「君の名は。」のクライマックスについて、私は大きな間違いを2つ犯していた。
1つは前日の記事、「三葉の父親について」で書いた。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.html
三葉が父親を説得できるはずがない、と思った、というのが最初の大きな間違い。
次の大きな間違いは、上の記事リストの(3)で書いた、父親が説得された背景として亡き母・二葉の存在が大きい、ということ。
こちらは(3)の記事にあるとおり、新海誠ではない別のライターが書いた外伝でも書かれていることなので、おそらく信じている人が多いと思う。私もこの外伝を読む前から、亡き母・二葉が大きな役割を果たしていただろうと思い、それを感じさせるシーンを数秒でいいから入れてくれたら、と思った。
しかし、これも間違いだったのだ。
この外伝は新海誠の意図に従って書かれたものではないらしい。ある程度のヒントはもらっているだろうが、この外伝の父親のエピソードは二葉がすべて仕組んだみたいになっていて、ここまで行くとちょっとやりすぎだなあ、と、読んだときにも思った。
確かに映画では代々、宮水家の女性が若い頃に入れ替わりを経験するとなっていて、それはすべてこの彗星災害を回避するためだったのではないかと、三葉に入った瀧が言う。
しかし、三葉が最終的に父親を説得できたのは、二葉の仕組んだことではないということが、何度も見るうちにわかってきた。
そのきっかけとなったのが、次の3つの文章である。
(1)アメリカの批評家、Rebecca Pahleの映画評(英語)
http://www.pajiba.com/film_reviews/your-name-review-one-of-the-most-beautiful-animated-films-ever-came-out-on-friday.php
4月に「君の名は。」が北米で公開され、あちらの批評家の絶賛を集めているが、中でもこの批評は大絶賛。そして、最後の部分で、この映画には「2001年宇宙の旅」のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンがある、と指摘している。
(2)Japan Timesの記事(英語)
http://www.japantimes.co.jp/culture/2017/04/20/films/japan-take-pride-name/#.WQ3usHmJGAI
Japan Timesは「君の名は。」に関する記事を何度も掲載していて、その中には新海誠の興味深いインタビューもあるが、この記事は映画の成功を讃える内容。その中で特に注目したのは、この映画の中心にはa youthful optimism(若者の楽観主義)がある、という指摘。
(3)個人のブログなので、アドレスがわからなくなってしまったのだが、「この世界の片隅に」の原作と映画を比較した記事。映画ではカットされた遊郭の女性のあるエピソードの重要性について語っている。
以下、クライマックスについてネタバレどころか相当に細かく書いていますので、ご注意ください。
まず、(1)のスターゲイト・シークエンスに相当するシーンというのは、「君の名は。」で三葉を探しに飛騨までやってきた瀧が、3年前の彗星災害で三葉が亡くなっていることを知り、もう一度、彼女と入れ替われたらという望みを抱いて神社のご神体に行き、そこで三葉の半分である口噛み酒を飲むシーンだ。
飲んだ瀧は足を滑らせて倒れ、そこから幻想シーンが始まる。このシーンは他のシーンとは別の人(美術家でアニメ作家でもあるらしい)が担当したとのことで、絵柄が他のシーンとは違っている。また、彗星のかけらが日本列島の沈む水の中に落ちていくといった幻想シーンが非常に美しい。
水の中に落ちたかけらはやがて受精卵となり、三葉が生まれる。そこから三葉と家族の過去の物語が始まり、父親の妻と子への深い愛情、妹・四葉の誕生、母の病死、絶望した父が家を出ていくといったシーンが続く。そして、瀧と奥寺先輩のデートの日に東京へ行こうとする三葉。
受精卵や水に沈む日本列島といった幻想的な描写はスターゲイト・シークエンスに似たシーンがある。また、「2001年宇宙の旅」では主人公の目がアップで映され、彼が見ていることが強調されるが、「君の名は。」の幻想シーンでもこの光景を見ている瀧の顔が何度か映し出される。
口噛み酒を飲んだ瀧がスターゲイトを通って3年前の三葉の体に入っていくことを表現したシーンだが、それだけでなく、三葉の過去を見せることで、父親の娘への愛や家族の関係、そして三葉が瀧に会いに行ったことを瀧が知るきっかけとなる。
三葉の中に入った瀧は、テッシーとサヤカに彗星災害の話をし、変電所を爆破して町民を避難させる計画を立てる。そして、娘の三葉なら父である町長を説得できると確信するのだが、それはあの幻想シーンで父親の三葉への愛を知ったからだろう。
