バーバラ・ローデン監督・脚本・主演の「ワンダ」を渋谷まで行って見た。
岩波ホールのブルース・チャトウィンの映画もそうだったが、この手の超マイナーなミニシアター系映画は近隣の映画館には来ない。シャンタル・アケルマン映画祭までやってくれているのだが、来ない。チャトウィンの「歩いて見た世界」も「ワンダ」も関東は都内1館独占。関西だと大阪・京都・兵庫でやっているのに関東では都心へ行かないと見られない。閉館してしまった岩波ホールは昔よく行ったので、これが最後と思って出かけたが、渋谷のイメージフォーラムは行ったことがなかったのでできれば近隣でやってくれないかなと思っていたが、9月になっても吉祥寺、川崎、横浜くらいしか公開予定がないので、渋谷まで出かけた。
その存在は昔から知っていたが、行くのは初めてのイメージフォーラム。入れ替え制で次を待つお客さんがいる場所もないような狭いところ。お客さんは高齢者が多く、それも70代以上のような人がけっこういる。常連さんのような感じで、岩波ホールと似ている。この種の超マイナーなアート系映画を見るのはいまや高齢者が中心なのか?
バーバラ・ローデンについては、以前、テレビドラマ「ガラスの動物園」についての記事でちょっと触れたことがある。
さーべる倶楽部: 「ガラスの動物園」1966年版 (sabreclub4.blogspot.com)
「ワンダ」についても以前から知っていたが、特殊上映されただけなので、こうして一般公開で見られるとは思っていなかった。公開から1か月半くらいたつのにそこそこお客さんが入っている。
ストーリーは、プアホワイトのワンダ(ローデン)が夫と子供を捨てて離婚し、バーで出会った男と行動を共にするようになるが、男は実はバーで強盗をはたらいていた。そして、男は銀行強盗を計画、ワンダに片棒を担がせる。
ローデン自身、ワンダのような環境で育ったが、ニューヨークに出て俳優になったことで人生が変わったようだ。ワンダのモデルは実在の銀行強盗の共犯の女性で、もしもニューヨークに出なかったら、自分も彼女のようになっていたかもしれない、と言う。
ローデンの演じるワンダは「草原の輝き」で彼女が演じたジニーと地続きである。
「ワンダ」を見ると、ジニーはローデンにあて書きされたのではないかとさえ思う(脚本は劇作家のウィリアム・インジ、監督はのちに夫となるエリア・カザン)。
ジニーはカンザス州の田舎町の石油会社社長の娘だが、素行が悪く、どこの学校へ行ってもすぐに退学、おまけに父親の金が目当ての男が次々と言い寄ってきて、実際、結婚してしまって父親が金で取り消している。妊娠中絶の噂もある(1920年代のアメリカが舞台なので、中絶は違法)。
しかし、映画を見る限り、あるいはインジの脚本を読む限り、ジニーは頭のいい女性である。彼女は父の偽善性を見抜き、父を批判する。その父のいいなりでいい子になっている弟(ウォーレン・ベイティ)のことも批判する。誰とでも寝る女である自分に言い寄ってくる町の既婚者たちのことも心では軽蔑している。
「ワンダ」の結末近く、ワンダが男に誘われて車で人気のない場所に行くが、そこで男にのしかかられて逃げるシーンがあるが、これとよく似たシーンが「草原の輝き」にもある。
金持ちの娘で頭もいいジニーと違い、ワンダはきちんとした教育を受けていないプアホワイトである。しかし、2人の間には共通点がある。どちらも男好きであり、自由奔放に生きたい。ワンダは自分の子供の世話をしないということが最初のシーンから見えているが、もともと母親になって幸福な家庭を築くということに向いていない女性なのだ。だから離婚するときも子供は夫に渡す。
男好きではあるが、家庭を持ちたいと思わない女性、家庭を持つことに向かない女性が、貧しく、教育もない場合、自立できないから結婚することになり、そして失敗する。
ワンダは1970年の女性だ。この時代、教育を受けられた能力の高い女性は家庭を持たなくても自立して仕事に打ち込めた。だが、そうなれない庶民の女性がたくさんいたことをこの映画は示す。
「草原の輝き」の1920年代の女性ジニーは裕福な家に生まれたので、教育を受けて自立する道はなくはなかっただろうが、この映画の舞台のような田舎町ではそうした可能性を考える余地さえなかったのではないか。高校生の弟バッドは幼馴染のディーニー(ナタリー・ウッド)との結婚を考えているが、彼が夢見ているのは2人で農場を経営することである。会社社長の父は息子を東部の名門大学に進学させ、東部の大企業に入れたいと思っているので、反対する。
ディーニーの同級生にファニタという少女がいて、彼女はジニーと同じ誰とでも寝る少女だが、彼女は授業で先生の質問にきちんと答えられる頭のいい生徒として描かれている。だが、そんなファニタが男遊びばかりしているのは、いくら勉強ができてもそれを生かす将来が見えないからではないかと思う。
「草原の輝き」の脚本家ウィリアム・インジの舞台劇とその映画化「ピクニック」にも、田舎町の若い女性の将来についての話が出てくる。こちらは1950年代初頭。貧しい母子家庭の姉妹が主人公で、姉のマッジ(キム・ノヴァク)は町一番の美人だが勉強がまったくだめだったので雑貨店の店員をしている。しかし、町一番の金持ちの息子とつきあっているので、将来は安泰だと母親は思う。一方、妹のミリー(スーザン・ストラスバーグ)は頭がよく、奨学金で大学への進学が決まっている。しかし性格は女らしくないので、男の子にはバカにされている。彼女は将来はニューヨークに出て作家になると決意している。母親は、彼女には結婚という形での幸せはないと思っているようだ。
姉妹の家に下宿しているローズマリー(ロザリンド・ラッセル)は高校教師で、この時代、女性が自立する職業は教師くらいしかなく、結婚と仕事の両立がむずかしかったことが彼女や同僚の教師たちの様子から伺われる。
インジ自身は隠れゲイであり、そのことから来る抑圧を肌身に感じていて、そこから当時の女性たちの置かれた状況(実際にそういう女性たちが周囲にいた)への共感のようなものがあったのではないかと思われる。
「草原の輝き」はエリア・カザン監督で、ローデンが出演しているが、「ピクニック」は舞台も映画もジョシュア・ローガン監督で、カザンとはかかわりはなさそうだ。
ローデンの「ワンダ」はインジの描く女性問題、特に「草原の輝き」で彼女が演じたジニーとつながっている。「草原の輝き」では父親は世界恐慌で破産し、自殺。ジニーは交通事故死したらしいということが語られる。「ワンダ」で銀行強盗に失敗し、男は死に、逃亡するワンダのその後はわからない。モデルとなった犯人の女性は重い刑を言い渡されて感謝したというが、刑務所に入ってやっと落ち着けるということなのだろう。娑婆の世界には身の置き場がなく、どうやって人生を生きていいのかわからない、それを考えることさえできない人がいる、ということを「ワンダ」は示している。