベルの家族は兄たちが悪い連中とかかわって困ったことになっている。そして、家族に会いたいと家に帰ったベルが高価な宝石を身につけているのを見て、兄たちと悪い連中が野獣の城へ。というところでアクションが始まるのだが、これがやっぱり日本アニメ。巨人が出てきますよ、巨人が! ヨーロッパなので巨人の出てくるヨーロッパのおとぎ話っぽい感じもあるが、描き方が日本アニメの影響大。
というわけで、日本アニメおたくの作った「美女と野獣」。ただ、どうも演出のテンポがよくない。日本アニメの影響を受けているけれど、「アバター」ほどすごくない。おまけに「美女と野獣」といえば、フランスにはジャン・コクトーの名作があるのだから、フランス映画でこれはないだろう、と思う。
また、野獣は合成を使ったメイクだけれど、野獣のメイクのときはカッセルでなくてもいいような感じ。コクトー版のジャン・マレーのような、この役者が演じているんだ、という感じがない。合成があまりうまくないのだろうな。最近の「猿の惑星」映画の猿の顔と比べると、表情が全然足りない。
というわけで、カッセルはもっぱらベルの見る夢の世界の中で顔を披露ということになる。
しかし、この映画、一番よくないと思うのは、本来はベルが野獣の人間性に触れてしだいに彼を好きになり、という展開になるのに、この映画ではベルが野獣にひかれていく様子がきちんと描かれていないのだ。セドゥの演じるベルはタカビーな女で、タカビーでも包容力があるとかならいいのだけど、ただタカビーなだけで、野獣ともいがみあっていて、全然2人がひきつけあう感じがない。で、結局、ベルがなんで野獣を好きになるかというと、それは夢の中で王子が野獣にされた悲しい出来事を知り、同情したからなのだ。
でもねえ、同情では十分ではないのよ。愛になっていなければ。
しかも、ベルは夢の中で、野獣が人間の女性に愛されれば王子に戻れるということを知ってしまうのだ。本来は、ベルが野獣を愛したので野獣は王子に戻る、ということは、王子に戻って初めてわかるべきことなのだが。
でも、この夢の部分も含めた、宮崎アニメの影響大の森の神話はそれなりに見どころはある。それにしても、宮崎アニメ&日本アニメの世界的な影響はすごいと思った。「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」、「アナと雪の女王」は「聖闘士聖矢」と、いまや世界基準はディズニーではなく、日本アニメというところか。
「アデル、ブルーは熱い色」の男っぽい女性セドゥがベル?はともかく、カッセルの野獣ならぜひ見たい、と思って試写に駆け付けた。
普通、「美女と野獣」というと、ボーモン夫人作の短い小説がもとになっているが、これはボーモン夫人以前にあった小説「美女と野獣」をもとに大胆に新解釈を加えた作品らしい。
舞台はナポレオン時代のフランス。破産した商人が不思議な城に迷い込み、そこで娘ベルに頼まれたバラの花を一輪、手折ってしまったのがきっかけで、野獣の城に住むことになったベル、というのはこれまでと同じ。
で、このあとが改変されているのだけれど、ベルは毎晩、野獣の過去の夢を見る。ベルの時代から300年前、王子だった野獣はプリンセスと愛し合い、結婚しているのだが、2人に不幸が起こる。それがきっかけで、王子は野獣にされてしまったことがわかる。この不幸な出来事というのが(ネタバレになるので詳しくは書かないが)ギリシャ神話ふうの味付け。
そして、この野獣の城は森の中にあるのだが、森が生きているというか、森の神や森の精が支配する世界。その描き方が、もろ、宮崎アニメ! なので、宮崎アニメに影響を受けた「アバター」に似てるところもある。
一方、ベルの家族は兄たちが悪い連中とかかわって困ったことになっている。そして、家族に会いたいと家に帰ったベルが高価な宝石を身につけているのを見て、兄たちと悪い連中が野獣の城へ。というところでアクションが始まるのだが、これがやっぱり日本アニメ。巨人が出てきますよ、巨人が! ヨーロッパなので巨人の出てくるヨーロッパのおとぎ話っぽい感じもあるが、描き方が日本アニメの影響大。
というわけで、日本アニメおたくの作った「美女と野獣」。ただ、どうも演出のテンポがよくない。日本アニメの影響を受けているけれど、「アバター」ほどすごくない。おまけに「美女と野獣」といえば、フランスにはジャン・コクトーの名作があるのだから、フランス映画でこれはないだろう、と思う。
また、野獣は合成を使ったメイクだけれど、野獣のメイクのときはカッセルでなくてもいいような感じ。コクトー版のジャン・マレーのような、この役者が演じているんだ、という感じがない。合成があまりうまくないのだろうな。最近の「猿の惑星」映画の猿の顔と比べると、表情が全然足りない。
というわけで、カッセルはもっぱらベルの見る夢の世界の中で顔を披露ということになる。
しかし、この映画、一番よくないと思うのは、本来はベルが野獣の人間性に触れてしだいに彼を好きになり、という展開になるのに、この映画ではベルが野獣にひかれていく様子がきちんと描かれていないのだ。セドゥの演じるベルはタカビーな女で、タカビーでも包容力があるとかならいいのだけど、ただタカビーなだけで、野獣ともいがみあっていて、全然2人がひきつけあう感じがない。で、結局、ベルがなんで野獣を好きになるかというと、それは夢の中で王子が野獣にされた悲しい出来事を知り、同情したからなのだ。
でもねえ、同情では十分ではないのよ。愛になっていなければ。
しかも、ベルは夢の中で、野獣が人間の女性に愛されれば王子に戻れるということを知ってしまうのだ。本来は、ベルが野獣を愛したので野獣は王子に戻る、ということは、王子に戻って初めてわかるべきことなのだが。
でも、この夢の部分も含めた、宮崎アニメの影響大の森の神話はそれなりに見どころはある。それにしても、宮崎アニメ&日本アニメの世界的な影響はすごいと思った。「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」、「アナと雪の女王」は「聖闘士聖矢」と、いまや世界基準はディズニーではなく、日本アニメというところか。
2014年8月25日月曜日
デレク・プラントの話題
このところホッケーの話題からはだいぶ遠ざかり、アジアリーグの試合もしばらく見に行っていないし、NHLやデレクがアシスタントコーチをしている大学のホッケー部のサイトもほとんど見なかったのですが、なんと、デレクがスロバキアで開かれたU18の大会で、アメリカ代表のヘッドコーチをつとめ、3位になったとのこと。デレクとしては初のヘッドコーチ体験だったそうです。
以下、大学(UMD)のサイト。クレインズを去ってから7年、デレクも顔がだいぶ変わりましたね。
http://www.umdbulldogs.com/news/2014/8/18/MHOCKEY_0818145458.aspx?path=mhockey
デレクのコーチとしての才能はクレインズ時代にも若手の指導などに片鱗が見られていたようですが、コーチとしての道を着実に歩んでいるようです。
追加
上の大会のアメリカ代表のページ。
デレクのインタビュー映像があります。相変わらず高い声だが、目つきが鋭い。
http://www.usahockey.com/ivanhlinka
以下、大学(UMD)のサイト。クレインズを去ってから7年、デレクも顔がだいぶ変わりましたね。
http://www.umdbulldogs.com/news/2014/8/18/MHOCKEY_0818145458.aspx?path=mhockey
デレクのコーチとしての才能はクレインズ時代にも若手の指導などに片鱗が見られていたようですが、コーチとしての道を着実に歩んでいるようです。
追加
上の大会のアメリカ代表のページ。
デレクのインタビュー映像があります。相変わらず高い声だが、目つきが鋭い。
http://www.usahockey.com/ivanhlinka
2014年8月24日日曜日
ニンフォマニアックVol.1/Vol.2
いずれ書くといってなかなか書かないと忘れてしまうので、書いておこう。
「最近見た映画から」記事で少し触れたラース・フォン・トリアーの「ニンフォマニアック」。第一部と第二部の二部構成で、合計4時間。トリアーの映画4時間か、こりゃつらいなあ、パスしちゃおうかしら、と思って、RottenTomatoesを見たら、第一部の評判がものすごくいい。第二部はイマイチ。じゃあ、とりあえず第一部見て、さらに見たかったら第二部を見ようと出かけた。
見終わったみると、これは一気に両方見るのが正解の映画だと思った。第一部終わった時点で帰るなんてできない。映画館では時期を分けて公開するようだけど、同時公開の方がよい気がする。
映画は、中年の女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)が殴られて倒れているのを初老の男性セリグマン(ステラン・スカルスガルド)が助けるところから始まる。警察も救急車も呼ばないでくれ、というジョーをセリグマンは自宅に入れてやり、ジョーから色情狂の過去を聞くことになる。
子供の頃から性に対する欲求が強かったジョー(若い頃はステイシー・マーティン)は、やがて、初恋の男性ジェローム(シャイア・ラブーフ)と初体験。が、これは痛いだけだった。これにもめげず、ジョーは色情狂の道を突っ走る。友達と列車の中で何人ナンパできるか競争したりと、愛なんかどうでもいい、性がすべて、の少女時代。話を聞きながら、書物をたくさん読んできたインテリのセリグマンは、それはアイザック・ウォルトンの「釣り魚大全」みたいだね、という感じで、ジョーの話にインテリの薀蓄を傾ける。
こんな具合に第一部は進むのだが、若い頃のジョーを演じるステイシー・マーティンが溌剌として魅力的で、彼女のあっけらかんとした性遍歴が面白く、それに対して薀蓄を傾けたりするセリグマンが面白い。傾けられている相手はゲンズブールの演じる中年のジョーなのだけど、若いジョーのエピソードと、話をする中年のジョーと聞くセリグマンのシーンの絶妙なコンビネーションもあって、第一部はとにかく楽しい。
学校を出たジョーは印刷会社の秘書になるが、そこで初体験の相手ジェロームと再会。しかし、ジェロームとはすれ違いに終わり、ジョーが愛を感じたときにはジェロームはすでに結婚して、どこかへ行ってしまっていた。
その後は多数の男と同時に関係を持つが、中には妻子と別れてジョーと一緒になろうとする中年男もいる。このエピソードが一番面白い。妻子と別れたといってジョーのもとに男が来ると、妻子がそのあとからやってきて文句を言う。ジョーは次の男が来るので、早く彼らを追い返したいのだが、妻は夫を責め、ジョーを責め、という具合に修羅場が続き、やがて次の男が来てしまう、という展開。ここは役者たちの演技のぶつかりあいもあって、なかなか見応えがある。妻が直接的には夫を責めながら、実はジョーも責めているというあたりも面白い。ジョー自体は夫はどうでもいいので、修羅場だけど笑ってしまう。
その後、ジョーはまたジェロームと再会する。ジェロームは妻とけんか別れしていたので、ジョーとつきあうことになるが、なんと、ジョーは性不感症になってしまう、というところで第一部は終わり。
唯一愛を抱いた男ジェロームと関係したら不感症になってしまったジョー。2人の間には子供も生まれるが、ジョーは不感症を直すため、サディストの男(ジェイミー・ベル)のもとに通う。この第二部からは中年のジョー(ゲンズブール)になっているのだが、若いマーティンから急に疲れた顔のゲンズブールに変わるのがかなりギャップがあるが、ジョー役がかわったことで映画も急展開。前半のコミカルで楽しい雰囲気はなくなり、いかにもトリアー的な重い話になっていく。
サドマゾのエピソードは例によってセリグマンの薀蓄が傾けられるが、それに対してジョーのつけたサブタイトルがユーモアといえばユーモアか。
そんなわけで、後半は重いのだけど、このサドマゾのエピソードが実はトリアーの旧作「奇跡の海」を連想させるのである。
「奇跡の海」は事故で下半身不随になり、妻と関係を結べなくなった夫(セリグマン役のスカルスガルドが演じた)が妻に、ほかの男と関係を持って、そのことを自分に報告してほしい、と頼む。妻は夫を愛しているので、他の男と関係を持つのはつらくてたまらないのだが、夫のために実行する。世間は彼女をふしだらな女と責める。そして最後には、妻は殺されてしまう。それからしばらくののち、夫が回復して歩けるようになったというシーンで映画は終わる。
これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でも描かれた、愛する者のために苦行をして命を落とすと愛する者の障害が治る、というパターンだ。
「奇跡の海」はそれが本当に奇跡のような、ある種の宗教的な神々しさをもって描かれていた。
「ニンフォマニアック」のサドマゾ・エピソードで、セリグマンは、キリスト教は西のカトリックでは磔にされたキリストの画像が圧倒的に多く、東の正教会では聖母子像が多い、つまり、西は受苦、東は愛だ、と言う。このエピソードのタイトルが東方教会と西方教会となっているのはそのことだ。
