「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者・斉藤洋が亜細亜大学の教授(独文学者)であることを知り、驚くとともになるほどと思うところがあった。
なんでも斉藤氏は大学院を出て非常勤講師をしていたとき、お金がほしくて文学賞に応募することを考え、初めて書いた「ルドルフとイッパイアッテナ」でみごと受賞。が、翌年、専任講師の職に就き、童話作家と大学教師の二足のわらじをはくことになったのだとか。
つまり、大学院を出てすぐに専任講師になれていたら、童話作家にならなかったかもしれない?
しかし、この人、大学教員になったあともものすごくたくさんの童話を書いている。こんなに次々と書けるというのは並大抵のことではない。
最近ずっと奥田英朗の小説を読んでいて、今は「サウスバウンド」を読んでいるのだけど(ものすごく面白い)、奥田氏が岐阜の出身で、ほかにも岐阜出身の作家の本を読んだので、斉藤氏も岐阜の出身かと思ったら、イッパイアッテナの住む江戸川区北小岩の出身だった。でも、岐阜ともなんらかの接点はあるのだろう。
それにしても、斉藤氏が非常勤講師をしていて、将来が不安なときに「ルドルフとイッパイアッテナ」を書いたと知ると、いろいろわかることがある。
原作ではイッパイアッテナは飼い主がアメリカに行ってしまい、野良猫になると、それまで親しくしていた飼い猫たちから差別されるようになる。隣の家の飼い犬デビルとも仲良しだったのに、デビルもイッパイアッテナに意地悪をするようになる。ブッチーだけが野良猫を差別しない飼い猫として描かれる。
私も非常勤講師を長年やっていて、ついに専任になれなかったのでわかるのだが、大学院を出て研究職をめざした場合、まわりがどんどん専任になっていくのに自分だけいつまでも非常勤だとつらい。専任になった人たちは私に比べて優秀なわけではないと私は確信していたし、専任になれた人も優秀さでなれたわけではない思っていたが、それでも専任になった人は別世界に行ってしまい、非常勤の自分は同じ職場にいても差別されるというか、まともな人間として扱ってもらえない。
口では、専任になると大変よ、非常勤の方が自由でいいわよ、あなたは特に雑誌に映画評書いてるんだし、と言うが、実際は彼らは専任になれたというだけで優越感なのだ。そして、自分が専任になれたことを正当化するために、こちらを傷つけることを平気で言う。
その一方で、イッパイアッテナのような、飼い猫とは違う自由さを満喫しなかったと言えばうそになる。生活は苦しいが自由だった。組織や上の人に縛られることもなかった。
映画の後半の原作「ルドルフともだちひとりだち」では、イッパイアッテナの飼い主が帰国し、その家にルドルフも住めるようになる。しかし、自分の主人はやはりリエちゃんだと思うルドルフは岐阜に帰る決意をする(ここは映画とは違う)。このあたりは、童話作家と専任講師の両方になれてしまった作者の思いがあらわれているのだろうか。イッパイアッテナも、飼い主が戻ってきたが、俺は俺だと言う。そのあたりに2つのものを手に入れてしまった作者の立場が透けて見える。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は野良として生きる猫たちの決意がにじみ出ているが、続編の「ルドルフともだちひとりだち」では彼らは住む家を手に入れている。作者が専任講師になれなかったら、どういう話に変わっただろうか。
斉藤氏はプロットを立てずに物語を転がしていくタイプらしい。これは奥田英朗とまったく同じだ。そして、重要なことは細部に宿ると考えているようだが、これも奥田氏とまったく同じ。奥田氏はこの手法で小説を書くことのつらさを「野球の国」で書いているが、童話を量産している斉藤氏には奥田氏のような悩みはないのだろうかと思う。ただ、どちらも先が見えない展開で細部を重視ということは作品からはっきりと読み取れる。