「すずめの戸締まり」を初日に見たあと、ネットで他の人の感想をいろいろ見ていたら、猫と草太のキャラの造型がだめだ、という意見がけっこうあった。
猫がだめだ、というのは2つ前の記事にも書いたように、私も大いに感じていたことだが、草太の方はあまり考えていなかったので、目からうろこだった。
確かに草太はすずめに次ぐ第二の主役なのに、影が薄い。前半は椅子に変えられてしまい、声だけになってしまうし、後半は存在そのものが消されてしまう。ネットでは草太がすずめを好きになる過程が描かれていないという批判もあった。私はその辺はまあ、お約束でいいのでは、と思ったが、確かに草太の存在感がこれだけ薄いと、対等の男女の関係になりにくい。新海誠の過去作で言うと、「秒速5センチメートル」で栃木県の少女が途中から消えてしまい、主人公の思いだけになるのと同じだ。そして、「秒速」では成長した少女は彼のことをほとんど忘れていて、2人はめぐりあうことはない。
「秒速」はそういう話だったからそれでいいのだが、「すずめの戸締まり」では困る。
もうひとつ、目からうろこだった意見に、「すずめ」はジブリ+「帝都物語」というのがあって、ああ、そうか、魔界を封じるとか結界とかの話でもあるな、と思った。
ジブリというのは、ジブリを意識した「星を追う子ども」の系統だからだが、魔界を封じる戸締まりというコンセプトを考えたとき、いろいろ疑問点が浮かんだ。
魔界を封じる物語では、扉の向こうから魔がやってくるのを防ぐ話になる。
しかし、新海誠がこだわった別世界は、「君の名は。」でも「天気の子」でも、向こうの世界からこちらの世界に魔物が侵入してくる魔界ではなく、主人公たちがこちらの世界からあちらの世界へ行くことだった。それは生の世界から死の世界へ行くことでもある。
そして、「すずめ」は魔界の扉を閉める話なのに、クライマックスではこちらからあちらの世界へ行く話になっている。「君の名は。」と「天気の子」では少年が愛する少女を救うためにあちらの世界へ行くが、「すずめ」ではすずめが草太を救うために扉の向こうへ行く(ネタバレ そこで過去の自分と対峙する)。
これが本来の新海のパターンなのである。魔物が侵入してくる魔界の扉を閉めるのではなく、こちらの世界からあちらの世界へ行くこと。
しかし、この映画では、魔物が侵入してくる扉を閉めることを物語の中心にした。そして、それがどうもうまくいっていないと感じる。
侵入してくる魔物を地震としたのは、東日本大震災を入れたかったからだろう。地震よりも津波の方が合うのだけど、関東大震災も入れたかったのだろう。しかし、地震は地下から来るものなのに、扉から出た赤黒い魔物は空に舞い上がり、地上に落ちると地震になる。これがどうにも不自然に感じる。
扉から出る魔物は疫病や放射能の方が合っているだろう。地震にするならもっと違う出方の方がふさわしいのではないか?
この赤黒い魔物のヴィジュアルもあまり感心しないのだが、この魔界を封じる物語自体が、新海誠は自分のものにできていない感じがする。荒俣宏や夢枕獏ならもっとうまくやったのではないか?
そういえば、あの白猫は夢枕獏原作の「空海」の黒猫から発想したのではないだろうね? RADWIMPSつながりだからきっと見てると思うんだが。あの白猫のコンセプトがだめなのも、この魔界封じがだめなのとつながっている気がする。
そして、草太の存在感が薄いのも、魔界封じのコンセプトがイマイチだからではないだろうか。
東日本大震災は「君の名は。」の原点であり、震災が風化しているので取り入れたい、と思った新海の気持ちは理解できるし、そのこと自体はよいことだと思う。でも、地震を描くにはもっと違うコンセプトが必要だったのではないか。出来上がった「すずめの戸締まり」は、地震と魔界封じと、あちらの世界とこちらの世界が中途半端に入り混じっている。本来なら2本の映画を作るべき題材だったのではないかと思う。
フードコートに新しくカレー屋さんが入っていた。おいしそうだったけれど、別の店の唐揚げ定食を食べてしまった。