2022年8月22日月曜日

「オルメイヤーの阿房宮」(ネタバレ大有り)

 シャンタル・アケルマン監督の映画を連続上映しているので、「ジャンヌ・ディエルマン」と「オルメイヤーの阿房宮」は特に見たかったのだが、「ジャンヌ・ディエルマン」は200分もあるので断念。1作品1週間なのでなかなか他の作品も見れず、ジョゼフ・コンラッド原作の「オルメイヤーの阿房宮」だけはなんとか見てきた。


先日、「わたしは最悪。」を見た劇場です。


冒頭、夜の川面のシーンで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」が流れる(このシーンは映画を通して何度も繰り返される)。

そのあと、場面は20世紀後半と思われる東南アジアの町中が映り、そこで若い男が歌を歌い、背後で女性たちが踊っているシーンになる。

歌は題名は忘れたけれど、かなり有名な歌。

そこに男が現れ、若い男をナイフで刺し殺し、背後で踊っていた1人の女性に言う。

「ニーナ、デインは死んだ」

それを聞いたニーナが歌いだす。

という冒頭のエピソードのあと、場面はニーナの幼い頃になり、ニーナの父オルメイヤーの物語となる。

時代がコンラッドの時代(19世紀末)ではなく、20世紀後半(ニーナがJAPANと書かれたバッグを持っていたり、町の人々の服装から1970年代ではないかと思う)に設定されているので、舞台となる東南アジアの地域はすでに植民地ではなく、そのため、原作のオランダ人の支配とそれに対するマレー人デインのレジスタンスのテロは完全になくなり、現代の東南アジアに取り残された白人オルメイヤーと、父に反発する娘ニーナの関係に話が絞られている。

タイトルの「オルメイヤーの阿房宮」というのは、オランダ人のオルメイヤーがイギリス人に来てほしいと思って建てた未完成の迎賓館のような建物のことで、オランダ人たちはそれをバカにして「オルメイヤーの阿房宮」と呼ぶ。英語タイトルのAlmayer's Follyはオルメイヤーの愚行とも読めるが、イギリス人を歓待したいとか、マレー人の妻との間に生まれた娘を白人化したいとか、お金を儲けて娘とヨーロッパに行きたいとか、夢見がちなことを考えているオルメイヤーのことを表している。

原作ではラスト、娘に去られたオルメイヤーは自宅を燃やしてしまい、そのあとオルメイヤーの阿房宮に住むという象徴的な結末になっているが、映画ではそもそもこのオルメイヤーの阿房宮が登場しない。

オルメイヤーの一家は貧相な家に住んでいて、かつての植民地支配の白人の面影はない。同じコンラッド原作の「地獄の黙示録」に登場したフレンチ・プランテーションのフランス人は優雅な生活をしていたが、こちらはもう完全に落ちぶれた家。

オルメイヤーの妻は白人の養女となったマレー人で、白人化させるために白人の教育を受けさせたが、それがかえって白人への憎しみとなったとか、オルメイヤー夫妻の娘ニーナも白人の寄宿学校へ行かされたが、やはり白人社会がいやになった、というのは原作と同じ。

そのニーナがマレー人の若者デインと恋に落ちるが、デインはお尋ね者で、追手からデインを隠すために偽装工作をするのも原作と同じなのだが、原作ではデインは支配者の白人へのテロで追われているのに対し、映画はなぜお尋ね者になっているのかははっきりしない。

デインとオルメイヤーの関係も原作だといろいろあるのだが、映画ではニーナの恋人であるだけだ。

そのニーナも、原作ではデインに惚れているのだけど、映画では愛しているのかどうかわからないと言う。ただ、デインと一緒に出ていきたいのだ。

デインと一緒に行くという娘にショックを受けたオルメイヤーが、結局、川を下って2人を海まで届け、彼らが船に乗り込むのを見守るのは原作と同じで、しかもこのシーンの映像表現はすばらしい。そして、映画はそのあと、悲嘆にくれるオルメイヤーの表情をひたすら映して終わる。

で、最初のシーンは?

原作ではニーナとデインがその後どうなったかはまったくわからない。映画では冒頭にデインがニーナの目の前で殺されてしまうシーンがあるのだが、これは原作にはもちろんない。

「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」が何度も流れるから、これはやはり「愛の死」なのだろうが、最初に戻らないということは、あのシーンはなんだったのか、という疑問もある。

というわけで、いろいろ考えてしまう映画なのだが、あの原作をこういう映画にしたというのはなかなかすごい。東南アジアを見下す白人男性に対するアジアと女性からの批判も現代らしく非常に強く出ている。

「地獄の黙示路」の原作「闇の奥」は川をさかのぼる話だったが、これは川べりの地域が舞台で、最後に川を下って海へ行く話だという点も興味深い。原作も映画も2人が旅立つ海のシーンがいい。それに対し、オルメイヤーが隠居する川の上流の閉塞感が対照的だ。映画は原作よりもシンプルなだけに、この対比が際立っている。

原作の方は水で始まって最後は火で終わるという、水と火の対照があるのだけれど、映画はそれを採用していない。