ジョーは最愛のジェロームとようやく結ばれたが、性不感症になってしまう。本来なら子供も生まれ、聖母子像のような愛ある家庭を築いているはずが、性不感症のためにしだいに夫も子供もどうでもよくなってしまう。彼女はサディストのもとを訪れ、鞭打たれることで性的な満足を得る。
つまり、これは「奇跡の海」のパロディみたいなものだ。ただ、今度は夫の側には問題がなく、妻が問題を抱えて受苦に走るというわけ。もちろん、ジョーの受苦は誰も救うことなく(自分は救えたが)、結果的に夫とも子供とも別れてしまう。
このあと、ジョーは借金取り立ての闇ビジネスの組織に加わり、そこで才能を発揮する。そして、仲間とある男の取り立てに向かったところ、なんと、その男はジェロームだった。ただ、役者はラブーフが老けメイクではなく、別人(マイケル・パス)が演じている。ジェロームと会いたくないジョーは、この仕事は自分の後継者と見込んだ若い女性P(ミア・ゴス)と他の部下たちに任せ、自分は何もしないことにする。ところがジェロームとPが恋に落ちてしまい、という具合に、映画は結末に近づく。
ジョーはジェロームと4度遭遇する。最初は初体験のとき。次は秘書になったとき。次は結婚。そして最後に後継者と見込んだ若い女性に彼を奪われたとき。
面白いのは、4度とも、ジョーはジェロームとは性的快楽を得られないということだ。
最初は痛いだけだった。次はすれ違い。3度目は性不感症になる。そして最後は、最初とはまったく別の意味で痛い。
すべてを語り終わったジョーは、性に無関心な人間になりたいと願う。書物だけで生きてきたセリグマンは性に関心がないようで、ジョーの話を冷静に聞いていた。
で、このあと、オチがあるのだが、これはそれほどびっくりするようなオチでもないので、ちょっと残念だった。
前半の若いジョーのエピソードがとにかく楽しく、全体を通じてジョーとセリグマンのやりとりも面白い。後半はよくも悪くもトリアーだ。
「最近見た映画から」記事で少し触れたラース・フォン・トリアーの「ニンフォマニアック」。第一部と第二部の二部構成で、合計4時間。トリアーの映画4時間か、こりゃつらいなあ、パスしちゃおうかしら、と思って、RottenTomatoesを見たら、第一部の評判がものすごくいい。第二部はイマイチ。じゃあ、とりあえず第一部見て、さらに見たかったら第二部を見ようと出かけた。
見終わったみると、これは一気に両方見るのが正解の映画だと思った。第一部終わった時点で帰るなんてできない。映画館では時期を分けて公開するようだけど、同時公開の方がよい気がする。
映画は、中年の女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)が殴られて倒れているのを初老の男性セリグマン(ステラン・スカルスガルド)が助けるところから始まる。警察も救急車も呼ばないでくれ、というジョーをセリグマンは自宅に入れてやり、ジョーから色情狂の過去を聞くことになる。
子供の頃から性に対する欲求が強かったジョー(若い頃はステイシー・マーティン)は、やがて、初恋の男性ジェローム(シャイア・ラブーフ)と初体験。が、これは痛いだけだった。これにもめげず、ジョーは色情狂の道を突っ走る。友達と列車の中で何人ナンパできるか競争したりと、愛なんかどうでもいい、性がすべて、の少女時代。話を聞きながら、書物をたくさん読んできたインテリのセリグマンは、それはアイザック・ウォルトンの「釣り魚大全」みたいだね、という感じで、ジョーの話にインテリの薀蓄を傾ける。
こんな具合に第一部は進むのだが、若い頃のジョーを演じるステイシー・マーティンが溌剌として魅力的で、彼女のあっけらかんとした性遍歴が面白く、それに対して薀蓄を傾けたりするセリグマンが面白い。傾けられている相手はゲンズブールの演じる中年のジョーなのだけど、若いジョーのエピソードと、話をする中年のジョーと聞くセリグマンのシーンの絶妙なコンビネーションもあって、第一部はとにかく楽しい。
学校を出たジョーは印刷会社の秘書になるが、そこで初体験の相手ジェロームと再会。しかし、ジェロームとはすれ違いに終わり、ジョーが愛を感じたときにはジェロームはすでに結婚して、どこかへ行ってしまっていた。
その後は多数の男と同時に関係を持つが、中には妻子と別れてジョーと一緒になろうとする中年男もいる。このエピソードが一番面白い。妻子と別れたといってジョーのもとに男が来ると、妻子がそのあとからやってきて文句を言う。ジョーは次の男が来るので、早く彼らを追い返したいのだが、妻は夫を責め、ジョーを責め、という具合に修羅場が続き、やがて次の男が来てしまう、という展開。ここは役者たちの演技のぶつかりあいもあって、なかなか見応えがある。妻が直接的には夫を責めながら、実はジョーも責めているというあたりも面白い。ジョー自体は夫はどうでもいいので、修羅場だけど笑ってしまう。
その後、ジョーはまたジェロームと再会する。ジェロームは妻とけんか別れしていたので、ジョーとつきあうことになるが、なんと、ジョーは性不感症になってしまう、というところで第一部は終わり。
唯一愛を抱いた男ジェロームと関係したら不感症になってしまったジョー。2人の間には子供も生まれるが、ジョーは不感症を直すため、サディストの男(ジェイミー・ベル)のもとに通う。この第二部からは中年のジョー(ゲンズブール)になっているのだが、若いマーティンから急に疲れた顔のゲンズブールに変わるのがかなりギャップがあるが、ジョー役がかわったことで映画も急展開。前半のコミカルで楽しい雰囲気はなくなり、いかにもトリアー的な重い話になっていく。
サドマゾのエピソードは例によってセリグマンの薀蓄が傾けられるが、それに対してジョーのつけたサブタイトルがユーモアといえばユーモアか。
そんなわけで、後半は重いのだけど、このサドマゾのエピソードが実はトリアーの旧作「奇跡の海」を連想させるのである。
「奇跡の海」は事故で下半身不随になり、妻と関係を結べなくなった夫(セリグマン役のスカルスガルドが演じた)が妻に、ほかの男と関係を持って、そのことを自分に報告してほしい、と頼む。妻は夫を愛しているので、他の男と関係を持つのはつらくてたまらないのだが、夫のために実行する。世間は彼女をふしだらな女と責める。そして最後には、妻は殺されてしまう。それからしばらくののち、夫が回復して歩けるようになったというシーンで映画は終わる。
これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でも描かれた、愛する者のために苦行をして命を落とすと愛する者の障害が治る、というパターンだ。
「奇跡の海」はそれが本当に奇跡のような、ある種の宗教的な神々しさをもって描かれていた。
「ニンフォマニアック」のサドマゾ・エピソードで、セリグマンは、キリスト教は西のカトリックでは磔にされたキリストの画像が圧倒的に多く、東の正教会では聖母子像が多い、つまり、西は受苦、東は愛だ、と言う。このエピソードのタイトルが東方教会と西方教会となっているのはそのことだ。
ジョーは最愛のジェロームとようやく結ばれたが、性不感症になってしまう。本来なら子供も生まれ、聖母子像のような愛ある家庭を築いているはずが、性不感症のためにしだいに夫も子供もどうでもよくなってしまう。彼女はサディストのもとを訪れ、鞭打たれることで性的な満足を得る。
つまり、これは「奇跡の海」のパロディみたいなものだ。ただ、今度は夫の側には問題がなく、妻が問題を抱えて受苦に走るというわけ。もちろん、ジョーの受苦は誰も救うことなく(自分は救えたが)、結果的に夫とも子供とも別れてしまう。
このあと、ジョーは借金取り立ての闇ビジネスの組織に加わり、そこで才能を発揮する。そして、仲間とある男の取り立てに向かったところ、なんと、その男はジェロームだった。ただ、役者はラブーフが老けメイクではなく、別人(マイケル・パス)が演じている。ジェロームと会いたくないジョーは、この仕事は自分の後継者と見込んだ若い女性P(ミア・ゴス)と他の部下たちに任せ、自分は何もしないことにする。ところがジェロームとPが恋に落ちてしまい、という具合に、映画は結末に近づく。
ジョーはジェロームと4度遭遇する。最初は初体験のとき。次は秘書になったとき。次は結婚。そして最後に後継者と見込んだ若い女性に彼を奪われたとき。
面白いのは、4度とも、ジョーはジェロームとは性的快楽を得られないということだ。
最初は痛いだけだった。次はすれ違い。3度目は性不感症になる。そして最後は、最初とはまったく別の意味で痛い。
すべてを語り終わったジョーは、性に無関心な人間になりたいと願う。書物だけで生きてきたセリグマンは性に関心がないようで、ジョーの話を冷静に聞いていた。
で、このあと、オチがあるのだが、これはそれほどびっくりするようなオチでもないので、ちょっと残念だった。
前半の若いジョーのエピソードがとにかく楽しく、全体を通じてジョーとセリグマンのやりとりも面白い。後半はよくも悪くもトリアーだ。
2014年8月21日木曜日
猛暑の映画めぐり
今、統計を見たら、全期間のページビューの数字に6が3つ並んでいたので、オーメンかと思った。すぐに数字は変化するはずだけど(と思ったら、666は万、千、百のところだったので、しばらくはこの数字が残ります)。
さて、先週は気温が低めでよかったのですが、今週はまた猛暑。今年の夏は気温が高く、湿度も高いので、汗が乾燥せず、困るのですが、昨日(水曜日)は生まれて初めて軽い熱中症のような症状がありました。
なにかちょっとこれはやばい、と思ったので、扇風機の風をガンガン体に当て、ジュースや水を飲んでしのぎましたが(水分だけでなく、塩分や糖分もとった方がいいような気がする)、やはりエアコンのない部屋は危険だと思います。
バスタブに水はっておいて、いつでも飛びこめるようにしておいた方がいいかもしれない。
というわけで、熱中症を避けるためにも外出して冷房のある場所に入るのが一番、ということで、今週は月曜から水曜まで試写室へ。
月曜は韓国のテノール歌手、ベー・チェチョルの実話の映画化「ザ・テノール」。ヨーロッパで活躍していたチェチョルが突然、甲状腺癌にかかり、声を失うが、日本人プロデューサーやファン、そして名医の力で歌声を取り戻す、という物語。
もともと声を失う前に日本で公演して人気を博していたそうですが、声を取り戻す過程で日本が大きくかかわっていたということで、日本のテレビで何度も取り上げられ、私は知らなかったのですが、かなり有名な話だったようです。
イギリス映画「ワンチャンス」もそうでしたが、テレビで取り上げられて有名な話の映画化だと、すでに知られているので映画自体にあまり興味が持たれない、ということがあるのか、どちらも試写が混んでないのですね。実話の映画化とはいえ、脚色されているので、実話そのものとは違うところもあるのですが、知らなければなかなか面白い映画なのに、むずかしいところだなあという気がしました。もちろん、ファンにとっては見る価値のある映画でしょう。
同じテレビで取り上げられたものでも、例の偽ベートーベンと違って、チェチョルは本物。活躍していた時代の歌声が使われていますが、なかなかすばらしい声です。
火曜はリチャード・リンクレイター監督が12年かけて撮った「6才のボクが大人になるまで。」。原題は「少年時代」ですが、邦題の方がいいです。まさにそのものずばりで、6才の少年とその家族を演じる4人の俳優が、毎年数日間ずつ撮影して12年かけて完成した劇映画。両親を演じるパトリシア・アークエットとイーサン・ホークはプロの俳優なので、12年間撮影してもそれなりに予想がつくと思いますが、子役の6才のエラー・コルトレーンと、姉役の9才のローレライ・リンクレイターは子役経験があるとはいえ、プロの俳優とは言えず、12年のうちにどう変化するか予想できないのに、よくやったというか、また、この4人の身に何か起こらないとも限らないので、ものすごい賭けだったと思うので、とにかくこの企画そのものに驚愕してしまいます。
そして映画は、12年間、細切れに撮影されたにもかかわらず、2時間45分のドラマの中で自然に子供たちが年をとり、大人たちも変化して、ドラマとしてきちんとまとまっています。シーンが変わると、子供たちの顔が少しずつ変化しているのがわかるし、特に少年が中学生になると、いきなり身長が高くなるのもリアル。
この12年間の間にリンクレイターは毎年のように別の映画を作っていたし、ホークとアークエットはさまざまな映画やテレビに出演していたわけですが、そのかたわら、こんな映画を作っていたとは。
映画の冒頭では両親はすでに離婚していて、母親が2人の子供の面倒を見て、父親はミュージシャンめざして風来坊生活をしていますが、その後、母親は2度も再婚して失敗、大学院を出て大学教師になるけれど、子供たちが巣立ってしまうと自分の人生が終わってしまうような感じ、そういう母親としての性(さが)、女としての性(さが)みたいなのをアークエットがみごとに演じています。彼女の場合、大学の先生といっても研究職ではなく、あちらは教育専門の大学の先生というのがいて、彼らは給料も高くないし、終身雇用でもないのですね(日本の非常勤講師のようなひどい待遇ではないが)。だから、大学の先生になったとはいっても、研究している先生とは立場が違うのです。一方、父親の方はやがてミュージシャンに見切りをつけ、保険会社に勤めて再婚し、まっとうな父親になっていきます。
