2014年8月14日木曜日

アデル、ブルーは熱い色

昨日は名画座で「アデル、ブルーは熱い色」を見て、それからコーヒーショップで「リスボンへの夜行列車」の最後の100ページを読んだのだった。
「アデル~」は若い女性の性愛の物語、「リスボン~」は人生の終わりに近づいたことを実感し始めた男性の物語。現在の年齢だとやはり「リスボン~」の方が心に響くのだが、「アデル~」は若い頃でもあまり共感しなかったと思う。
正直、私はこの手の映画が苦手だ。
レズビアンだからではない。
セックスシーンがあるからでもない。
この映画に登場するアデルやエマのような女性に共感できないからだ。
特にアデルのようなタイプは英語で言うところのbeyond me(私には理解不能)。エマのようなタイプは理解はできるが、好きではない。
映画の原題は「アデルの人生、第1章と第2章」。原作はフランスの劇画で、劇画のタイトルが「ブルーは熱い色」のようだ。
物語は主人公アデルが高校生の時から始まる。アデルは愛と性を求めるごく普通の女子高生だが、あるとき、すれ違った髪を青く染めた女性にひきつけられる。しかし、彼女は告白してきた男性と関係を持つが、何かが違うと感じる。それは彼のせいではなく、自分のせいだ、と。
この映画には食べる場面が非常に多く、特にアデルの家で家族で食べるスパゲッティ・ボロネーズが何度も出てくる。アデルが食べ物を噛むのを映画は執拗に映し、口の中まで見せる。食欲=性欲というわけだ。
やがてアデルは道ですれ違った女性エマと知り合う。エマは美学生で、レズビアンだった。あっという間に2人は恋に落ちる。
で、このあと、2人のセックスシーンがリアルに描かれ、これがものすごい話題になっている映画なのだが、確かに若い女性2人の肉体がからむシーンにはエロス以上の美がある。
このセックスシーンについては、偽の性器を貼りつけて演技した、という女優たちの証言がある。(英語)
http://www.thedailybeast.com/articles/2013/09/01/the-stars-of-blue-is-the-warmest-color-on-the-riveting-lesbian-love-sory-and-graphic-sex-scenes.html
日本では性器が映るとそこをぼかしてしまうので見えないが、見えてもそれは本物ではないということだ。また、このシーンを本番だと思っている人もいるようだが、本番ではないということになる。
実際、上のインタビューを読むと、テイクを100回くらいやるとか、10分のセックスシーンを5日もかけて撮ったとか、明らかに本番はやってない。つまり、演技なのだ。
この記事では2人の女優(アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥ)は、もう二度とこの監督(アブデラティフ・ケシシュ)とは組みたくない、と言っていて、理由は、監督が支配的で、テイクを100回くらいやるし、2か月か3か月で撮影終了のはずが5か月半にも及んだとか、不満たらたら。カンヌでパルムドールを受賞しても、それでもいやなのだ。
アメリカでは細かい契約をするが、フランスでは監督が全権力を握っているので、いったん出演をOKするとどこまでも自分を差し出さなければならない、とも言っている。それでもこれほど支配的な監督はいないようで、セックスシーン以外でも不満たらたらのようだ。
第1章と第2章というタイトルだから、まだ続編があるのかも、と思ったが、女優たちがこれでは無理かも。
とにかく2人の女優はとてもよいので、3時間という長さを感じさせないが、やっぱり、2人のヒロインがパターン化されていると感じる。
アデルとエマを比べると、アデルは庶民の娘で、父親は保守的、堅気の仕事につくのが一番と考えていて、娘が同性愛などとはまったく思わない。アデルもそんな父の影響を受けてか、幼稚園の先生になる。
エマはアデルよりは裕福な家の娘のようだ。しかも、両親はおそらく娘の同性愛を知っていて、画家になりたいというエマの希望にも賛成している。
アデルの家ではスパゲッティ・ボロネーズをみんなでたっぷり食べて、庶民的ではあるけど、他の映画のような庶民のよさみたいなのはあまり見えない。食べ方も美しくないし、アデルはセクシーでキュートで魅力的だけれど、どこかだらしなさみたな、よく言えば素朴さみたいなところがある(映画が進むにつれて洗練されてはいくが)。エマの家では生ガキを上品に食べていて、家族の食卓もエレガントな感じ。
エマは文学が好きなアデルに、あなたも文章や詩を書けば、と提案するが、アデルは幼稚園教師の堅気な生活からはみ出そうとはしない。一方、エマはやがて画家として成功する。
同棲するようになった2人だが、やがて2人の関係にひびが入り、男性と浮気したアデルをエマが追い出すという展開になる。
この頃のエマはもう髪を青く染めていない。そして、なぜか、「キッズ・オールライト」でレズビアンのカップルを演じたアネット・ベニングふうになっている。アデルの方は、ベニングのパートナーなのに男性と関係してしまうジュリアン・ムーアに近くなる。若い女性の溌剌とした肉体に隠れているが、2人の関係は「キッズ・オールライト」ですでに見られた、よくあるパターンなのではないかという気がする。
セックスシーンと2人の女優の溌剌としたボディや表情を取り除いたら、そこにあるのは意外とステレオタイプな女たちなのではないのか?
アデルのような、恋する相手にメロメロな女性は苦手なのだが、クールで自立したエマも、ある種の男性原理を生きる女性に見える。画家としての成功はそうした男性原理に基づいているように見える。つまり、この映画のアデルとエマは、案外、昔ながらの女と男のタイプじゃないかと、そんな気がするのである。
今では男女の関係で表現しても面白くない、あるいは政治的に正しくないものを、同性愛で表現すると新鮮になる、というのはわりとあるように思う。私としては、「アルバート氏の人生」のグレン・クローズとジャネット・マクティアの方が新鮮に映るのだが。