ひどいものを読んでしまった。
「君の名は。」については、公開当初、文化人などがまったくわかっていない批判を書いていて、それに反発したのがそもそも、この映画について考え続けるようになった1つの要因だったのだが、ここに来て、映画を称賛する批評であるにもかかわらず、ひどくトンデモなものを見てしまったのだ。
それはこれである。
http://ecrito.fever.jp/20170123213636
ネット上の記事は簡単に書き直せるので、これから書く指摘が将来、直される可能性があるが、以下に書くことは今現在ネットに上がっている記事に対するものだということをお断りしておく。
著者は伊藤弘了、京都大学の院生で映画学を研究しているらしい。映画評論大賞というものを受賞している。
この批評の困るところは、細部を見るとよいこと、正しいことがたくさん書いてあるにもかかわらず、全体の論旨がデタラメなのだ。
まず、この批評の間違っているところをあげていこう。
「映画「君の名は。」(2016年)が分裂して隕石と化した彗星核の主観ショット(見た目のショット)で幕を開けている点を見逃してはならない。」
映画はまず、空から星が降ってくるシーンから始まり、沈む夕日をバックに隕石と化した彗星の一部が落ちてくるシーンへと続く。このシーンは隕石の主観ショットとは言えない。なぜなら、隕石が描かれている以上、その隕石を見ている目があるはずで、その目は誰の目かというと、小説論でいうところの「全能の語り手」なのだ。
隕石の主観ショットであるなら、隕石から見た風景がなければならないが、それはない。
これを隕石の主観ショットととらえるとしたら、視点に関する理解がないとしか言いようがない。
しかも隕石は終始横から見られているのだ。
横から見ているのは誰だ、といえば、全能の語り手、あるいは神である。
このあと、著者は「恋する彗星」というタイトルにふさわしく、彗星が片割れに恋しているという主張をするのだが、その論拠がきわめて薄弱である。
上にあげた、隕石の主観ショットというとらえかたがそもそもおかしいのだから、そのあともおかしくなるのだが、とにかく彗星がかつて落とした片割れに恋して1200年かけてまた戻ってくる、というのもおかしな話で、というのも、彗星自体は1200年ごとに片割れを同じ場所に落とし続けているのだから、片割れに恋して戻ってくるというのが非常におかしい。論理破綻である。
また、著者はここで、「彗星核の氷の中には「石」ならぬ鉄塊が隠れていた」と書いているが、この鉄塊という言葉は映画ではかなり大きな文字で出てくる。実は私は隕石が実は鉄塊であったということがずっと引っかかっていたが、最近、この彗星は「人工天体」であるということが画面に目立たない形で出ているシーンがあると聞いて、納得がいった。つまり、この彗星は宇宙人が作った人工物で、だから隕石が鉄の塊なのだ。
もうここで「恋する彗星」は完全に論理破綻してしまっていることがわかる。というか、著者がそう思いたいだけなのだ。
著者は、天災は食い止められない、人間は逃げるしかない、というごくごく当たり前のことを書いているが、そこに恋する彗星をこじつけるのだから困る。
このあとの線についての分析などはよいというか、こういうふうにあるモチーフに合致したシーンを次々とあげるというのは、DVDなどのディスクが手元にないと普通できない。映画が文学のように分析されるようになったのは、DVDが本のかわりになり、文学者が本のテキストを分析するように映画の映像を止めたり戻したり進めたりしながら分析できるようになったからだ。映画館では何度見ても、なかなかこういうことはできない。なぜなら、映画館で見る映画は向こうのペースで見せられるので、止めたり戻したりができないからだ。
「君の名は。」は英語字幕のついた映像が全編、ネットで視聴できた。おそらく東宝が配ったサンプルDVDがネットに流されたのだろう(違法映像である)。著者はこの違法画像をDVDのかわりにしたか、どこかからサンプルDVDを手に入れたかのどちらかである可能性がある(映画館で何度も見てメモをとったかもしれないので、断定はできないが)。
実際、この批評のような分析は、DVDなどが発売されれば多数書かれるだろう。今はそれができる環境にいない人が多いのだ。
とりあえず、線についてなどの映像分析自体はよいとして、これが全然恋する彗星のテーマにつながっていない。ただ、線についてなどの映像のモチーフを全部調べました、というレベル。全体的な解釈になるとぐだぐだになってくる。
たとえば、ここであげられているバッタのシーン。三葉が転んだときにバッタが草から飛ぶが、バッタが飛んだのが命拾いの象徴とか、いいかげんすぎる。
また、三葉には入れ替わり能力があり、瀧には画力がある、というのもおかしい。
三葉に入れ替わり能力があるから瀧と入れ替わったのではないだろう。
三葉が画力のある瀧を選んだとか、これまたぐだぐだというか、入れ替わりは人間が意図してやっているのではなく、何か人知を超えたもの(神とか運命とか)が行っていると考える方が正しいのではないか。この著者は彗星が恋するとか、三葉が瀧を選んだとか、人間に寄りすぎというか、ファンタジーやSFへの造詣に欠けているのではないか。