しかし、父親のところへ行った三葉(瀧)は説得に失敗しただけでなく、本物の三葉でないことを町長に悟られてしまう。
「本当の三葉じゃないとだめなのか」そう思った瀧は、瀧の体の中にいる三葉を探しにご神体へ行く。
幻想シーンのあと、瀧が三葉になって目覚めたあたりから、三葉と出会う「かたわれどき」までは本当にすばらしい。この間に瀧は3年前、三葉が東京に来て、電車の中で出会ったことを思い出す。
「かたわれどき」が終わり、瀧は現在に取り残され、三葉は3年前の糸守でテッシーとサヤカとともに町民を救うために奮闘するが、うまくいかない。この三葉とテッシーが神社で町民を避難させようとしてうまくいかないあたりがちょっとイマイチな描写なのだが、三葉が「あの人(瀧)の名前が思い出せない」と言い、テッシーが「そんなこと言ってる場合か、町長を説得しに行け」と言うあたりからまたすばらしい展開になっていく。
その中心にあるのは上の(2)のJapan Timesの記事に書かれた「若者の楽観主義」なのだ。
現在に取り残された瀧は言う。
「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」
父親を説得しようと走る三葉は途中で転んでしまう。そのとき、手のひらに名前を書かれたと思って見ると、「すきだ」と書いてある。
一瞬、「名前を書いてくれないなんて」と悲観的になった三葉だが、すぐに思い直して立ち上がる。
「すきだ」は瀧の「おまえが世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」に呼応する。
そして、瀧の「必ず会える」という楽観は、三葉の「必ず救出できる」という楽観へと変わる。
楽観主義とは、前向きな姿勢、ポジティヴ・シンキングのことなのだ。
父親を説得できるとは思えない、などというネガティヴ・シンキングをしていた自分が恥ずかしい。
この若者のポジティヴな思考が父である町長を説得したのだろう。幻想シーンで妻を失った父親は「救えなかった」と嘆くが、今度は父親が町民を救う番なのだ。救出のバトンは瀧から三葉へ、三葉から町長へとつながったのである。
このシークエンスにはみごとなモンタージュがある。彗星が割れたあと、テッシーが父親を説得しようとする短いカット、サヤカが大人たちを説得しようとする短いカットが挿入され、東京や他の場所で割れた彗星の美しい天体ショーをのんきに見たり報道したりする様子が描かれ、そして父のところに駆けつける三葉のシーンへとつながる。
瀧が入った三葉が彗星が割れて隕石が落ちると言った主要な相手は4人。祖母とテッシーとサヤカと父親で、祖母とテッシーは信じたが、サヤカは半信半疑、父親はまったく信じなかった。祖母が町長の部屋にいたのは説得に来ていたのだろう。テッシーとサヤカは彗星が割れるのを見て、大人たちを必死で説得する。残る町長も、空を見れば三葉の言葉を信じるだろう。
つまり、亡き母の力といったオカルト的なことではなく、現実的な布石がきちんと置かれているのである。
(3)の「この世界の片隅に」のブログ記事にすばらしい指摘があった。
主人公すずが遊郭で出会い、仲よくなる女性リンが、実はすずの夫の恋人だったことがわかるエピソードを、映画はカットしている。この部分は非常に重要なので、片淵監督はもちろん入れたかったのだが、予算や上映時間の関係でやむなく削らざるを得なかったのだという。
ブログでは、すずが終戦の日に日本がアジアの国々で何をしていたのかを知ることと、夫とリンの関係を知ることが対になっていると指摘していた。
すずは戦争中、日本が他国を侵略し、植民地にしていることを知らなかった。そして、夫が結婚前にリンとつきあっていたことも知らなかった。原作では終戦の日にすずが唐突に日本がしてきたことについて語るが(映画でも語るのだけど原作よりわかりづらくなっている)、夫とリンの関係を知ることと対になることでこのシーンが補強されている、とブログ主は書いていた。知らなかったことを知るということが、戦争という大きなレベルと、個人という小さなレベルの両方で表現され、作品を深いものにしている。
これは本当にすばらしい指摘で、映画の方もぜひともこのエピソードを入れた完全版を作ってほしいと思う(現在の映画では、エンドクレジットにこのエピソードのカットが入っていて、原作を読んだ人にはわかるようになっている)。
そして、このブログを読んで気づいたのは、「君の名は。」もまた同じ構造を持っていること。
すでに上に書いたように、「必ず会える」という楽観論が「必ず救える」という楽観論と対になっているが、これもまた、町の人々を救うという壮大なドラマと、瀧と三葉の個人的なドラマを重ねることで作品に深みを与えている。
最後に、三葉と四葉の姉妹は「アナと雪の女王」のエルサとアナの姉妹に似てるな、と思った。
責任ある立場に置かれ、その状況がいやで逃げ出したい姉と、地に足のついた妹。
おそらく姉妹のアーキタイプなのだろう。