少年役のエラー・コルトレーンが、青年になるにつれて濃い顔になっていくのが幼い頃の顔と比べてギャップがあるのですが、これがまさにリアルな男の子の成長で、普通の映画では絶対に表現できないものでしょう。彼にとっての新たな始まりを示すラストの夕暮れのシーンがすばらしい。監督もスタッフもキャストも、12年間、お疲れ様でした。
そして水曜は「柘榴坂の仇討」。浅田次郎の短編の映画だそうで、桜田門外の変で敬愛する井伊直弼を救えず、生き残ってしまった主人公が、逃げた犯人の仇討を命じられ、13年間、仇討の相手を探し続ける、というもの。その間、時代は変わり、明治維新、廃藩置県、そして最後は仇討禁止令と、江戸時代が過去のものになっていく中で、武士の魂という過去の美学を失うことなく、新しい時代に入っていくべし、ということがテーマになっているのかな。この間に仇討の相手は1人だけになってしまい、最後にこの2人が対決する。
この明治維新の前後というのは、何が正しくて何が間違っているのか、誰が正しくて誰が悪いのか、当時生きていた人にはよくわからなかったのだろう。その辺が人物たちのやりとりで描かれていて面白かった。主人公が仇討にこだわるのは井伊直弼という主君への愛だった、というのも納得できる。一方、ただ1人、死ねずに生き残ってしまった方も、自分を慕う未亡人と幼い娘がそばにいながら、未来への幸福を拒否してストイックに生きている(阿部寛が適役ですな)。
主人公(中井貴一)の妻、主人公をいさめる警部の妻と、女性陣も重要な役回りになっている。また、ミサンガや金平糖といった西洋のものが、主人公たちが新しい時代を受け入れるシンボルとして登場するあたりもいい。
火曜日は映画が終わったら6時すぎで、日中よりは涼しくなっていたので、試写室のある半蔵門から北の丸公園を通って神保町まで歩いた。そしたら、歩道がマラソン大会みたいにランニングする人でいっぱいだった。10人くらいでかたまっている人たちもいた。反対側の歩道を歩いていたのでよかったが、こんなにたくさんの人が走っているのか、と驚いてしまった。私は走るのは苦手。
さて、先週は気温が低めでよかったのですが、今週はまた猛暑。今年の夏は気温が高く、湿度も高いので、汗が乾燥せず、困るのですが、昨日(水曜日)は生まれて初めて軽い熱中症のような症状がありました。
なにかちょっとこれはやばい、と思ったので、扇風機の風をガンガン体に当て、ジュースや水を飲んでしのぎましたが(水分だけでなく、塩分や糖分もとった方がいいような気がする)、やはりエアコンのない部屋は危険だと思います。
バスタブに水はっておいて、いつでも飛びこめるようにしておいた方がいいかもしれない。
というわけで、熱中症を避けるためにも外出して冷房のある場所に入るのが一番、ということで、今週は月曜から水曜まで試写室へ。
月曜は韓国のテノール歌手、ベー・チェチョルの実話の映画化「ザ・テノール」。ヨーロッパで活躍していたチェチョルが突然、甲状腺癌にかかり、声を失うが、日本人プロデューサーやファン、そして名医の力で歌声を取り戻す、という物語。
もともと声を失う前に日本で公演して人気を博していたそうですが、声を取り戻す過程で日本が大きくかかわっていたということで、日本のテレビで何度も取り上げられ、私は知らなかったのですが、かなり有名な話だったようです。
イギリス映画「ワンチャンス」もそうでしたが、テレビで取り上げられて有名な話の映画化だと、すでに知られているので映画自体にあまり興味が持たれない、ということがあるのか、どちらも試写が混んでないのですね。実話の映画化とはいえ、脚色されているので、実話そのものとは違うところもあるのですが、知らなければなかなか面白い映画なのに、むずかしいところだなあという気がしました。もちろん、ファンにとっては見る価値のある映画でしょう。
同じテレビで取り上げられたものでも、例の偽ベートーベンと違って、チェチョルは本物。活躍していた時代の歌声が使われていますが、なかなかすばらしい声です。
火曜はリチャード・リンクレイター監督が12年かけて撮った「6才のボクが大人になるまで。」。原題は「少年時代」ですが、邦題の方がいいです。まさにそのものずばりで、6才の少年とその家族を演じる4人の俳優が、毎年数日間ずつ撮影して12年かけて完成した劇映画。両親を演じるパトリシア・アークエットとイーサン・ホークはプロの俳優なので、12年間撮影してもそれなりに予想がつくと思いますが、子役の6才のエラー・コルトレーンと、姉役の9才のローレライ・リンクレイターは子役経験があるとはいえ、プロの俳優とは言えず、12年のうちにどう変化するか予想できないのに、よくやったというか、また、この4人の身に何か起こらないとも限らないので、ものすごい賭けだったと思うので、とにかくこの企画そのものに驚愕してしまいます。
そして映画は、12年間、細切れに撮影されたにもかかわらず、2時間45分のドラマの中で自然に子供たちが年をとり、大人たちも変化して、ドラマとしてきちんとまとまっています。シーンが変わると、子供たちの顔が少しずつ変化しているのがわかるし、特に少年が中学生になると、いきなり身長が高くなるのもリアル。
この12年間の間にリンクレイターは毎年のように別の映画を作っていたし、ホークとアークエットはさまざまな映画やテレビに出演していたわけですが、そのかたわら、こんな映画を作っていたとは。
映画の冒頭では両親はすでに離婚していて、母親が2人の子供の面倒を見て、父親はミュージシャンめざして風来坊生活をしていますが、その後、母親は2度も再婚して失敗、大学院を出て大学教師になるけれど、子供たちが巣立ってしまうと自分の人生が終わってしまうような感じ、そういう母親としての性(さが)、女としての性(さが)みたいなのをアークエットがみごとに演じています。彼女の場合、大学の先生といっても研究職ではなく、あちらは教育専門の大学の先生というのがいて、彼らは給料も高くないし、終身雇用でもないのですね(日本の非常勤講師のようなひどい待遇ではないが)。だから、大学の先生になったとはいっても、研究している先生とは立場が違うのです。一方、父親の方はやがてミュージシャンに見切りをつけ、保険会社に勤めて再婚し、まっとうな父親になっていきます。
少年役のエラー・コルトレーンが、青年になるにつれて濃い顔になっていくのが幼い頃の顔と比べてギャップがあるのですが、これがまさにリアルな男の子の成長で、普通の映画では絶対に表現できないものでしょう。彼にとっての新たな始まりを示すラストの夕暮れのシーンがすばらしい。監督もスタッフもキャストも、12年間、お疲れ様でした。
そして水曜は「柘榴坂の仇討」。浅田次郎の短編の映画だそうで、桜田門外の変で敬愛する井伊直弼を救えず、生き残ってしまった主人公が、逃げた犯人の仇討を命じられ、13年間、仇討の相手を探し続ける、というもの。その間、時代は変わり、明治維新、廃藩置県、そして最後は仇討禁止令と、江戸時代が過去のものになっていく中で、武士の魂という過去の美学を失うことなく、新しい時代に入っていくべし、ということがテーマになっているのかな。この間に仇討の相手は1人だけになってしまい、最後にこの2人が対決する。
この明治維新の前後というのは、何が正しくて何が間違っているのか、誰が正しくて誰が悪いのか、当時生きていた人にはよくわからなかったのだろう。その辺が人物たちのやりとりで描かれていて面白かった。主人公が仇討にこだわるのは井伊直弼という主君への愛だった、というのも納得できる。一方、ただ1人、死ねずに生き残ってしまった方も、自分を慕う未亡人と幼い娘がそばにいながら、未来への幸福を拒否してストイックに生きている(阿部寛が適役ですな)。
主人公(中井貴一)の妻、主人公をいさめる警部の妻と、女性陣も重要な役回りになっている。また、ミサンガや金平糖といった西洋のものが、主人公たちが新しい時代を受け入れるシンボルとして登場するあたりもいい。
火曜日は映画が終わったら6時すぎで、日中よりは涼しくなっていたので、試写室のある半蔵門から北の丸公園を通って神保町まで歩いた。そしたら、歩道がマラソン大会みたいにランニングする人でいっぱいだった。10人くらいでかたまっている人たちもいた。反対側の歩道を歩いていたのでよかったが、こんなにたくさんの人が走っているのか、と驚いてしまった。私は走るのは苦手。
2014年8月16日土曜日
誰よりも狙われた男
ジョン・ル・カレの小説の映画化「誰よりも狙われた男」を見た。
キャリアの絶頂期で亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンの最後の主演作(出演作はこれから「ハンガーゲーム」の第三部が来るので、遺作ではない)ということで、試写室は大混雑。開映25分前に行ったらもう座席はいっぱいらしく、それでも10人近い人が並んでいる。補助椅子の準備をしているらしいのでそのまま並んでいたが、私のあとにもどんどん人が並んでくる。係が説明もしないので、イライラしながら待つこと15分くらい? 私の前で、補助椅子では、とあきらめて帰った人が数人いたので、なんとか入って見ることができた。
普通は補助椅子だと体が痛くなってしまって、けっこうつらいのだが、映画が面白かったので、ほとんど苦痛も感じずに最後まで見ることができた。
舞台はドイツのハンブルク。9・11テロの犯人たちが作戦を練った町として、今はテロリストを警戒するさまざまな組織が怪しい人物を見張っている。ホフマン扮するギュンター・バッハマン(名前からわかるとおり、ドイツ人)をリーダーとするグループは、町にやってきたイスラム過激派と見られるチェチェン人の青年を監視し、そこからテロリストに資金供与していると思われるイスラム教の学者をターゲットとしようとする。一方、チェチェン人の青年は女性弁護士の支援を受けながら、父親の遺産のある銀行の経営者に接近する。バッハマンは手段を選ばず、弁護士や銀行家を脅して仲間に引き入れるが、その一方で、チェチェン人の青年や、基本的には人道主義者である学者にも最善のことをしてやろうと考えている。しかし、ドイツの諜報機関やアメリカCIAも彼らをねらっていた。
という具合に、けっこう人物関係が複雑な話なのだが、映画はかなりわかりやすい。テロリストに関する話とはいえ、アクションシーンなどはなく、もっぱら頭脳戦なのだが、これがハリウッド映画とは一線を画す洗練された仕上がり。監督のアントン・コービンはオランダ出身とのことで、ヨーロッパ映画のような雰囲気がある。
ただ、主役のドイツ人3人が、北米俳優なのですね。
バッハマンのフィリップ・シーモア・ホフマン。アメリカ人。
女性弁護士のレイチェル・マクアダムズ。カナダ人。
銀行家のウィレム・デフォー。アメリカ人。
一方、CIAのベルリン支局の女性(アメリカ人)は、アメリカ人のロビン・ライト。
バッハマンの部下のドイツ人はドイツ人のニーナ・ホスとダニエル・ブリュール。
ロシア人の父とチェチェン人の母から生まれた青年はロシア人のグレゴリー・ドブリギン。
イスラム教の学者はイラン人のホマユン・エルシャディ。
つまり、脇役はみな、役柄と俳優のエスニックな背景が一致しているのだ。
そして、彼らの方が、主役の3人よりリアルに見える。
ホフマンもマクアダムズもデフォーも演技力のある俳優だが、彼らはやはりスター中のスターであって、役柄以前にホフマンであり、マクアダムズであり、デフォーなのだ。だから、彼らの演じる人物がドイツ人であるということに、終始、違和感があった。
原作者のル・カレによれば、「裏切りのサーカス」でゲイリー・オールドマンが演じたスマイリーを演じさせてもよい唯一のアメリカ人俳優がホフマンだったのだそうだ。ル・カレはホフマンの演じるバッハマンには満足しているようである。確かに、ドイツ人に見えない、ということを考えても、ホフマンがバッハマンを演じたことは成功だったといえる。バッハマンは複雑な人物で、狡猾だが、自分が利用した人々には最善のことをしてやりたいと思っている。立場上、狡猾で非情にならざるを得ないが、できるだけ人のためになるようにしたいという良心の持ち主なのだ。こういう役に一番ふさわしいのがホフマンだということは明らかだ。
だから、主役の3人がドイツ人に見えないので、これがドイツの話だということが今一つ際立たない、という欠点はあるものの、ホフマンの演技はその欠点を補う以上のものをもたらしている。
しかし、同時に、ドイツ人に見えない、ドイツの話としての印象が薄い、ということが、結末を弱めている、ということも言えると思う。
ホフマンでなければならないが、しかし、それだけではだめ、という、非常にむずかしいところなのだ。デフォーとマクアダムズをドイツ人俳優にしたらどうだっただろうか?
