「ボヘミアン・ラプソディ」は公開直後からあちこちのテレビで取り上げられているようで、土曜日のシネコンは大盛況。先週土曜の100%以上の客入りを記録した。
先週土曜日は日本橋のTCXのスクリーンで見たのだけれど、同じ日本橋のドルビーアトモスの方が入りがいいので、ドルビーアトモスでも見てみたい、と思い、またまた土曜日に出かけた。
見た回はチケットはソールドアウト。満員御礼。
前回は両隣シニア夫婦だったが、今回は両隣が若いカップル。どちらも20代からシニアまで年齢が幅広いし、男女両方いるけど、女性の方が多いかな、という感じ。
で、初体験のドルビーアトモス。料金は200円増し。
しょっぱなの20世紀フォックスのファンファーレがエレキギターなのだが、通常版音声だと気の抜けた音だったのに、アトモスだと決まっている。
ただ、全体にサラウンド感がないし、クライマックスのライブシーンで大きい音になるとひどい雑音が聞こえるのががっかりだった。
うーん、これなら通常版でよかったかな。
アイマックスをやっているところもあるが、アイマックスでも音はそれほどよくないという話も聞く。映像はすごいのだろうけど。
で、さすがに2度目は最初ほどは感動しなかった。
リピーターになった「君の名は。」、「空海」、「カメラを止めるな」は二度目以降も感動したし、常に新しい発見があったが、「ボヘミアン・ラプソディ」はそこまでの映画ではなさそうだ。
でも、「きみが本当の自分を見つけたら会おう」(のちにフレディのパートナーとなる男性のせりふ)とか、「俺が何者であるかは俺が決める」(フレディ)といった、刺さるせりふがいくつかある。
フレディの自分探しのようなストーリーになっていて、そこが刺さる人もいれば物足りない人もいるのだろう。
メンバーがけんかして、「コーヒーマシンはやめろ」と叫ぶシーンでは2回とも客席から笑いが。
フレディが猫に向かって「批評家め」というシーンがあるが、猫がかわいいのもこの映画の好きなところ。
ネットには絶賛の文章がいろいろ出てきているようで、やっぱり人の心に刺さるものがある映画なのだと思う。
次はTOHOは6回見たら1回タダの回なのだけど、どうするかなあ。
2018年11月18日日曜日
2018年11月16日金曜日
トースターを衝動買い
2007年にそれまで20年以上住んだアパートから引越、そのときにやはり20年くらい使っていたトースターを捨ててしまい、以後、10年以上、トースターのない生活を送ってきた。
時々、チーズトースト食べたいな、とか、食パンにツナとマヨネーズのっけて焼いたのを食べたいな、とは思ったものの、それだけのためにトースターを買うのももったいない気がして、パンはもっぱらバターロールをそのまま食べていた。そして、しばらく前から自宅ではほとんどパンを食べなくなってしまった(朝は納豆タマゴかけご飯)。
そんなわけで、トースターはもう一生買わないかな、と思っていたところ、スーパーの家電売り場で前からほしかったツインバードのミラートースターがなんと、2400円(税抜)。
これです。
使用中は庫内が見える。
今の団地に引っ越したとき、スーパーで3500円で売っていたのだけど、トースターなんて2000円以下でもあるのに3000円以上出すなんてばかばかしいと思い、買う気はなかった。
それから3年、どうも在庫一掃のようで、2400円になっていた(店頭には在庫は1個しかなかった)。
製造時期も2016年だから、古い在庫のようです。
で、これって、世間ではいくらくらいで売っているのかな、と思い、アマゾンで調べたら、5000円以上する!