また、瀧が龍にさんずいを足した名前、というところも、龍に三を足したと書いているが、これはすでに多くが指摘しているとおり、龍と水を組み合わせたものである。
そして最後の注の部分で、著者は、
「サビの「君の前前前世から僕は/君を探しはじめたよ」の部分は、最初の「君」と二回目の「君」が別の対象を指していると考えることができる。」
と書いている。つまり、最初の「君」が三葉や瀧を含む人間、次の「君」が彗星の片割れだというのだが、1つの文章の中で出てくる2つの「君」が別ものって、言語の常識としてありえない。これも恋する彗星にしたい著者の願望でしかない。
こんな具合に著者の願望で出来上がっている批評なわけで、線のモチーフをいろいろ見つけたあたりは評価できるが、そこからの解釈におかしなところがあり、そして全体的な論旨が結局、著者の願望でしかないので、結果的にトンデモな論文になってしまっている。
遺跡調査はしっかりしました、が、調査の結果をもとに自分の願望でトンデモな論文になりました、という感じなのだ。
この批評を読むと、著者が「君の名は。」が好きであり、新海誠の過去作も好きだろうことがわかる。しかし、全体として感じるのは、作品に対するリスペクトの欠如だ。
著者が引用している加藤幹郎が若い頃、映画評論で賞を取ったとき、「映画を凌辱したい」と受賞の言葉に書いたが、好きな映画を自分の思い通りにしてしまいたいという欲望がこの批評から感じられる。相手をリスペクトせず、無理やり自分のものにしようとしているのだ。
この批評は最初からイヤな感じのする文章だったが、それは冒頭にあるこの文章に現れている。
「人はなぜ映画を見るのか。そこに映し出されている自分の片割れと出会うためである。」
まあ、これはケチはつけたくない文章である。こういう側面もある。が、この批評全体を読んだあとにこの文を読むと、ああ、やっぱりこの人の欲望全開なんだな、ということがわかるのだ。
「(彼らの思惑などはどうでもよいことだ)。作り手が自らの創作物の解釈を誤ることはそれほど珍しくもないのだし(このことは一般常識として広く共有されるべきだと思う)、そもそも人は作者のつまらない意図を斟酌するために映画を見るのでは断じてない。」
これも特に間違ったことは言っていないが、ここでなぜ、わざわざ「作者のつまらない意図」などと書くのか。なぜ、「作者の意図」ではだめなのか。
この「つまらない」を入れたところに著者の本音がある。
批評家は論理的に作品を見るが、クリエイターは必ずしも論理的に作品を作っているわけではない。むしろ、無意識にあるモチーフを作るといったところにクリエイターの芸術的な才能がある。だから批評家の方が作者より作品をよく知っている、ということはしごく当然に起こり得ることなのだ。
しかし、それは批評家の方が作者よりエライのではない。作者が作品を作ってくれたから批評家は作者より多くのことを発見するのである。
そういう観点に立てば、「作者のつまらない意図」などという言葉は出てこないだろう。上の引用全体に漂う作者軽視はいったい何なのか。作者よりエライ批評家の俺様、なのだろうか。
そもそも映画は多くの人の協力で作られるものだから、文学のように1人の作者に絞ることはできない。「君の名は。」にしても、ここに出てくる様々な要素やモチーフは新海誠1人の発案ではないだろう。最終的に新海の作品として世に出ても、その背後には多くの人の力がある。
「作者のつまらない意図」という言葉には、新海をはじめとする多くのスタッフ、キャストに対する侮蔑さえ感じる。
結局、この文章は、一見まともそうに見えても、恋する彗星にしたいという自分の願望のためのものでしかない。別に作者の意図など持ち出さなくても、恋する彗星という全体の解釈が変だというのはこの文章自体からわかるのだ。いろいろと書いてはいるが、結局、恋する彗星という論を成立させるための論証がきちんとされていないのだから。
新海誠は確かに作品について説明したがる傾向があり、もう少し黙っていた方がいいと私も思うところがある。たとえば、瀧が就職活動をしているシークエンスで司と奥寺先輩の両方が結婚指輪をしているのがわかる場面がある。新海はこれを、2人が結婚したと説明しているが、このシークエンスだけでは2人が結婚したという確たる証拠はない。瀧と3人で糸守へ行き、そこで2人が親密になった可能性はあるが、2人がそれぞれ別の人と結婚したとしてもおかしくない。特に、司と会っているときに奥寺先輩からメールがあり、瀧1人で奥寺に会いに行くのだから、司と奥寺が夫婦であればもう少し何か入れないといけないと思う。一方、テッシーとサヤカが結婚するというのはブライダルフェアとか式のこととか、2人で不動産屋の前にいるシーンとか、いくらでも証拠がある。
上にあげた例のように、論証というのは映像や音声から立証できるものをそろえてするものであって、テッシーとサヤカの結婚は論証できるが、司と奥寺は論証できない。
それと同じで、この著者の批評では、線のモチーフなどを見つけるところまではよいが、恋する彗星の論拠があまりにも薄弱というか、間違ってさえいる。
しかもそれが、好きな映画を無理やり自分のものにしたいという願望から生まれているのだ。