それにしても、フィリップ・シーモア・ホフマンという人は、どんな役をやっても内なるデーモンを感じさせる。俳優としての彼はまさに「魔物」だったと言ってよく、それゆえに、あのような最後は衝撃的ではあったけれど、魔物であればそうならざるを得ないのか、という感慨はあった。魔物的な要素を持つ俳優はたくさんいるが、ホフマンのように魔物そのものだったと感じた俳優は思い出せない。
キャリアの絶頂期で亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンの最後の主演作(出演作はこれから「ハンガーゲーム」の第三部が来るので、遺作ではない)ということで、試写室は大混雑。開映25分前に行ったらもう座席はいっぱいらしく、それでも10人近い人が並んでいる。補助椅子の準備をしているらしいのでそのまま並んでいたが、私のあとにもどんどん人が並んでくる。係が説明もしないので、イライラしながら待つこと15分くらい? 私の前で、補助椅子では、とあきらめて帰った人が数人いたので、なんとか入って見ることができた。
普通は補助椅子だと体が痛くなってしまって、けっこうつらいのだが、映画が面白かったので、ほとんど苦痛も感じずに最後まで見ることができた。
舞台はドイツのハンブルク。9・11テロの犯人たちが作戦を練った町として、今はテロリストを警戒するさまざまな組織が怪しい人物を見張っている。ホフマン扮するギュンター・バッハマン(名前からわかるとおり、ドイツ人)をリーダーとするグループは、町にやってきたイスラム過激派と見られるチェチェン人の青年を監視し、そこからテロリストに資金供与していると思われるイスラム教の学者をターゲットとしようとする。一方、チェチェン人の青年は女性弁護士の支援を受けながら、父親の遺産のある銀行の経営者に接近する。バッハマンは手段を選ばず、弁護士や銀行家を脅して仲間に引き入れるが、その一方で、チェチェン人の青年や、基本的には人道主義者である学者にも最善のことをしてやろうと考えている。しかし、ドイツの諜報機関やアメリカCIAも彼らをねらっていた。
という具合に、けっこう人物関係が複雑な話なのだが、映画はかなりわかりやすい。テロリストに関する話とはいえ、アクションシーンなどはなく、もっぱら頭脳戦なのだが、これがハリウッド映画とは一線を画す洗練された仕上がり。監督のアントン・コービンはオランダ出身とのことで、ヨーロッパ映画のような雰囲気がある。
ただ、主役のドイツ人3人が、北米俳優なのですね。
バッハマンのフィリップ・シーモア・ホフマン。アメリカ人。
女性弁護士のレイチェル・マクアダムズ。カナダ人。
銀行家のウィレム・デフォー。アメリカ人。
一方、CIAのベルリン支局の女性(アメリカ人)は、アメリカ人のロビン・ライト。
バッハマンの部下のドイツ人はドイツ人のニーナ・ホスとダニエル・ブリュール。
ロシア人の父とチェチェン人の母から生まれた青年はロシア人のグレゴリー・ドブリギン。
イスラム教の学者はイラン人のホマユン・エルシャディ。
つまり、脇役はみな、役柄と俳優のエスニックな背景が一致しているのだ。
そして、彼らの方が、主役の3人よりリアルに見える。
ホフマンもマクアダムズもデフォーも演技力のある俳優だが、彼らはやはりスター中のスターであって、役柄以前にホフマンであり、マクアダムズであり、デフォーなのだ。だから、彼らの演じる人物がドイツ人であるということに、終始、違和感があった。
原作者のル・カレによれば、「裏切りのサーカス」でゲイリー・オールドマンが演じたスマイリーを演じさせてもよい唯一のアメリカ人俳優がホフマンだったのだそうだ。ル・カレはホフマンの演じるバッハマンには満足しているようである。確かに、ドイツ人に見えない、ということを考えても、ホフマンがバッハマンを演じたことは成功だったといえる。バッハマンは複雑な人物で、狡猾だが、自分が利用した人々には最善のことをしてやりたいと思っている。立場上、狡猾で非情にならざるを得ないが、できるだけ人のためになるようにしたいという良心の持ち主なのだ。こういう役に一番ふさわしいのがホフマンだということは明らかだ。
だから、主役の3人がドイツ人に見えないので、これがドイツの話だということが今一つ際立たない、という欠点はあるものの、ホフマンの演技はその欠点を補う以上のものをもたらしている。
しかし、同時に、ドイツ人に見えない、ドイツの話としての印象が薄い、ということが、結末を弱めている、ということも言えると思う。
ホフマンでなければならないが、しかし、それだけではだめ、という、非常にむずかしいところなのだ。デフォーとマクアダムズをドイツ人俳優にしたらどうだっただろうか?
それにしても、フィリップ・シーモア・ホフマンという人は、どんな役をやっても内なるデーモンを感じさせる。俳優としての彼はまさに「魔物」だったと言ってよく、それゆえに、あのような最後は衝撃的ではあったけれど、魔物であればそうならざるを得ないのか、という感慨はあった。魔物的な要素を持つ俳優はたくさんいるが、ホフマンのように魔物そのものだったと感じた俳優は思い出せない。
2014年8月14日木曜日
アデル、ブルーは熱い色
昨日は名画座で「アデル、ブルーは熱い色」を見て、それからコーヒーショップで「リスボンへの夜行列車」の最後の100ページを読んだのだった。
「アデル~」は若い女性の性愛の物語、「リスボン~」は人生の終わりに近づいたことを実感し始めた男性の物語。現在の年齢だとやはり「リスボン~」の方が心に響くのだが、「アデル~」は若い頃でもあまり共感しなかったと思う。
正直、私はこの手の映画が苦手だ。
レズビアンだからではない。
セックスシーンがあるからでもない。
この映画に登場するアデルやエマのような女性に共感できないからだ。
特にアデルのようなタイプは英語で言うところのbeyond me(私には理解不能)。エマのようなタイプは理解はできるが、好きではない。
映画の原題は「アデルの人生、第1章と第2章」。原作はフランスの劇画で、劇画のタイトルが「ブルーは熱い色」のようだ。
物語は主人公アデルが高校生の時から始まる。アデルは愛と性を求めるごく普通の女子高生だが、あるとき、すれ違った髪を青く染めた女性にひきつけられる。しかし、彼女は告白してきた男性と関係を持つが、何かが違うと感じる。それは彼のせいではなく、自分のせいだ、と。
この映画には食べる場面が非常に多く、特にアデルの家で家族で食べるスパゲッティ・ボロネーズが何度も出てくる。アデルが食べ物を噛むのを映画は執拗に映し、口の中まで見せる。食欲=性欲というわけだ。
やがてアデルは道ですれ違った女性エマと知り合う。エマは美学生で、レズビアンだった。あっという間に2人は恋に落ちる。
で、このあと、2人のセックスシーンがリアルに描かれ、これがものすごい話題になっている映画なのだが、確かに若い女性2人の肉体がからむシーンにはエロス以上の美がある。
このセックスシーンについては、偽の性器を貼りつけて演技した、という女優たちの証言がある。(英語)
http://www.thedailybeast.com/articles/2013/09/01/the-stars-of-blue-is-the-warmest-color-on-the-riveting-lesbian-love-sory-and-graphic-sex-scenes.html
日本では性器が映るとそこをぼかしてしまうので見えないが、見えてもそれは本物ではないということだ。また、このシーンを本番だと思っている人もいるようだが、本番ではないということになる。
実際、上のインタビューを読むと、テイクを100回くらいやるとか、10分のセックスシーンを5日もかけて撮ったとか、明らかに本番はやってない。つまり、演技なのだ。
この記事では2人の女優(アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥ)は、もう二度とこの監督(アブデラティフ・ケシシュ)とは組みたくない、と言っていて、理由は、監督が支配的で、テイクを100回くらいやるし、2か月か3か月で撮影終了のはずが5か月半にも及んだとか、不満たらたら。カンヌでパルムドールを受賞しても、それでもいやなのだ。
アメリカでは細かい契約をするが、フランスでは監督が全権力を握っているので、いったん出演をOKするとどこまでも自分を差し出さなければならない、とも言っている。それでもこれほど支配的な監督はいないようで、セックスシーン以外でも不満たらたらのようだ。
第1章と第2章というタイトルだから、まだ続編があるのかも、と思ったが、女優たちがこれでは無理かも。
とにかく2人の女優はとてもよいので、3時間という長さを感じさせないが、やっぱり、2人のヒロインがパターン化されていると感じる。
アデルとエマを比べると、アデルは庶民の娘で、父親は保守的、堅気の仕事につくのが一番と考えていて、娘が同性愛などとはまったく思わない。アデルもそんな父の影響を受けてか、幼稚園の先生になる。
エマはアデルよりは裕福な家の娘のようだ。しかも、両親はおそらく娘の同性愛を知っていて、画家になりたいというエマの希望にも賛成している。
アデルの家ではスパゲッティ・ボロネーズをみんなでたっぷり食べて、庶民的ではあるけど、他の映画のような庶民のよさみたいなのはあまり見えない。食べ方も美しくないし、アデルはセクシーでキュートで魅力的だけれど、どこかだらしなさみたな、よく言えば素朴さみたいなところがある(映画が進むにつれて洗練されてはいくが)。エマの家では生ガキを上品に食べていて、家族の食卓もエレガントな感じ。
エマは文学が好きなアデルに、あなたも文章や詩を書けば、と提案するが、アデルは幼稚園教師の堅気な生活からはみ出そうとはしない。一方、エマはやがて画家として成功する。
同棲するようになった2人だが、やがて2人の関係にひびが入り、男性と浮気したアデルをエマが追い出すという展開になる。
この頃のエマはもう髪を青く染めていない。そして、なぜか、「キッズ・オールライト」でレズビアンのカップルを演じたアネット・ベニングふうになっている。アデルの方は、ベニングのパートナーなのに男性と関係してしまうジュリアン・ムーアに近くなる。若い女性の溌剌とした肉体に隠れているが、2人の関係は「キッズ・オールライト」ですでに見られた、よくあるパターンなのではないかという気がする。
セックスシーンと2人の女優の溌剌としたボディや表情を取り除いたら、そこにあるのは意外とステレオタイプな女たちなのではないのか?
アデルのような、恋する相手にメロメロな女性は苦手なのだが、クールで自立したエマも、ある種の男性原理を生きる女性に見える。画家としての成功はそうした男性原理に基づいているように見える。つまり、この映画のアデルとエマは、案外、昔ながらの女と男のタイプじゃないかと、そんな気がするのである。
今では男女の関係で表現しても面白くない、あるいは政治的に正しくないものを、同性愛で表現すると新鮮になる、というのはわりとあるように思う。私としては、「アルバート氏の人生」のグレン・クローズとジャネット・マクティアの方が新鮮に映るのだが。
「アデル~」は若い女性の性愛の物語、「リスボン~」は人生の終わりに近づいたことを実感し始めた男性の物語。現在の年齢だとやはり「リスボン~」の方が心に響くのだが、「アデル~」は若い頃でもあまり共感しなかったと思う。
正直、私はこの手の映画が苦手だ。
レズビアンだからではない。
セックスシーンがあるからでもない。
この映画に登場するアデルやエマのような女性に共感できないからだ。
特にアデルのようなタイプは英語で言うところのbeyond me(私には理解不能)。エマのようなタイプは理解はできるが、好きではない。
映画の原題は「アデルの人生、第1章と第2章」。原作はフランスの劇画で、劇画のタイトルが「ブルーは熱い色」のようだ。
物語は主人公アデルが高校生の時から始まる。アデルは愛と性を求めるごく普通の女子高生だが、あるとき、すれ違った髪を青く染めた女性にひきつけられる。しかし、彼女は告白してきた男性と関係を持つが、何かが違うと感じる。それは彼のせいではなく、自分のせいだ、と。
この映画には食べる場面が非常に多く、特にアデルの家で家族で食べるスパゲッティ・ボロネーズが何度も出てくる。アデルが食べ物を噛むのを映画は執拗に映し、口の中まで見せる。食欲=性欲というわけだ。
やがてアデルは道ですれ違った女性エマと知り合う。エマは美学生で、レズビアンだった。あっという間に2人は恋に落ちる。
で、このあと、2人のセックスシーンがリアルに描かれ、これがものすごい話題になっている映画なのだが、確かに若い女性2人の肉体がからむシーンにはエロス以上の美がある。
このセックスシーンについては、偽の性器を貼りつけて演技した、という女優たちの証言がある。(英語)
http://www.thedailybeast.com/articles/2013/09/01/the-stars-of-blue-is-the-warmest-color-on-the-riveting-lesbian-love-sory-and-graphic-sex-scenes.html
日本では性器が映るとそこをぼかしてしまうので見えないが、見えてもそれは本物ではないということだ。また、このシーンを本番だと思っている人もいるようだが、本番ではないということになる。
実際、上のインタビューを読むと、テイクを100回くらいやるとか、10分のセックスシーンを5日もかけて撮ったとか、明らかに本番はやってない。つまり、演技なのだ。
この記事では2人の女優(アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥ)は、もう二度とこの監督(アブデラティフ・ケシシュ)とは組みたくない、と言っていて、理由は、監督が支配的で、テイクを100回くらいやるし、2か月か3か月で撮影終了のはずが5か月半にも及んだとか、不満たらたら。カンヌでパルムドールを受賞しても、それでもいやなのだ。
アメリカでは細かい契約をするが、フランスでは監督が全権力を握っているので、いったん出演をOKするとどこまでも自分を差し出さなければならない、とも言っている。それでもこれほど支配的な監督はいないようで、セックスシーン以外でも不満たらたらのようだ。
第1章と第2章というタイトルだから、まだ続編があるのかも、と思ったが、女優たちがこれでは無理かも。
とにかく2人の女優はとてもよいので、3時間という長さを感じさせないが、やっぱり、2人のヒロインがパターン化されていると感じる。
アデルとエマを比べると、アデルは庶民の娘で、父親は保守的、堅気の仕事につくのが一番と考えていて、娘が同性愛などとはまったく思わない。アデルもそんな父の影響を受けてか、幼稚園の先生になる。
エマはアデルよりは裕福な家の娘のようだ。しかも、両親はおそらく娘の同性愛を知っていて、画家になりたいというエマの希望にも賛成している。
アデルの家ではスパゲッティ・ボロネーズをみんなでたっぷり食べて、庶民的ではあるけど、他の映画のような庶民のよさみたいなのはあまり見えない。食べ方も美しくないし、アデルはセクシーでキュートで魅力的だけれど、どこかだらしなさみたな、よく言えば素朴さみたいなところがある(映画が進むにつれて洗練されてはいくが)。エマの家では生ガキを上品に食べていて、家族の食卓もエレガントな感じ。
エマは文学が好きなアデルに、あなたも文章や詩を書けば、と提案するが、アデルは幼稚園教師の堅気な生活からはみ出そうとはしない。一方、エマはやがて画家として成功する。
同棲するようになった2人だが、やがて2人の関係にひびが入り、男性と浮気したアデルをエマが追い出すという展開になる。
この頃のエマはもう髪を青く染めていない。そして、なぜか、「キッズ・オールライト」でレズビアンのカップルを演じたアネット・ベニングふうになっている。アデルの方は、ベニングのパートナーなのに男性と関係してしまうジュリアン・ムーアに近くなる。若い女性の溌剌とした肉体に隠れているが、2人の関係は「キッズ・オールライト」ですでに見られた、よくあるパターンなのではないかという気がする。
セックスシーンと2人の女優の溌剌としたボディや表情を取り除いたら、そこにあるのは意外とステレオタイプな女たちなのではないのか?