価格コムでも最安値が4300円。
近所のスーパー、3500円でも安かったんだ。
上の写真はアマゾンから借りてきたものです。
実は、ほしかったのは、アイリスオーヤマのミラートースターの縦長のやつだった。
が、このトースターは徒歩15分くらいのところにあるホームセンターで5000円くらいだったので、トースターに5000円なんてありえないと思い、こちらも買う気になれなかった。
同じアイリスオーヤマの横長のやつは近所のスーパーで3780円くらいで売っている。近所には縦長はない。
で、アマゾンでついでにこっちも見たら、お値段は4000円以下と安くなっていたけど、レビューがかなり悪い。
ツインバードのも、すぐ壊れたというレビューがあるが、全体に評価は高い。
この種の家電は当たり外れがあるのだろうけれど、アイリスオーヤマの方が低評価が多い。
しかし、11年前に引っ越した時に捨ててしまったトースターは東芝の縦長のやつで、捨てなければまだ使えたのだ。さすがに20年近いので中がかなり汚れていて、掃除もできないので、捨ててしまったのだけど。
昔の家電はほんとに長持ちしたのだなあ。
ツインバードのトースターを買って持って帰るとき、ものすごく重いのでびっくりしたが、4キロ以上あるらしい。昔のトースターはシンプルで軽かったのだけど、なんで今のは重いのだろう。他のトースターもアマゾンで見ると4キロ以上ある。火力も昔より強くて、ちょっとした料理はできるようだけど。
まあ、2400円(税抜)なら、すぐ壊れてもあきらめがつきます。
時々、チーズトースト食べたいな、とか、食パンにツナとマヨネーズのっけて焼いたのを食べたいな、とは思ったものの、それだけのためにトースターを買うのももったいない気がして、パンはもっぱらバターロールをそのまま食べていた。そして、しばらく前から自宅ではほとんどパンを食べなくなってしまった(朝は納豆タマゴかけご飯)。
そんなわけで、トースターはもう一生買わないかな、と思っていたところ、スーパーの家電売り場で前からほしかったツインバードのミラートースターがなんと、2400円(税抜)。
これです。
使用中は庫内が見える。
今の団地に引っ越したとき、スーパーで3500円で売っていたのだけど、トースターなんて2000円以下でもあるのに3000円以上出すなんてばかばかしいと思い、買う気はなかった。
それから3年、どうも在庫一掃のようで、2400円になっていた(店頭には在庫は1個しかなかった)。
製造時期も2016年だから、古い在庫のようです。
で、これって、世間ではいくらくらいで売っているのかな、と思い、アマゾンで調べたら、5000円以上する!
価格コムでも最安値が4300円。
近所のスーパー、3500円でも安かったんだ。
上の写真はアマゾンから借りてきたものです。
実は、ほしかったのは、アイリスオーヤマのミラートースターの縦長のやつだった。
が、このトースターは徒歩15分くらいのところにあるホームセンターで5000円くらいだったので、トースターに5000円なんてありえないと思い、こちらも買う気になれなかった。
同じアイリスオーヤマの横長のやつは近所のスーパーで3780円くらいで売っている。近所には縦長はない。
で、アマゾンでついでにこっちも見たら、お値段は4000円以下と安くなっていたけど、レビューがかなり悪い。
ツインバードのも、すぐ壊れたというレビューがあるが、全体に評価は高い。
この種の家電は当たり外れがあるのだろうけれど、アイリスオーヤマの方が低評価が多い。
しかし、11年前に引っ越した時に捨ててしまったトースターは東芝の縦長のやつで、捨てなければまだ使えたのだ。さすがに20年近いので中がかなり汚れていて、掃除もできないので、捨ててしまったのだけど。
昔の家電はほんとに長持ちしたのだなあ。
ツインバードのトースターを買って持って帰るとき、ものすごく重いのでびっくりしたが、4キロ以上あるらしい。昔のトースターはシンプルで軽かったのだけど、なんで今のは重いのだろう。他のトースターもアマゾンで見ると4キロ以上ある。火力も昔より強くて、ちょっとした料理はできるようだけど。
まあ、2400円(税抜)なら、すぐ壊れてもあきらめがつきます。
2018年11月14日水曜日
平日なのにシャンシャン待ち時間3時間!
