商業誌に執筆した原稿を再録することは避けてきたのですが、どうしても再録したくなったので、ここに掲載します。2008年秋にキネマ旬報に掲載された文章です。大林監督から、「ここまで理解してもらえるのか」というお葉書をいただきました。
「その日のまえに」
いつか、誰にでも訪れる“その日=死”に直面した人々を描く重松清の連作短編集「その日のまえに」。そこに描かれる死は、人生に足を踏み入れたばかりの子供の死や、幼い子供を残して逝かねばならない親の死である。人生の半ばに訪れる理不尽な死。それを前にした家族の悲痛な思いは想像するだけでつらいものがあるが、この短編集は死をメロドラマにはせずに、日常生活の中で淡々と描く。そこがかえって、涙を誘う。
自らを「七十代の新人」と呼び、「“いつか見た映画”の中に戻って了った子供」と称する大林宣彦監督は、この連作短編集を一本の映画にするにあたり、涙よりも微笑みを、暗さよりも明るさを前面に押し出し、おもちゃ箱のような楽しい映画にすることを選んだ。そのおもちゃ箱の中身を広げ、「映画と遊びに来ませんか」と監督は言うのである。
おもちゃ箱の中には、節分の豆まきの鬼のお面から、削ったばかりの鉛筆まで、さまざまなものが入っている。寄せ書きの色紙、青いペンキ、ひこうき雲、真っ赤な口紅、タンポポの綿毛、大きなチェロ、雪を盛った茶碗。ひとつひとつに思い出がある。ひとつひとつに秘密がある。映画はゆっくりとゆっくりと、時間をかけて、その秘密を見せていく。
思えば、死は究極の秘密である。日常生活では、死は巧妙に隠されている。いつかその日が来るとわかっていても、四六時中、死と向き合って暮らすわけにはいかない。私たちは死を意識の水面下に沈め、いまを生きる。死という秘密が隠されていても、人生は美しい。いや、死という秘密が隠されているから、生は美しいのだろうか。
映画「その日のまえに」が美しいのは、映像のひとつひとつに秘密が隠されているからだ。観客はまず、夜の海辺に放り出される。子供が水死したらしいということがわかるが、映像はまるで劇画のようだ。これはいったい何だろうと思っていると、今度はデザイナーと妻の日常的なシーンに変わる。南原清隆の飾らない朴訥とした夫と、永作博美のひまわりのように明るい笑顔の妻。転がる鉛筆と、偶然ついたキスマーク。幸せそうな夫婦なのに、突然、悲痛な叫びをあげて部屋に逃げ込む夫。いったい、何が起こったのか。
原作を読んでいれば、ある程度は秘密がわかる。原作は七つの短編からなる連作で、最後の三編がデザイナー夫婦の話。けれども、それ以前の四編も、夫婦の物語とどこかでつながっている。映画はこのデザイナー夫婦の物語をメインプロットに、水死した少年にまつわるエピソードをサブプロットにして、そこに他の物語を変形して組み込むという、みごとな脚色を施している。
しかし、この映画がすばらしいのは、映像に秘密を持たせるというその手法だろう。手についた青いペンキの秘密。キスマークになった口紅の秘密。夫婦がすれ違う黒いコートの男の秘密。思い出の町で、いきなり自転車で駆け抜けていく子供たちの秘密。路上の歌手の歌う言葉の秘密。歌に耳を傾ける中年女性の秘密。デザイナーの妻の名前の秘密(原作の和美をとし子に変えている)。ひとつひとつの秘密がやがて明らかにされるとき、そこに現れるのは、死を目前にした人が残される人に託した思いであり、残される人が受けとめる未来への希望である。
(以下、ネタバレになります。)
おそらく、最も驚くべき秘密は、この映画が実にみごとな宮澤賢治ワールドだということだろう。賢治の愛読者ならすぐわかることだが、列車が登場すれば「銀河鉄道の夜」を、水死した少年と聞けばこの童話に登場するカムパネルラを、路上の歌手の芸名がクラムボンだと知れば「やまなし」を、チェロを弾くシーンがあれば「セロ弾きのゴーシュ」を連想する。路上の歌手は賢治の詩「永訣の朝」に曲をつけて歌う。若くして世を去った賢治の妹、とし子を歌った詩である。やがて、歌手は宮澤とし子となり、チェロを弾く賢治とともに旅に出る(賢治も趣味でチェロを弾いていた)。デザイナー夫婦は雪原を走る列車に乗る。列車は銀河鉄道であり、夫婦はジョバンニとカムパネルラになり、賢治ととし子になる。デザイナーの妻のとし子にも兄がいるが、夫の方が賢治と重ねあわされているのが面白い。とし子は賢治の故郷、岩手県の出身となっており、両親は賢治の妹にちなんでこの名をつけたことがわかる。
「永訣の朝」は原作にもほんの少しだが言及されている。映画では路上の歌手が「あめゆじゆとてちてけんじや」と歌う。死を前にしたとし子が賢治に「雨雪をとってきてください」と言っているのだ。妹は私を一生明るくするために雪を望んだのだ、と賢治は思う。映画では、賢治が両手を上げ、茶碗に雪を受けようとしている。死にゆく妹が与える光を受けとめようとするかのように。
デザイナーの妻、とし子もまた、夫に光を与えようとしていたのだ。青空を、ひこうき雲を、彼に残そうとしていた。その作りかけの青空の中で、おそらく彼女は太陽だったのだろう。原作で歌手が歌っていた「ヒア・カムズ・ザ・サン」は映画には登場しないが、とし子の顔を陽の光が照らすとき、それはまさしく「ヒア・カムズ・ザ・サン」になる。
原作に潜んでいた宮澤賢治のモチーフは、大林監督のおもちゃ箱にはまさにうってつけだった。子供の視線で描かれた童話の世界は、大林マジックで底抜けに明るいものになった。時代錯誤の衣装を着た駅長君は、賢治の世界にいてもおかしくない。とし子の残した手紙の言葉(原作とまったく同じ)も結末の花火も、現世と来世、この世と永遠をモチーフとしてきた大林ワールドそのものである。