アデルのような、恋する相手にメロメロな女性は苦手なのだが、クールで自立したエマも、ある種の男性原理を生きる女性に見える。画家としての成功はそうした男性原理に基づいているように見える。つまり、この映画のアデルとエマは、案外、昔ながらの女と男のタイプじゃないかと、そんな気がするのである。
今では男女の関係で表現しても面白くない、あるいは政治的に正しくないものを、同性愛で表現すると新鮮になる、というのはわりとあるように思う。私としては、「アルバート氏の人生」のグレン・クローズとジャネット・マクティアの方が新鮮に映るのだが。
「リスボンに誘われて」映画と原作
8月9日付の記事「最近見た映画から」で少し紹介した「リスボンに誘われて」の原作「リスボンへの夜行列車」を読み終えた。
映画とはだいぶ違う内容というか、映画よりも原作の方がはるかに奥の深い作品だった。
映画は原作の中の映画になりやすいところをピックアップして、映画として見やすいように改変した作品、という感じである。
原作では、主人公のスイスのギムナジウムの教師、57歳のグレゴリウスの人生と、1970年代にリスボンで死んだポルトガル人医師、アマデウの人生が重なるように描かれている。学校で古典を教えるグレゴリウスはかなり前に妻と離婚、子供もなく、親しい友人はギリシャ人の医師だけ。ただ、非常に優秀な古典学者で、教え方もうまく、生徒から人気もあるので、学校では重宝がられている先生。本人も、教師としての仕事と書物に囲まれた生活に満足しきっている。
そんな彼がポルトガル女性を飛び降り自殺から救ったあと、ポルトガルの言葉にひかれて偶然、手に取ったのがアマデウというポルトガル人の書いた自費出版の本。それを読むうちにアマデウという人物について知りたいと思い、仕事を捨ててリスボンへ旅立つ。
原作ではこのアマデウの書いた本の言葉が何度も引用されている。アマデウは裕福な貴族の生まれで、誰もが尊敬するような立派な青年。裁判官の父を批判したり、キリスト教会を批判したりと、体制批判もする。当時、ポルトガルは独裁政権下にあり、反体制運動をする人々は秘密警察によって逮捕され拷問されていた。そして、アマデウは秘密警察の将校であるメンデスという男が死にかかっていたとき、医師のつとめとして、彼の命を救った。それにより、アマデウは人々の怒りを買う。
アマデウの人生のもう1つの汚点は、親友ジョルジェの恋人エステファニアに一目ぼれしてしまったことだ。映画ではこのアマデウ、ジョルジェ、エステファニアの三角関係を物語の柱にしている。しかも、映画ではこの3人は若い男女なのだが、原作ではエステファニアは20代なかば、アマデウとジョルジェは彼女より30歳近く年上なのだ。
だから、映画では、この3人の関係は若い男女の愛のもつれ、エステファニアを愛するジョルジェと、エステファニアに一目ぼれしてしまったアマデウ、そして、アマデウに一目ぼれしてしまったエステファニアの3人が、独裁政権下の反対制運動の中で、危機に直面していく、といった内容になっている。
しかし、原作では、3人の関係はそのとおりで、反体制運動の中での危機も同じなのだが、アマデウがエステファニアより30歳近く年上なので、アマデウのエステファニアへの思いは単なる男女の愛ではなく、死が間近に迫った男が生を取り戻したいという思いから彼女に熱情を燃やす、というふうになっているのである。
アマデウは脳に病気を抱えており、このあと、脳内出血で死んでしまう。アマデウが理想を燃やし、人生について、社会についての哲学を持っていたことは彼の手記でわかるが、その彼が結局、50年以上生きて、ほとんど何もなしえなかった、ということが、原作から浮かび上がってくる。そして、それは現代のスイス人、グレゴリウスも同じなのだ。
映画では、グレゴリウスがアマデウの知り合いだった人々に会うことで、アマデウとジョルジェとエステファニアの物語が浮かび上がり、メンデスを助けたこともあとで役に立つということになり(これは原作にはない)、最初のポルトガル女性が誰かもわかり(これも原作にはない)、そして、アマデウについて調べるうちにグレゴリウスが反体制運動家だった男性の姪と親しくなって、新たな可能性が生まれるという結果になっているが(これも原作とは違う)、原作に比べると人物模様中心になったという感が否めない。ただ、ポルトガルの現代史を浮かび上がらせるという点は、映画の方が優れている。
原作では、人生の終わりに近づき、めまいなど体調不良もあって重い病気の可能性もあるグレゴリウスが、すばらしい人物であったが何もなせずに死んだアマデウの人生を知ることで、自分の人生を振り返る、という構成になっている。原作の方がずっと内省的で、これを映画にするのはむずかしいから、映画と原作はポイントが別、と思えばいいのだろう。ただ、グレゴリウスと同じ世代であり、同じように自分の人生を振り返ることが多い私には、やはり原作の方が心に残る。
なお、原作はけっこうわかりづらいところもあって、映画を先に見ていたおかげでとっつきやすかった。そういう点では、映画を見てから原作を読むのもよいかもしれない。
最後に、アマデウの言葉から。
「魂とは、事実の宿る場所だろうか? それとも、いわゆる事実と呼ばれるものは、ただ我々が語る話の見せ掛けの影にすぎないのだろうか?」
「人生とは、我々の現に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ。」
訃報
ロビン・ウィリアムズに続いて、ローレン・バコールの訃報があった。
バコールは好きな女優だったが、89歳とのことなので、大往生だろう。
デビュー作「脱出」の彼女はまだ20歳だったという。20歳にはとても見えないが。
モデルのアルバイトをしながら演劇学校に通っていたが、モデル出身ということ、そしてわりとタイプ化された役が多かったので、はじめのうちは演技派とは思われていなかったが、年とともに演技派として認められ、大女優の貫録を得た人だった。
それでも、「脱出」、「三つ数えろ」など、クールなハスキーボイスのハードボイルド・ヒロインが一番印象に残っている。
映画とはだいぶ違う内容というか、映画よりも原作の方がはるかに奥の深い作品だった。
映画は原作の中の映画になりやすいところをピックアップして、映画として見やすいように改変した作品、という感じである。
原作では、主人公のスイスのギムナジウムの教師、57歳のグレゴリウスの人生と、1970年代にリスボンで死んだポルトガル人医師、アマデウの人生が重なるように描かれている。学校で古典を教えるグレゴリウスはかなり前に妻と離婚、子供もなく、親しい友人はギリシャ人の医師だけ。ただ、非常に優秀な古典学者で、教え方もうまく、生徒から人気もあるので、学校では重宝がられている先生。本人も、教師としての仕事と書物に囲まれた生活に満足しきっている。
そんな彼がポルトガル女性を飛び降り自殺から救ったあと、ポルトガルの言葉にひかれて偶然、手に取ったのがアマデウというポルトガル人の書いた自費出版の本。それを読むうちにアマデウという人物について知りたいと思い、仕事を捨ててリスボンへ旅立つ。
原作ではこのアマデウの書いた本の言葉が何度も引用されている。アマデウは裕福な貴族の生まれで、誰もが尊敬するような立派な青年。裁判官の父を批判したり、キリスト教会を批判したりと、体制批判もする。当時、ポルトガルは独裁政権下にあり、反体制運動をする人々は秘密警察によって逮捕され拷問されていた。そして、アマデウは秘密警察の将校であるメンデスという男が死にかかっていたとき、医師のつとめとして、彼の命を救った。それにより、アマデウは人々の怒りを買う。
アマデウの人生のもう1つの汚点は、親友ジョルジェの恋人エステファニアに一目ぼれしてしまったことだ。映画ではこのアマデウ、ジョルジェ、エステファニアの三角関係を物語の柱にしている。しかも、映画ではこの3人は若い男女なのだが、原作ではエステファニアは20代なかば、アマデウとジョルジェは彼女より30歳近く年上なのだ。
だから、映画では、この3人の関係は若い男女の愛のもつれ、エステファニアを愛するジョルジェと、エステファニアに一目ぼれしてしまったアマデウ、そして、アマデウに一目ぼれしてしまったエステファニアの3人が、独裁政権下の反対制運動の中で、危機に直面していく、といった内容になっている。
しかし、原作では、3人の関係はそのとおりで、反体制運動の中での危機も同じなのだが、アマデウがエステファニアより30歳近く年上なので、アマデウのエステファニアへの思いは単なる男女の愛ではなく、死が間近に迫った男が生を取り戻したいという思いから彼女に熱情を燃やす、というふうになっているのである。
アマデウは脳に病気を抱えており、このあと、脳内出血で死んでしまう。アマデウが理想を燃やし、人生について、社会についての哲学を持っていたことは彼の手記でわかるが、その彼が結局、50年以上生きて、ほとんど何もなしえなかった、ということが、原作から浮かび上がってくる。そして、それは現代のスイス人、グレゴリウスも同じなのだ。
映画では、グレゴリウスがアマデウの知り合いだった人々に会うことで、アマデウとジョルジェとエステファニアの物語が浮かび上がり、メンデスを助けたこともあとで役に立つということになり(これは原作にはない)、最初のポルトガル女性が誰かもわかり(これも原作にはない)、そして、アマデウについて調べるうちにグレゴリウスが反体制運動家だった男性の姪と親しくなって、新たな可能性が生まれるという結果になっているが(これも原作とは違う)、原作に比べると人物模様中心になったという感が否めない。ただ、ポルトガルの現代史を浮かび上がらせるという点は、映画の方が優れている。
原作では、人生の終わりに近づき、めまいなど体調不良もあって重い病気の可能性もあるグレゴリウスが、すばらしい人物であったが何もなせずに死んだアマデウの人生を知ることで、自分の人生を振り返る、という構成になっている。原作の方がずっと内省的で、これを映画にするのはむずかしいから、映画と原作はポイントが別、と思えばいいのだろう。ただ、グレゴリウスと同じ世代であり、同じように自分の人生を振り返ることが多い私には、やはり原作の方が心に残る。
なお、原作はけっこうわかりづらいところもあって、映画を先に見ていたおかげでとっつきやすかった。そういう点では、映画を見てから原作を読むのもよいかもしれない。
最後に、アマデウの言葉から。
「魂とは、事実の宿る場所だろうか? それとも、いわゆる事実と呼ばれるものは、ただ我々が語る話の見せ掛けの影にすぎないのだろうか?」
「人生とは、我々の現に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ。」
訃報
ロビン・ウィリアムズに続いて、ローレン・バコールの訃報があった。
バコールは好きな女優だったが、89歳とのことなので、大往生だろう。
デビュー作「脱出」の彼女はまだ20歳だったという。20歳にはとても見えないが。
モデルのアルバイトをしながら演劇学校に通っていたが、モデル出身ということ、そしてわりとタイプ化された役が多かったので、はじめのうちは演技派とは思われていなかったが、年とともに演技派として認められ、大女優の貫録を得た人だった。
それでも、「脱出」、「三つ数えろ」など、クールなハスキーボイスのハードボイルド・ヒロインが一番印象に残っている。
2014年8月13日水曜日
アイ・フランケンシュタイン(ネタバレあり)
メアリ・シェリーの小説「フランケンシュタイン」からヒントを得た新しいフランケンシュタインもの、ということで期待した、と言いたいところだけど、RottenTomatoesでの評判があまりにも悪いので、全然期待していなかった。
ただ、一応、「フランケンシュタイン」だから見ておかねばならないな、と思っていたら、試写状が来たので、見に行った。
物語は原作小説の最後から始まる、といっても、実際は原作とは違うところもあるのだけれど、とにかく、自分を造った科学者ヴィクター・フランケンシュタインが亡くなり、怪物は彼を埋葬する。と、そのとき現れたのが天使軍団と悪魔軍団。この天使と悪魔の争いに巻き込まれた怪物は、天使軍団の女王からアダムと名づけられ、協力を求められる。が、怪物はそれから200年間、世間とは隔絶した世界でひきこもり。が、200年後の現代、人間の世界に戻った怪物(不老不死なのだ)は、再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれる、というお話。
原作を知る人ならご存知のように、フランケンシュタインの造った怪物には名前がない。怪物は原作ではモンスターではなくクリーチャーと呼ばれ、それはこの映画でも踏襲されている。
で、怪物はフランケンシュタインが生んだ息子のようなものだから、姓はフランケンシュタインでおかしくないよなあ、と思っていたら、天使軍団の女王からアダムと名づけられた怪物は、最終的にはアダム・フランケンシュタインとなる。
最後にフランケンシュタインという姓を手に入れるところがいいのだが、日本語の解説では終始、彼をフランケンと呼んでいるのだ。うーん、映画の趣旨とは違う。あと、字幕では科学者フラケンシュタインを博士と書いているが、フラケンシュタインは博士ではない(博士号を取っていない)。映画でも英語のセリフにはドクターという言葉はない。まあ、字幕だと字数の問題があるので、しょうがない部分はあるのだが。あと、ビル・ナイ扮する悪魔のリーダーを、魔王の王子としてるんだけど、英語はデーモン・プリンスで、このプリンスは王子じゃないのだけどね。ちなみに、プリンス・オブ・ダークネスといえば、悪魔のことです。まあ、ビル・ナイのリーダーはサタンではなく、サタンの手下だとは思うが。デーモン・プリンスで魔王じゃないのかな?