そのわけは、11月14日は埼玉県民の日。
しかし、6月上旬の、整理券から並んだ順にかわった週の金曜が千葉県民の日で、平日にしては混んでいたとはいえ、せいぜい90分待ちくらいだったらしいので、いくら埼玉県民の日だからって3時間待ちとは。ふだんは4時締め切りの観覧受付も驚異の2時半締め切りでした。(ネットで確認。もちろん、現地には行っていません。)
今週からシャンシャンの親離れの訓練が始まり、午前中は別居、午後は同居となったので、午後の方が混むようです。シャンシャン、いよいよ子供じゃなくなっちゃうんだね、ってことで、他の日も平日は2時間待ち、土日は3時間待ちもあるようです。
もうシャンシャンには会えないのかなあ。完全別居になったら混まなくなるのだろうか。でも、今度はシャンシャンが中国に行ってしまうというんで混むだろうなあ。
というわけで、埼玉県民の日は埼玉県はもちろん、東京都や千葉県でも埼玉県在住・在学・在勤の証明があれば割引の施設があるようです。
そして、埼玉県民の日は、埼玉県立近代美術館が誰でも入場無料(埼玉県の施設は誰でも無料や割引が多い)。
埼玉県民の日の思い出といえば、かれこれ30年くらい前、アンドリュー・ワイエス展がこの美術館で行われていて、県民の日とは知らずに都心から京浜東北線に乗って北浦和駅そばのこの美術館へ出かけたのです。
行ってみると、県民の日なので誰でも入場無料。入場料けっこう高かったので、得してしまいました。中も無料にしては混んでなかったのでゆっくり見られたし、入場料浮いた分、絵葉書をたくさん買いました。
このときはワイエスの近所に住む主婦ヘルガの絵ばかりを集めた展覧会でしたが、絵葉書、どこにしまったんだろう。
2010年にもこの埼玉県立近代美術館でワイエス展があったようです(知らなかった)。
30年前に見たワイエスの絵の一部、ネットから画像を借りてきました。
有名なのはこれ。
ヌードも描いている。
いやあ、なつかしい。埼玉県立近代美術館に行ったのはこのとき一度きりです。
さて、ハロウィンが終わるとクリスマスツリーを飾るのですが、やっと飾りつけをしました。
カレンダーは新海誠カレンダー(11月12月は「雲の向こう、約束の場所」。
その真下はまるちゃんという猫の卓上カレンダー。ツリーに合わせて12月の面を出しました。
左のCDプレーヤーの上は、まず、日暮里駅のにゃっぽりハンカチ、その上に左が倉本裕基のCD、その右がシャンシャンお誕生日記念カード。
近所の公園へ散歩。花は逆光で撮ると面白い。バックのぼけた白いのはススキ。
ススキも逆光で。ぼけたピンクはコスモス。
狂い咲きの桜はほとんど散っていた。
紅葉はまだまだ。
しかし、6月上旬の、整理券から並んだ順にかわった週の金曜が千葉県民の日で、平日にしては混んでいたとはいえ、せいぜい90分待ちくらいだったらしいので、いくら埼玉県民の日だからって3時間待ちとは。ふだんは4時締め切りの観覧受付も驚異の2時半締め切りでした。(ネットで確認。もちろん、現地には行っていません。)
今週からシャンシャンの親離れの訓練が始まり、午前中は別居、午後は同居となったので、午後の方が混むようです。シャンシャン、いよいよ子供じゃなくなっちゃうんだね、ってことで、他の日も平日は2時間待ち、土日は3時間待ちもあるようです。
もうシャンシャンには会えないのかなあ。完全別居になったら混まなくなるのだろうか。でも、今度はシャンシャンが中国に行ってしまうというんで混むだろうなあ。
というわけで、埼玉県民の日は埼玉県はもちろん、東京都や千葉県でも埼玉県在住・在学・在勤の証明があれば割引の施設があるようです。
そして、埼玉県民の日は、埼玉県立近代美術館が誰でも入場無料(埼玉県の施設は誰でも無料や割引が多い)。
埼玉県民の日の思い出といえば、かれこれ30年くらい前、アンドリュー・ワイエス展がこの美術館で行われていて、県民の日とは知らずに都心から京浜東北線に乗って北浦和駅そばのこの美術館へ出かけたのです。
行ってみると、県民の日なので誰でも入場無料。入場料けっこう高かったので、得してしまいました。中も無料にしては混んでなかったのでゆっくり見られたし、入場料浮いた分、絵葉書をたくさん買いました。
このときはワイエスの近所に住む主婦ヘルガの絵ばかりを集めた展覧会でしたが、絵葉書、どこにしまったんだろう。
2010年にもこの埼玉県立近代美術館でワイエス展があったようです(知らなかった)。
30年前に見たワイエスの絵の一部、ネットから画像を借りてきました。
有名なのはこれ。
ヌードも描いている。
いやあ、なつかしい。埼玉県立近代美術館に行ったのはこのとき一度きりです。
さて、ハロウィンが終わるとクリスマスツリーを飾るのですが、やっと飾りつけをしました。
カレンダーは新海誠カレンダー(11月12月は「雲の向こう、約束の場所」。
その真下はまるちゃんという猫の卓上カレンダー。ツリーに合わせて12月の面を出しました。
