ゴジラが好きな人には語りつくそうとしても語りつくせない映画だろうな、と思う「シン・ゴジラ」。ゴジラなんてよく知らない(第1作も見たけどほとんど覚えてない)私でも第2弾を書いてしまう。
やっぱり驚いたのは、最初に登場するゴジラ。目がかわいくて、姿もユーモラス。全然怖くない。まさに新・ゴジラ。
このゴジラは無邪気な赤ん坊のようで、陸地があるから上がってきちゃった、体がでかいから動くとまわりが壊れる、という感じで、悪意も何もない。ほんとに無邪気な赤ん坊。
途中で確変するが、それでも無邪気路線は継続。自衛隊が出動、初の武力攻撃を仕掛けようとするが、老人が踏切を渡っているのを見て、人命尊重から攻撃をあきらめる。ゴジラはいったん海に帰る。
そして再び姿を現すと、今度はまったくかわいくない、無邪気でもない、大人になった怖いゴジラになっている。まさに真・ゴジラ。
そして荒ぶる神ということで、神・ゴジラになるというか、人間がそう感じるということなんだけど。
ゴジラは地震・津波のような災害+原発という存在になっているけれど、自然災害は荒ぶる神だけど、原発は人間が作ったものなので、荒ぶる神ではない。むしろ、フランケンシュタインの怪物。
初代ゴジラも核実験で生まれたので、フランケンシュタインの怪物であったのだが、シン・ゴジラも海底に投棄された核廃棄物を食べて生まれたとなっている。
核エネルギーが荒ぶる神ではあるが。
でも、最初は無邪気な赤ん坊で、確変したあとも自分から悪さするというよりは、巨大生物だから動くだけで被害が出るという感じで、それが自衛隊や、特に米軍の攻撃で怒りを覚え、身を守るために攻撃を開始する、というあたりは完全にフランケンシュタインの怪物なのだ。
それが荒ぶる神に見えるのは、ひたすら、図体がでかいから。
図体のばかでかいフランケンシュタインの怪物。
フランケンシュタインの怪物という、人間に非常に近いものと、原発のような生物ではまったくないものの中間にシン・ゴジラがいる。
この映画を熱く語る左派のツイッターのおかげで見に行ったので、感謝しているが、見てからツイッターを読み直すと、自分の思いを映画の中に見つけて、ひたすらその部分だけ強調して、他の解釈を許さないようにも感じた。
その思いの部分の解釈は正しいが、フィクションとは矛盾や不整合を内包するもので、その方が優れた作品なのだし、「シン・ゴジラ」はまさにそういう映画だと思う。
だから、「がんばろう日本」のようなメッセージを読み取ることは可能だし、それをちょっと書いただけのブログをプロパガンダと呼ぶのはどうかと思う(実際は庵野監督の作品のオタク談義なのに)。
左派の教条主義を見てしまったようで残念。解釈はいいのにね。