怪物がアダムと名づけられるのは原作を知っていれば納得なのだけど、原作ではフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読んで自分の来歴を知った怪物が、神はアダムを造って楽園に住まわせ、イヴという彼女まで造ってやったのに、フランケンシュタインは自分を造ったあと放り出してしまった、本当なら自分はアダムのはずなのに、と怒るのだ。で、怪物がなんでアダムとイヴの話を知っているかというと、その前に森の中でジョン・ミルトンの「失楽園」を拾って読んでいたから。「失楽園」は聖書の創世記をもとにした叙事詩で、神に挑戦するサタンがイヴに知恵の木の実を食べさせ、それを知ったアダムがイヴへの愛から自分も木の実を食べて楽園を追われる、という物語。アダムとイヴの物語であると同時に、神に挑戦するサタンの物語でもある。怪物は、本来ならアダムであるはずの自分が迫害されたことに腹を立て、サタンになってやる、と決意する。その一方で、自分にとってのイヴを造ってくれとフランケンシュタインに頼むが、拒否され、さらに復讐鬼に、というのが原作。
そんなわけで、怪物がアダムと名づけられるのは非常にもっともなのだ。
それから200年たって、怪物ことアダムが再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれ、ここからアクションがいろいろ始まるのだけど、アクション中心で脚本が弱い。
天使軍団と悪魔軍団の戦い、その両方にねらわれるアダム、そして悪魔軍団が女性科学者を使って、かつてフランケンシュタインがやったような人造人間製造を目論み、そのためにフランケンシュタインの日誌(実験ノート)と怪物(アダム)を手に入れようとする、という陰謀が繰り広げられる。
その若い女性科学者と頭の禿げた中年科学者と、デーモン・プリンスのビル・ナイがなんとか事件の誰かに似ている?という話はやめておきます(いや、別に似てないですが)。
しかし、フランケンシュタインの実験ノートを読んだら、人造人間製造のときに電気ウナギを6匹使ったとか書いてあるのが笑える。原作では電気を使ったとは書いてないのだが、原作の最初の方に雷の話が出てきていて、当時のガルヴァーニ電流などを考えると、電気を使ったに違いないと想像されるので、ボリス・カーロフの古い映画からケネス・ブラナーの新しい映画まで、怪物製造には電気が使われることになっている。でも、これまでは雷だったのだが、電気ウナギとは。
それはともかく、脚本があまりにも工夫がないので、話はあまり面白くないのだが、ヴィジュアルはなかなかにすばらしい。
脚本的に惜しいなと思うのは、最初にアダムと名づけられた怪物が、物語が進む中でフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読み(原作ではすでに読んでいるのだが)、それで自分のアイデンティティがわかって、最後にアダム・フランケンシュタインとなる、という設定が、もっと工夫すれば面白くなるのにな、と思うからだ。
怪物役はアーロン・エッカートで、原作の怪物とは違って二枚目だが、魂がまだない、ということになっていて(これも原作とは違うのだが)、この魂を得ることがアイデンティティの獲得と重なっているので、ここをもっと脚本でうまく描けていたらと思う。
アーロン・エッカートは「ダークナイト」のトゥー・フェイスが有名だが、俳優としてはかなり前からいろいろな映画に出演していて、二枚目なのに今一つ芽が出ないな、と思っていた人。地味な文芸物の二枚目とかではイマイチ、パッとしなかったのか、トゥー・フェイスやこの怪物のような、崩れた二枚目みたいな方がよいのかもしれない。
とにかく、「フランケンシュタイン」好きなら一応見とけ、って感じの映画。
あ、あと、天使軍団の人々がガーゴイルという名前なのだが、ガーゴイルというのは西洋の大聖堂のような大きな建物の屋根にある、怪物などの彫刻のついた雨どいのこと。バットマンもこのガーゴイルふうにビルの上に立っていたりするが、高いところから見下ろしている怪物や天使ですね。天使軍団がガーゴイルというのは映像でばっちり見せてくれます。
ただ、一応、「フランケンシュタイン」だから見ておかねばならないな、と思っていたら、試写状が来たので、見に行った。
物語は原作小説の最後から始まる、といっても、実際は原作とは違うところもあるのだけれど、とにかく、自分を造った科学者ヴィクター・フランケンシュタインが亡くなり、怪物は彼を埋葬する。と、そのとき現れたのが天使軍団と悪魔軍団。この天使と悪魔の争いに巻き込まれた怪物は、天使軍団の女王からアダムと名づけられ、協力を求められる。が、怪物はそれから200年間、世間とは隔絶した世界でひきこもり。が、200年後の現代、人間の世界に戻った怪物(不老不死なのだ)は、再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれる、というお話。
原作を知る人ならご存知のように、フランケンシュタインの造った怪物には名前がない。怪物は原作ではモンスターではなくクリーチャーと呼ばれ、それはこの映画でも踏襲されている。
で、怪物はフランケンシュタインが生んだ息子のようなものだから、姓はフランケンシュタインでおかしくないよなあ、と思っていたら、天使軍団の女王からアダムと名づけられた怪物は、最終的にはアダム・フランケンシュタインとなる。
最後にフランケンシュタインという姓を手に入れるところがいいのだが、日本語の解説では終始、彼をフランケンと呼んでいるのだ。うーん、映画の趣旨とは違う。あと、字幕では科学者フラケンシュタインを博士と書いているが、フラケンシュタインは博士ではない(博士号を取っていない)。映画でも英語のセリフにはドクターという言葉はない。まあ、字幕だと字数の問題があるので、しょうがない部分はあるのだが。あと、ビル・ナイ扮する悪魔のリーダーを、魔王の王子としてるんだけど、英語はデーモン・プリンスで、このプリンスは王子じゃないのだけどね。ちなみに、プリンス・オブ・ダークネスといえば、悪魔のことです。まあ、ビル・ナイのリーダーはサタンではなく、サタンの手下だとは思うが。デーモン・プリンスで魔王じゃないのかな?
怪物がアダムと名づけられるのは原作を知っていれば納得なのだけど、原作ではフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読んで自分の来歴を知った怪物が、神はアダムを造って楽園に住まわせ、イヴという彼女まで造ってやったのに、フランケンシュタインは自分を造ったあと放り出してしまった、本当なら自分はアダムのはずなのに、と怒るのだ。で、怪物がなんでアダムとイヴの話を知っているかというと、その前に森の中でジョン・ミルトンの「失楽園」を拾って読んでいたから。「失楽園」は聖書の創世記をもとにした叙事詩で、神に挑戦するサタンがイヴに知恵の木の実を食べさせ、それを知ったアダムがイヴへの愛から自分も木の実を食べて楽園を追われる、という物語。アダムとイヴの物語であると同時に、神に挑戦するサタンの物語でもある。怪物は、本来ならアダムであるはずの自分が迫害されたことに腹を立て、サタンになってやる、と決意する。その一方で、自分にとってのイヴを造ってくれとフランケンシュタインに頼むが、拒否され、さらに復讐鬼に、というのが原作。
そんなわけで、怪物がアダムと名づけられるのは非常にもっともなのだ。
それから200年たって、怪物ことアダムが再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれ、ここからアクションがいろいろ始まるのだけど、アクション中心で脚本が弱い。
天使軍団と悪魔軍団の戦い、その両方にねらわれるアダム、そして悪魔軍団が女性科学者を使って、かつてフランケンシュタインがやったような人造人間製造を目論み、そのためにフランケンシュタインの日誌(実験ノート)と怪物(アダム)を手に入れようとする、という陰謀が繰り広げられる。
その若い女性科学者と頭の禿げた中年科学者と、デーモン・プリンスのビル・ナイがなんとか事件の誰かに似ている?という話はやめておきます(いや、別に似てないですが)。
しかし、フランケンシュタインの実験ノートを読んだら、人造人間製造のときに電気ウナギを6匹使ったとか書いてあるのが笑える。原作では電気を使ったとは書いてないのだが、原作の最初の方に雷の話が出てきていて、当時のガルヴァーニ電流などを考えると、電気を使ったに違いないと想像されるので、ボリス・カーロフの古い映画からケネス・ブラナーの新しい映画まで、怪物製造には電気が使われることになっている。でも、これまでは雷だったのだが、電気ウナギとは。
それはともかく、脚本があまりにも工夫がないので、話はあまり面白くないのだが、ヴィジュアルはなかなかにすばらしい。
脚本的に惜しいなと思うのは、最初にアダムと名づけられた怪物が、物語が進む中でフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読み(原作ではすでに読んでいるのだが)、それで自分のアイデンティティがわかって、最後にアダム・フランケンシュタインとなる、という設定が、もっと工夫すれば面白くなるのにな、と思うからだ。
怪物役はアーロン・エッカートで、原作の怪物とは違って二枚目だが、魂がまだない、ということになっていて(これも原作とは違うのだが)、この魂を得ることがアイデンティティの獲得と重なっているので、ここをもっと脚本でうまく描けていたらと思う。
アーロン・エッカートは「ダークナイト」のトゥー・フェイスが有名だが、俳優としてはかなり前からいろいろな映画に出演していて、二枚目なのに今一つ芽が出ないな、と思っていた人。地味な文芸物の二枚目とかではイマイチ、パッとしなかったのか、トゥー・フェイスやこの怪物のような、崩れた二枚目みたいな方がよいのかもしれない。
とにかく、「フランケンシュタイン」好きなら一応見とけ、って感じの映画。
あ、あと、天使軍団の人々がガーゴイルという名前なのだが、ガーゴイルというのは西洋の大聖堂のような大きな建物の屋根にある、怪物などの彫刻のついた雨どいのこと。バットマンもこのガーゴイルふうにビルの上に立っていたりするが、高いところから見下ろしている怪物や天使ですね。天使軍団がガーゴイルというのは映像でばっちり見せてくれます。
2014年8月12日火曜日
訃報 ロビン・ウィリアムズ
コメディ俳優、ロビン・ウィリアムズが亡くなったというニュースをついさっき、見た。
重いうつ病で、自殺だという。
陽気で、人を笑わせたコメディ俳優がうつで自殺とは。
実は私は「バットマン・リターンズ」のペンギンをロビン・ウィリアムズだと思い込んでいたことがわかった。実際はダニー・デヴィートだったのだが、どこで記憶が書き換えられたのだろう。
なんか、間違えて、どこかに書いてしまった気がする。たぶん、ブログだと思うけど。
ロビン・ウィリアムズを最初に見たのは「ポパイ」だったが、次の「ガープの世界」が彼の代表作の1つになるだろう。舞台専門だったグレン・クローズが35歳で映画デビュー、老けのメイクでガープの母を演じていた。当時はよくわからなかったのだけど、変わり者のシングルマザーに育てられたガープのどこか奇妙でほのぼのとした人生模様だったような気がする(もう一度見たい)。
それから、「グッドモーニング・ベトナム」のディスクジョッキー。これでアカデミー賞を取るべきだったと思うのだが、取れず。
その後も「いまを生きる」や「レナードの朝」など日本でも人気の映画に次々主演。
そして、マット・デイモンとベン・アフレックが脚本賞を受賞した「グッド・ウィル・ハンティング」で助演男優賞受賞。受賞はよかったけど、これで受賞というのがやはり残念だった。
それから、本格的に悪役を演じた「インソムニア」。これはノベライズの翻訳をしたので、個人的に思い入れのある作品。ウィリアムズの悪役はこれが初めてではないけれど、いかにも人のよさそうな柔和な表情でサイコキラーを演じたところがすごかった。
最近では「大統領の執事の涙」のアイゼンハワー大統領役。
まだまだ十分活躍できる年齢(63歳)だったのに。
どこかで読んだのだが、ウィリアムズはサインを求めるファンのために、「あなたはロビン・ウィリアムズに出会ったことを証明します」というカードを用意して、出会ったファンに渡していたのだという。すべての人にサインできないので、カードを用意していたのだろう、律儀な人だなあ、と思ったのを思い出す。
重いうつ病で、自殺だという。
陽気で、人を笑わせたコメディ俳優がうつで自殺とは。
実は私は「バットマン・リターンズ」のペンギンをロビン・ウィリアムズだと思い込んでいたことがわかった。実際はダニー・デヴィートだったのだが、どこで記憶が書き換えられたのだろう。
なんか、間違えて、どこかに書いてしまった気がする。たぶん、ブログだと思うけど。
ロビン・ウィリアムズを最初に見たのは「ポパイ」だったが、次の「ガープの世界」が彼の代表作の1つになるだろう。舞台専門だったグレン・クローズが35歳で映画デビュー、老けのメイクでガープの母を演じていた。当時はよくわからなかったのだけど、変わり者のシングルマザーに育てられたガープのどこか奇妙でほのぼのとした人生模様だったような気がする(もう一度見たい)。
それから、「グッドモーニング・ベトナム」のディスクジョッキー。これでアカデミー賞を取るべきだったと思うのだが、取れず。
その後も「いまを生きる」や「レナードの朝」など日本でも人気の映画に次々主演。
そして、マット・デイモンとベン・アフレックが脚本賞を受賞した「グッド・ウィル・ハンティング」で助演男優賞受賞。受賞はよかったけど、これで受賞というのがやはり残念だった。
それから、本格的に悪役を演じた「インソムニア」。これはノベライズの翻訳をしたので、個人的に思い入れのある作品。ウィリアムズの悪役はこれが初めてではないけれど、いかにも人のよさそうな柔和な表情でサイコキラーを演じたところがすごかった。
最近では「大統領の執事の涙」のアイゼンハワー大統領役。
まだまだ十分活躍できる年齢(63歳)だったのに。
どこかで読んだのだが、ウィリアムズはサインを求めるファンのために、「あなたはロビン・ウィリアムズに出会ったことを証明します」というカードを用意して、出会ったファンに渡していたのだという。すべての人にサインできないので、カードを用意していたのだろう、律儀な人だなあ、と思ったのを思い出す。
2014年8月10日日曜日
松屋はもう本当にいらない。
2020年4月追記
この記事からすでに6年近くがたち、以下のような状況はもうありません。
一時的なことで、その後は松屋を愛用しています。
********************
プレミアム牛めし導入で大幅値上げ、だけならまだしも、好きなメニューを全滅させてくれやがった松屋ですが、以来、松屋には行ってませんでした。
が、好みのうまトマハンバーグ定食が復活したので、久々に松屋へ。
入ってみると、あれ、冷房が?
