2023年7月10日月曜日

りさ~ちまっぷその後(先は長い)

 自分の執筆記録を残したい、という気持ちで春頃から始めたリサーチマップの登録。土日で50くらい映画評のタイトルと媒体名を追加登録しましたが、まだまだ先は長い。

キネ旬が多いのだけど、2000年までのキネ旬は国立国会図書館のHPに目次が出ているので、それを見て登録してますが、細かいのでたぶん見落としがある。とりあえず、1984年から88年までは一応やった。

2002年秋からはパソコンに原稿がテキストデータで残っているので、それを見て登録。2002年秋から現在までは一応できたかな。

キネ旬以外は雑誌の切り抜き等を探し出して、それを見て登録する以外ありません。先は長い。キネ旬も1989年から2002年夏まではこれからだし。

でも、この作業をしていると、40年近くにわたる自分の執筆歴、そのときのさまざまな状況が思い出され、お世話になった人たちの顔が頭に浮かび、いろいろ感無量です。

キネ旬は解説を書いた「フランケンシュタイン」を送ったのがきっかけで執筆できるようになりましたが、最初の2、3年はシナリオ採録要員にされていて、映画評はなかなか書かせてもらえず、ストレスがたまりまくりでした。シナリオ採録は時間がかかるのに報酬が極端に安く、やりたがる人はまずいない、という状況で、私も仕事自体は楽しめる部分もあったものの、映画評を書かせてもらえる期待からやっていた面が大きかったです。でも、なかなか書かせてもらえなかった。私の売り込みが下手だったせいもありますが。

潮目が変わったのは1987年頃からだと思います。その頃から他の雑誌にも執筆できるようになり、キネ旬でも映画評担当のベテラン編集者が私の文章を気に入ってくれたおかげで、映画評の仕事が増えました。

しかし、その状態も長くは続かず、1990年春に知っていた編集者がみなやめてしまい、キネ旬とはしばらく縁がない状態に。それでも、他の雑誌での仕事はいろいろあったので、映画評論家としての活動が途切れることはありませんでした(いくつもの雑誌の編集者が私の文章を気に入ってくれたおかげです)。そして、1996年からはまたキネ旬に復帰。そのときの編集メンバーに気に入られたおかげで、それから10年以上、たくさんの映画評を発表できていました。

ただ、その間に他の媒体の仕事はどんどんなくなり、いつしかキネ旬だけが頼りの状態に。そのキネ旬も2010年代に入ると、いろいろな変化があって、しだいに機会が減っていきます。

リサーチマップに登録しながら、ああ、この時代はシナリオ採録ばかりで映画評が書けなくて欲求不満だったなあ、とか、ああ、この時代はこんなにたくさん書かせてもらったのか、と感謝の気持ちでいっぱいになったり。そして、お世話になった多くの雑誌、出版社の編集者、映画配給会社の宣伝部の人たちを思い出して、また、感無量になったのでした。

私は大学院ではE・M・フォースターを研究していたのですが、キネ旬に書けるようになった翌年にデイヴィッド・リーン監督による「インドへの道」映画化が公開。これに合わせて原作と映画の比較論とシナリオ採録をさせてもらい、その後も「眺めのいい部屋」と「モーリス」の特集に書かせてもらえました。ジェームズ・アイヴォリー監督のこの2作では配給会社にも協力し、パンフレットに執筆。1990年代に入ってからの「ハワーズ・エンド」はキネ旬では縁がなくなっていたので書けませんでしたが、配給会社での協力は続き、プレスシートとパンフレットの両方に執筆。大学院での研究がそのまま映画の世界での仕事に直結したわけで、これはとても幸運でした。

リーン監督の「インドへの道」が巻頭特集の「キネマ旬報」。古書店のHPにあった写真ですが、このリーン監督の写真を表紙に使えるというので、編集者がとても喜んでいたのを覚えています。


40年近くを振り返ってみて、私のような人づきあいが悪く、売り込みが下手な人間がよく書き続けてこれたなあ、と思います。文章を気に入ってくれる編集者が多かった、としか言いようがなく、なぜ多かったのかは謎です。気に入ってくれない人もかなり多かったので。たぶん、私の書くようなタイプの映画評が必要とされた時代だったのかな、と。そして、2010年頃からその時代は終わったんだ、と。

そんなことをあらためて振り返りつつ、リサーチマップの登録を続けていきます(先は長い)。