講談社文庫の新訳で「白鯨」を読んだら全然面白くなかったのだけど、原文の冒頭部分を見たら文章が詩になっていて、あれ、と思い、阿部知二訳だと面白いという話を聞いて、原文で読むのも大変だからとりあえず阿部知二訳を読むことにしました。
阿部訳は岩波文庫のほか、複数の全集に入っていて、全集は近くの図書館にあるのですが、文字が細かいし本は重いし。一方、岩波文庫は新訳が出たので、地元の市立図書館では旧訳は処分してしまったらしい。
そんなこんなでどうしようかと思っていたところ、たまたま読みたい絶版本があって、探したら、近隣のカードのある図書館では葛飾区立図書館にしかないことがわかり、そこには岩波文庫の阿部訳があるので、一緒に借りることにしました。ネットで予約し、翌日には資料の準備ができたのですが、なんと、上巻だけ貸出中だった!
とりあえず中下を借り、上巻の部分は全集で読むことも考えましたが、県立図書館の遠くの館に岩波の旧訳がある。そこで上巻を予約。県立は本の移動が週に2回しかないので、すぐに来ないことが多いのですが、たまたま予約した日の翌日が移動日だったので、すぐ借りられました。
そして、読み始めてびっくり! 新訳と同じ小説とは思えない。一字一句じっくり読んでしまうような名文。登場人物の一人一人がくっきりときわだっていて、物語の全貌がようやく見えたかのようです。
イシュメールの盟友クイークエグって高貴な野蛮人(ノーブル・サヴェッジ)だったのか!
インディアンやアフリカの黒人も高貴な野蛮人として描かれている。新訳ではまったくそうは見えなかったのに。
たまにちらっと出てくるエイハブも、新訳では感じられなかったものすごい存在感。
新訳やネットの解説ではクイークエグを高貴な野蛮人として解説してるのは見なかったな。探せばあるのかもしれないけど。
たぶん、野蛮人が今は差別語だからということもあるのだろうけど、そもそも「高貴な野蛮人」という概念が白人中心主義の差別的概念ではあるので、野蛮人を野生人と置き換えても本質は変わらない。でも、過去にはそういう伝統があったのに、それをなかったことのようにしてしまうのはどうなのだろう。差別的概念だということも含めて解説すべきなのではないだろうか。
まあとにかく、阿部訳は今だったら問題になる差別表現が満載なので、これはもう古典の名作として扱うしかないのは理解できます。新訳もほかのは読んでいないので、新訳でもよい訳があるのかもしれない。
新訳で読んだとき、「白鯨」に似た小説はスターンの「トリストラム・シャンディ」かな、と思ったのですが、阿部氏の解説に、メルヴィルがこの小説を愛読していたらしいことが書かれていて、我が意を得たりでした。が、私は「トリストラム・シャンディ」をとても面白く読んだのだけど、訳が朱牟田夏雄だったのだね。もしも新訳が出たら、面白く読めないかもしれない。
私が10代20代の頃はこの手の昔の名訳者の翻訳が普通に出回っていて、それを読んで外国文学を好きになったので、今の新訳では好きにならなかったのではないか、そんなことも考えてしまいました。昔の名訳者がいなかったら、英米文学の道に進むこともなかったかもしれない。
さて、県立図書館から借りた上巻(左)と、葛飾区図書館から借りた中下巻。
実は上巻は1964年、中巻は1986年の版です。上巻の方にはしおりがわりになる紐がついている。今は新潮文庫しかついていません。上の方にちらっと見えるのは、本を押さえるために置いた下巻。
上巻の鯨学の手前まで読みましたが、じっくり読んでいるので時間がかかりそう。でも、楽しい読書です。