客が一人もいないので冷房切っていたのか?
私が席につくとおもむろに冷房が動き出しました(全然客いないってことじゃん?)。
そして、出てきたハンバーグが、なんと、表面だけ焼いて、中は全然火が通ってない!
実は松屋は以前、こういうことがよくあって、文句言わずに食べているお客さんが多かったのですが、私は苦情を言って作り直してもらっていました。
実際、うまトマは夏のメニューなので、文句言わないと食中毒が出る恐れも。
どうもスタッフに指示が徹底していなくて、スタッフが「今まで全部生焼けだったんだ」とあせっている店もありました。
その後、本部が改善したのか、最近は生焼けハンバーグにはお目にかからないでいました。
で、今回も苦情を言ったのですが、店員が苦情の内容を理解できないのです。何度言っても理解不能。こんなこと初めて。
やがて先輩らしい店員が奥から出てきて、作り直してくれましたが、火が通っていてもハンバーグは以前よりまずいし、なによりトマトソースが以前よりまずい。おまけに客いないからごはんが最初から冷めてるっぽい。
もう松屋は二度と行かん!
この店は以前はベテランっぽいおじさんやおばさんが店員だったのに、なぜか、この日は経験不足っぽい若い人が厨房にいて、あとから出てきた先輩も若い人でした。
手間がかかるというプレミアム牛めしのせいで、ベテラン店員も逃げだしているのか?
松屋は牛めしをやめて定食路線で行きたいのでは、という予想をする人もいますが、実際は定食メニューが減っていて、なおかつ、うまトマ定食がこんなまずいんじゃ、定食路線も無理でしょ。
7月はネギトロ丼で売り上げはよかったみたいだけど、そのプレミアム牛めしのせいでネギトロ丼も短期間で姿を消しています。辛みそ炒めも人気、とか書いてあったけど、それもプレミアムのせいで姿を消したのだよ。カレーが値下げしているけど、もともと松屋のカレーは好きではない。
というわけで、松屋がだめになったので、なか卯や吉野家や富士そば、そして値段高いけどココイチやファミレスに行っているのですが(夏は暑くて自炊は無理。エアコンないし)、なか卯は手際の悪い店に当たると大変だと判明。店によるなあ、ここ。吉野家は私好みではないのだけど(券売機じゃない店は苦手、あとメニューが少ない)、牛バラ野菜焼き定食がけっこういけます。ただ、夏なのにコンロと鍋ってどうよ、と思いますけどね。でも、おいしいし、ワンコインでおつりが来るのもうれしい。今は割引券も配ってます。
ココイチのカレーは好きなんだけど、最近、カレーを食べると必ず胸焼けがするようになってしまい、それで、ココイチではハッシュドビーフを頼むことが増えました。これ、なかなかよい。軽く食べたいときはハーフもあるし。
カレーといえば、ジョナサンのタイ風カレーもうまかったな。まだやってるのかな? ごはんがインディカ米なんですよ。これがカレーに合う。
カレーで胸焼けしてるので、トンカツ、フライ、天ぷらは避けています。その他、ウェンディーズのチリ(大好物)でも胸焼けしてしまう。ひどいときは食パン食べただけで胸焼け。調べたら、胃と食道の間の弁の締りが悪くなると胃酸が逆流して胸焼けになるのだとか。年とともにいろいろなところが弱ってくるようです。
この記事からすでに6年近くがたち、以下のような状況はもうありません。
一時的なことで、その後は松屋を愛用しています。
********************
プレミアム牛めし導入で大幅値上げ、だけならまだしも、好きなメニューを全滅させてくれやがった松屋ですが、以来、松屋には行ってませんでした。
が、好みのうまトマハンバーグ定食が復活したので、久々に松屋へ。
入ってみると、あれ、冷房が?
客が一人もいないので冷房切っていたのか?
私が席につくとおもむろに冷房が動き出しました(全然客いないってことじゃん?)。
そして、出てきたハンバーグが、なんと、表面だけ焼いて、中は全然火が通ってない!
実は松屋は以前、こういうことがよくあって、文句言わずに食べているお客さんが多かったのですが、私は苦情を言って作り直してもらっていました。
実際、うまトマは夏のメニューなので、文句言わないと食中毒が出る恐れも。
どうもスタッフに指示が徹底していなくて、スタッフが「今まで全部生焼けだったんだ」とあせっている店もありました。
その後、本部が改善したのか、最近は生焼けハンバーグにはお目にかからないでいました。
で、今回も苦情を言ったのですが、店員が苦情の内容を理解できないのです。何度言っても理解不能。こんなこと初めて。
やがて先輩らしい店員が奥から出てきて、作り直してくれましたが、火が通っていてもハンバーグは以前よりまずいし、なによりトマトソースが以前よりまずい。おまけに客いないからごはんが最初から冷めてるっぽい。
もう松屋は二度と行かん!
この店は以前はベテランっぽいおじさんやおばさんが店員だったのに、なぜか、この日は経験不足っぽい若い人が厨房にいて、あとから出てきた先輩も若い人でした。
手間がかかるというプレミアム牛めしのせいで、ベテラン店員も逃げだしているのか?
松屋は牛めしをやめて定食路線で行きたいのでは、という予想をする人もいますが、実際は定食メニューが減っていて、なおかつ、うまトマ定食がこんなまずいんじゃ、定食路線も無理でしょ。
7月はネギトロ丼で売り上げはよかったみたいだけど、そのプレミアム牛めしのせいでネギトロ丼も短期間で姿を消しています。辛みそ炒めも人気、とか書いてあったけど、それもプレミアムのせいで姿を消したのだよ。カレーが値下げしているけど、もともと松屋のカレーは好きではない。
というわけで、松屋がだめになったので、なか卯や吉野家や富士そば、そして値段高いけどココイチやファミレスに行っているのですが(夏は暑くて自炊は無理。エアコンないし)、なか卯は手際の悪い店に当たると大変だと判明。店によるなあ、ここ。吉野家は私好みではないのだけど(券売機じゃない店は苦手、あとメニューが少ない)、牛バラ野菜焼き定食がけっこういけます。ただ、夏なのにコンロと鍋ってどうよ、と思いますけどね。でも、おいしいし、ワンコインでおつりが来るのもうれしい。今は割引券も配ってます。
ココイチのカレーは好きなんだけど、最近、カレーを食べると必ず胸焼けがするようになってしまい、それで、ココイチではハッシュドビーフを頼むことが増えました。これ、なかなかよい。軽く食べたいときはハーフもあるし。
カレーといえば、ジョナサンのタイ風カレーもうまかったな。まだやってるのかな? ごはんがインディカ米なんですよ。これがカレーに合う。
カレーで胸焼けしてるので、トンカツ、フライ、天ぷらは避けています。その他、ウェンディーズのチリ(大好物)でも胸焼けしてしまう。ひどいときは食パン食べただけで胸焼け。調べたら、胃と食道の間の弁の締りが悪くなると胃酸が逆流して胸焼けになるのだとか。年とともにいろいろなところが弱ってくるようです。
2014年8月9日土曜日
最近見た映画から
7月下旬から積極的に試写に行っています。
その中から気になった映画について。
「不機嫌なママにメルシイ!」(ネタバレ注意)
ギヨーム・ガリエンヌの一人芝居を自ら監督・脚本・主演した映画。
ガリエンヌは自分の分身である主人公ギヨームとその母の二役を演じる。元の舞台ではすべての人物を一人で演じたらしい。
ギヨームは裕福な家庭の3人兄弟の末っ子。女の子が欲しかった母親の影響で女の子のように育ってしまい、自分は女なのかゲイなのかと悩む。
普通に考えたら、これは性同一性障害でしょう、と思うところだが、ギヨームの少年時代や青年時代にはまだ性同一性障害という概念は一般的になっていなかったのだろうか。この映画では性同一性障害のことはまったく出てこないが、確かにこの概念が普及するまでは性同一性障害の人は同性愛だと思われていた。
そんなわけで、しぐさが女っぽくて、男性に恋心を抱いてしまうギヨームは自分でもゲイじゃないかと思い、それを確かめるためにヨーロッパ各地へ行ったりしていろいろな経験をする。それがコミカルに描かれていて笑ってしまう。
でも、見ていて思ったのだが、ギヨームは母親がすごく好きなのだ。要するにマザコン。心が女だったら、普通、母親より父親に恋するよね。ゲイの男性なら母親が好きかもだけど、心が女だったらこんなに母親命だろうか?と疑問に思っていたら、やっぱり、という結末に。
つまり、これは、女の子のように育てられたヘテロの男性の話だったのだ。
まあ、女性でも、少女時代には男性的な女性の先輩や同級生に恋したというような経験はある。だからといって、彼女たちが同性愛というわけでもなく、その時期をすぎると男性に恋するようになる。
ギヨームの場合は、男性にもそういう性が不確かな時期があるという話、なのだろう。ただ、男性が性のアイデンティティをこういうふうに求める物語、というのはなかなかない。その点で、非常にユニークな話だ。
「記憶探偵と鍵のかかった少女」
スペイン人の監督がハリウッド・スターを使って作ったミステリー映画。記憶の中に入り込んで事件を解決する探偵会社の探偵が主人公。
が、しかし、これ、「インセプション」の二番煎じ。特に主人公の妻との過去が完全に「インセプション」のパクリ。これはまずいでしょう。
だいたい、人の夢や無意識の中に入って事件を解決、というアイデアはかなり前からあって、「インセプション」はそれを夢の階層とか夢の構築といった斬新な手段で描いたからすばらしかったのだが、この映画の場合は夢のかわりに記憶になっているだけで、新味が何もない。夢のかわりに記憶にしたわりには、夢とどこが違うの?な展開。
話の展開もすぐに先が読めてしまうので、驚きもない。
「ニンフォマニアック」
ラース・フォン・トリアーの新作で、色情狂の女性が語る赤裸々な過去を2部作、計4時間の映画に仕立てた作品。前半がコメディタッチで楽しい。後半はえぐい展開になるが、以前のトリアー作品ほどのえぐさはないので、前半に比べると後半はイマイチ。でも、つながっているので、全部見ないわけにはいかない。
この映画についてはもっと詳しく書きたいので、また別の機会に書きます。
「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」
女優としての絶頂期に引退し、モナコのレーニエ大公と結婚してモナコ公妃となったグレース・ケリー。2人の子供をもうけるが、夫は公務に忙しく、夫婦の間には隙間風も吹き始め、その一方で公妃としての自覚が足りないグレースはただの主婦になってしまっている。そこへアルフレッド・ヒッチコックから新作「マーニー」への出演依頼が来て、という話。実話にもとづいているが、かなり脚色されているようで、冒頭、ヒッチコックがモナコまで来るけれど、実際は来ていないとのこと。
グレースは映画復帰に意欲を見せるが、そのとき、フランスがモナコに圧力をかけ、国の存亡の危機に。今こそ公妃としての自覚を持て、と言われたグレースは映画復帰を断念し、公妃としての政治力を身に着け、モナコのために活動する、という物語。
ちょっと「英国王のスピーチ」の女性版のような感じもするが、王族に嫁ぐということの意味は、という問いかけが繰り返されるように、公妃になるということは普通に結婚して妻になり母になるということではないということなのだ。
結婚がそのまま仕事であるのが王族だ、というのは、今もそうだと思うが、それでも半世紀前と今ではまったく同じではない、という気がする。ダイアナ元妃はそういう考えになれなかったから、皇太子と離婚した。
この映画ではグレースとレーニエ大公は愛を取り戻すので、公妃であることと愛のある結婚をすることは矛盾していないが、王族の妻であることが即、仕事である、というメッセージは十分に伝わってくる。それは特別な世界であり、半世紀前だから堂々と言えるメッセージだという感じはぬぐえない。
レーニエ大公がグレース・ケリーと結婚した背景には、モナコという小国を維持するためには彼女のような華やかな妃が必要だったということがあった、ということは当時から言われていた。当時、モナコは男の子が生まれないとフランスに接収されてしまうので、グレースは男の子を生む必要があった(実際、息子を生んだので、とりあえず義務を果たしたと言われた)。現在では男の子が生まれなくてもフランスに接収されることはないが、小国を維持するための政略結婚的意味合いがあったのは事実だろう。
映画はフランスとモナコの対立の中で、フランス側のスパイが誰かというミステリーの要素もあり、なかなか楽しめる。グレース役のニコール・キッドマンははまり役だが、レーニエ役のティム・ロスはじめ、脇役もいい。シーンごとにキッドマンが衣装を変えるのも見もの。
「蜩の記」
「グレース・オブ・モナコ」は半世紀前の話だったが、こちらは江戸時代が舞台の時代劇。原作も読んだが、原作の胸を打つセリフの数々が映画の中でみごとに決まっていて、それを話す俳優の演技もすばらしい。
これもまた、古い時代だから成立する話であり、テーマなのだが、現代では成立しないけれど、それでもこういうテーマや人間の生き方を知るために時代劇が必要なのだ、ということを考えさせられた。
この映画については、詳しく書く機会がありそうなので、そのときに。
「リスボンに誘われて」
スイスの作家パスカル・メルシエの小説「リスボンへの夜行列車」の映画化、だそうで、映画を見て原作に興味を持ったので、図書館で借りようとネットで本がある図書館を調べ(貸し出し中だと行ってもむだなので)、出かけたが、見つからない。スイス文学というくくりはないので、作者の名前からしてフランス語だろうと思い、フランス文学を見るが、ない。その他のヨーロッパ文学にもない。しかたないので図書館員に探してもらい、本の表紙を見たら、原題はドイツ語だった。
確かにスイスのベルンから始まるので、ベルンはドイツ語圏だから当然ドイツ語だわ。私としたことが。
主人公はベルンのギムナジウム(日本でいうと高校?)の古典の教師。書物と学校の生徒を相手にするだけの生活を何十年も送ってきたが、ある日、橋から飛び降りようとしている女性を助けたことから、ポルトガルのリスボンへと旅立つことになる。
このリスボンへ行くきっかけが映画と原作ではかなり違っているが、映画の方がうまくまとめている。ただ、ベルンからリスボンへの直行の夜行列車はないだろうと思っていたが、原作では列車を乗り継いで、最後に夜行列車でリスボンへ着く(原作はまだ途中までしか読んでません)。
主人公は自費出版でわずかな数しか出ていないポルトガル語の本を読み、その作者について知りたいと思ってリスボンへ行く。そこで、1970年代まで続いたポルトガルの独裁政権時代の忌まわしい歴史を主人公は知ることになる。
この独裁政権時代については、プレスシートに詳しい解説が載っていて、大変参考になった。最近のプレスはこの手の解説が充実しているものが多い。
映画はその過去の時代の物語と、書物の世界に没頭していた主人公が現実の世界に触れて変化する物語が交互に描かれている。このあたり、面白いし興味深いのだが、映画はイマイチ語り口がうまくないかな?という感じがして、原作が読みたくなったのだ。原作を読み終えたら、また書きたいと思う。
その中から気になった映画について。
「不機嫌なママにメルシイ!」(ネタバレ注意)
ギヨーム・ガリエンヌの一人芝居を自ら監督・脚本・主演した映画。
ガリエンヌは自分の分身である主人公ギヨームとその母の二役を演じる。元の舞台ではすべての人物を一人で演じたらしい。
ギヨームは裕福な家庭の3人兄弟の末っ子。女の子が欲しかった母親の影響で女の子のように育ってしまい、自分は女なのかゲイなのかと悩む。
普通に考えたら、これは性同一性障害でしょう、と思うところだが、ギヨームの少年時代や青年時代にはまだ性同一性障害という概念は一般的になっていなかったのだろうか。この映画では性同一性障害のことはまったく出てこないが、確かにこの概念が普及するまでは性同一性障害の人は同性愛だと思われていた。
そんなわけで、しぐさが女っぽくて、男性に恋心を抱いてしまうギヨームは自分でもゲイじゃないかと思い、それを確かめるためにヨーロッパ各地へ行ったりしていろいろな経験をする。それがコミカルに描かれていて笑ってしまう。
でも、見ていて思ったのだが、ギヨームは母親がすごく好きなのだ。要するにマザコン。心が女だったら、普通、母親より父親に恋するよね。ゲイの男性なら母親が好きかもだけど、心が女だったらこんなに母親命だろうか?と疑問に思っていたら、やっぱり、という結末に。
つまり、これは、女の子のように育てられたヘテロの男性の話だったのだ。
まあ、女性でも、少女時代には男性的な女性の先輩や同級生に恋したというような経験はある。だからといって、彼女たちが同性愛というわけでもなく、その時期をすぎると男性に恋するようになる。
ギヨームの場合は、男性にもそういう性が不確かな時期があるという話、なのだろう。ただ、男性が性のアイデンティティをこういうふうに求める物語、というのはなかなかない。その点で、非常にユニークな話だ。
「記憶探偵と鍵のかかった少女」
スペイン人の監督がハリウッド・スターを使って作ったミステリー映画。記憶の中に入り込んで事件を解決する探偵会社の探偵が主人公。
が、しかし、これ、「インセプション」の二番煎じ。特に主人公の妻との過去が完全に「インセプション」のパクリ。これはまずいでしょう。
だいたい、人の夢や無意識の中に入って事件を解決、というアイデアはかなり前からあって、「インセプション」はそれを夢の階層とか夢の構築といった斬新な手段で描いたからすばらしかったのだが、この映画の場合は夢のかわりに記憶になっているだけで、新味が何もない。夢のかわりに記憶にしたわりには、夢とどこが違うの?な展開。
話の展開もすぐに先が読めてしまうので、驚きもない。
「ニンフォマニアック」
ラース・フォン・トリアーの新作で、色情狂の女性が語る赤裸々な過去を2部作、計4時間の映画に仕立てた作品。前半がコメディタッチで楽しい。後半はえぐい展開になるが、以前のトリアー作品ほどのえぐさはないので、前半に比べると後半はイマイチ。でも、つながっているので、全部見ないわけにはいかない。
この映画についてはもっと詳しく書きたいので、また別の機会に書きます。
「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」
女優としての絶頂期に引退し、モナコのレーニエ大公と結婚してモナコ公妃となったグレース・ケリー。2人の子供をもうけるが、夫は公務に忙しく、夫婦の間には隙間風も吹き始め、その一方で公妃としての自覚が足りないグレースはただの主婦になってしまっている。そこへアルフレッド・ヒッチコックから新作「マーニー」への出演依頼が来て、という話。実話にもとづいているが、かなり脚色されているようで、冒頭、ヒッチコックがモナコまで来るけれど、実際は来ていないとのこと。
グレースは映画復帰に意欲を見せるが、そのとき、フランスがモナコに圧力をかけ、国の存亡の危機に。今こそ公妃としての自覚を持て、と言われたグレースは映画復帰を断念し、公妃としての政治力を身に着け、モナコのために活動する、という物語。
ちょっと「英国王のスピーチ」の女性版のような感じもするが、王族に嫁ぐということの意味は、という問いかけが繰り返されるように、公妃になるということは普通に結婚して妻になり母になるということではないということなのだ。
結婚がそのまま仕事であるのが王族だ、というのは、今もそうだと思うが、それでも半世紀前と今ではまったく同じではない、という気がする。ダイアナ元妃はそういう考えになれなかったから、皇太子と離婚した。
この映画ではグレースとレーニエ大公は愛を取り戻すので、公妃であることと愛のある結婚をすることは矛盾していないが、王族の妻であることが即、仕事である、というメッセージは十分に伝わってくる。それは特別な世界であり、半世紀前だから堂々と言えるメッセージだという感じはぬぐえない。
レーニエ大公がグレース・ケリーと結婚した背景には、モナコという小国を維持するためには彼女のような華やかな妃が必要だったということがあった、ということは当時から言われていた。当時、モナコは男の子が生まれないとフランスに接収されてしまうので、グレースは男の子を生む必要があった(実際、息子を生んだので、とりあえず義務を果たしたと言われた)。現在では男の子が生まれなくてもフランスに接収されることはないが、小国を維持するための政略結婚的意味合いがあったのは事実だろう。
映画はフランスとモナコの対立の中で、フランス側のスパイが誰かというミステリーの要素もあり、なかなか楽しめる。グレース役のニコール・キッドマンははまり役だが、レーニエ役のティム・ロスはじめ、脇役もいい。シーンごとにキッドマンが衣装を変えるのも見もの。
「蜩の記」
「グレース・オブ・モナコ」は半世紀前の話だったが、こちらは江戸時代が舞台の時代劇。原作も読んだが、原作の胸を打つセリフの数々が映画の中でみごとに決まっていて、それを話す俳優の演技もすばらしい。
これもまた、古い時代だから成立する話であり、テーマなのだが、現代では成立しないけれど、それでもこういうテーマや人間の生き方を知るために時代劇が必要なのだ、ということを考えさせられた。
この映画については、詳しく書く機会がありそうなので、そのときに。
「リスボンに誘われて」
スイスの作家パスカル・メルシエの小説「リスボンへの夜行列車」の映画化、だそうで、映画を見て原作に興味を持ったので、図書館で借りようとネットで本がある図書館を調べ(貸し出し中だと行ってもむだなので)、出かけたが、見つからない。スイス文学というくくりはないので、作者の名前からしてフランス語だろうと思い、フランス文学を見るが、ない。その他のヨーロッパ文学にもない。しかたないので図書館員に探してもらい、本の表紙を見たら、原題はドイツ語だった。
確かにスイスのベルンから始まるので、ベルンはドイツ語圏だから当然ドイツ語だわ。私としたことが。
主人公はベルンのギムナジウム(日本でいうと高校?)の古典の教師。書物と学校の生徒を相手にするだけの生活を何十年も送ってきたが、ある日、橋から飛び降りようとしている女性を助けたことから、ポルトガルのリスボンへと旅立つことになる。
このリスボンへ行くきっかけが映画と原作ではかなり違っているが、映画の方がうまくまとめている。ただ、ベルンからリスボンへの直行の夜行列車はないだろうと思っていたが、原作では列車を乗り継いで、最後に夜行列車でリスボンへ着く(原作はまだ途中までしか読んでません)。
主人公は自費出版でわずかな数しか出ていないポルトガル語の本を読み、その作者について知りたいと思ってリスボンへ行く。そこで、1970年代まで続いたポルトガルの独裁政権時代の忌まわしい歴史を主人公は知ることになる。
この独裁政権時代については、プレスシートに詳しい解説が載っていて、大変参考になった。最近のプレスはこの手の解説が充実しているものが多い。
映画はその過去の時代の物語と、書物の世界に没頭していた主人公が現実の世界に触れて変化する物語が交互に描かれている。このあたり、面白いし興味深いのだが、映画はイマイチ語り口がうまくないかな?という感じがして、原作が読みたくなったのだ。原作を読み終えたら、また書きたいと思う。
2014年8月2日土曜日
これは知らなかった「新しい学力観」
http://toyokeizai.net/articles/-/44110
「振り返ってみると、きっかけは1989年改定の学習指導要領で、「新しい学力観」と言いだしたことだったと思います。それまでは、テストを受けて点数が高ければ、満点を取りさえすれば、相対評価で5がつくのが一般的な常識だったでしょ。ところが、その常識が崩れたんです。
たとえば満点を取ったA子さんと80点のB子さんがいたとします。そこで、B子さんのほうに5(の評価)がついて、A子さんに4がつくなんてことがザラに起き始めたんですよ。
何が起こったかと言うと、(授業への)関心・意欲・態度が評価項目の最上位にきて、それまで重視されていた学力の技能、得点力が最下位に位置づけられるようになったのです。
当時、文科省はそれをメディアに発表していなくて、当然、メディアもまったく報じない。だから、現場は大慌てですよ。塾などからは、テストの点はいいのに3しか取れないなどと、電話の問い合わせがいっぱい入ったり。」
先生の目を気にするようになり、先生に反抗すべきでないと思う若者が育ち、大人になるのに必要な反抗期を経ていない若者が今、大学に入ってくるようになった、ということです。
そうなのか。
しかし、これだと、学力というものが評価されず、そのままAO入試で大学入って、という具合に、日本人はますますバカになるのでは?
そして、小保方みたいに調子のいいやつが無能なまま、世の中をいつのまにか牛耳っているという。
日本、終わりか?
「振り返ってみると、きっかけは1989年改定の学習指導要領で、「新しい学力観」と言いだしたことだったと思います。それまでは、テストを受けて点数が高ければ、満点を取りさえすれば、相対評価で5がつくのが一般的な常識だったでしょ。ところが、その常識が崩れたんです。
たとえば満点を取ったA子さんと80点のB子さんがいたとします。そこで、B子さんのほうに5(の評価)がついて、A子さんに4がつくなんてことがザラに起き始めたんですよ。
何が起こったかと言うと、(授業への)関心・意欲・態度が評価項目の最上位にきて、それまで重視されていた学力の技能、得点力が最下位に位置づけられるようになったのです。
当時、文科省はそれをメディアに発表していなくて、当然、メディアもまったく報じない。だから、現場は大慌てですよ。塾などからは、テストの点はいいのに3しか取れないなどと、電話の問い合わせがいっぱい入ったり。」
先生の目を気にするようになり、先生に反抗すべきでないと思う若者が育ち、大人になるのに必要な反抗期を経ていない若者が今、大学に入ってくるようになった、ということです。
そうなのか。
しかし、これだと、学力というものが評価されず、そのままAO入試で大学入って、という具合に、日本人はますますバカになるのでは?
そして、小保方みたいに調子のいいやつが無能なまま、世の中をいつのまにか牛耳っているという。
日本、終わりか?
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