左のCDプレーヤーの上は、まず、日暮里駅のにゃっぽりハンカチ、その上に左が倉本裕基のCD、その右がシャンシャンお誕生日記念カード。
近所の公園へ散歩。花は逆光で撮ると面白い。バックのぼけた白いのはススキ。
ススキも逆光で。ぼけたピンクはコスモス。
狂い咲きの桜はほとんど散っていた。
紅葉はまだまだ。
音楽が生まれ育つさまを描く「ボヘミアン・ラプソディ」
土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行って、本当に感動し、幸福感に包まれ、その余韻を楽しむためにふだんなら三越前駅から地下鉄に乗るのに、神田駅まであるいたことを前の記事で書いた。
クイーンについては有名な曲を知っているくらいで、フレディ・マーキュリーの名前はさすがに知っていたが、バンド自体についてはまったく知らず、まったくといっていいほど予備知識なしに、まさに真っ白な状態で見に行った。
その真っ白な心に焼きついた感動を胸に帰宅したのだが、やはり背景を知りたいと思い、ネットで調べてしまった。
そこで、ブライアン・シンガーがスタッフ・キャストと衝突して監督降板したことを知り、ロッテントマトで批評家は60%という、かろうじて赤いトマトになる数字だと知る(観客は90%と圧倒的な支持)。
そのあたりから自分の目が曇ってしまい、見えていたものが見えなくなっていた。
見た直後に私が感じていたのは、今世紀に入って20世紀後半のアーティストの伝記映画が次々と作られているけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」はその中でも出色の出来だということだった。
もちろん、今世紀に入って次々と作られる音楽映画が、そこそこいい映画ではあるけれど、そんなにすごい、奥深い傑作というわけではなく、その中で出色の出来といっても、別にすごい芸術というわけではないのだが、それでもこの映画は頭ひとつ抜きんでた傑作だという思いは強かった。
そのわけは、この映画が、音楽が生まれることをテーマにしているからだ。
フレディ・マーキュリーの伝記ではあるが、フレディの人生の葛藤や苦悩を前面に出した映画ではない。
さらに言うと、この映画は、音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれる、というテーマを採用していない。
音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれるというのは人気のあるモチーフである。ベートーヴェンはそのモチーフで描かれることが多い。しかし、モーツアルトはしょうもないひどいやつで、ふざけたことばかりしていたけれど、それでも美しい音楽を苦もなく書き上げた。一方、サリエリはどんなに苦悩したってたいした曲は書けなかったのだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」の音楽は、天才の苦悩や葛藤から生まれるのではない。それは、仲間との協力によって生まれるのだ。天才と彼をとりまく仲間との間のケミストリーが、すばらしい傑作を生み出すのだ。
そう、この映画は音楽におけるケミストリーをテーマにしているのであり、そのケミストリーは音楽を受容する観客にまでつながるものだ。
私にこの映画に興味を持たせた予告編、中でも猫がピアノの鍵盤の上を歩くシーンは、映画のはじめの方に登場する。まだ無名のフレディがガールフレンドとベッドに寝ていて、彼らの頭の斜め上にピアノの鍵盤があるのだ。そこを猫が歩く。(追記 再見したところ、猫が鍵盤を歩くシーンはこのシーンではなく、そのの少しあとに出てくる。)
弦楽器や管楽器はまともな音を出すまでが大変だが、ピアノは猫が歩いても音が出る、とはよく言われる言葉。しかし、猫が歩いて出る音を音楽とは呼ばない。
音楽はどのようにして生まれるのか。あるいは、クイーンの音楽はどのようにして生まれたのか。
映画はそれを実に巧妙に描いている。
タイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」は、題名からしてクラシックを連想させる。ラプソディはクラシックの曲の1種であるし、ボヘミアンはプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を連想させる。ボエームはボヘミアンのことで、芸術家の意味だ。フレディはオペラをよく聞いていて、この曲はロックでオペラをやろうとしたものだが、6分もあるからラジオでかけてもらえないとか、歌詞が意味不明とかさんざん言われる。発売されるが、批評家からは評価されていないことがわかる字幕が画面に次々と浮かぶ。しかし、芸術家の狂詩曲(ボヘミアン・ラプソディ)はフレディの死後に再評価されたことが最後に告げられる。
白眉は「ウィー・ウィル・ロック・ユー」誕生シーン。メンバーが手拍子足拍子でリズムをとっていると、そこへフレディが現れ、「で、歌は?」と言い、それが「ウィー・ウィル・ロック・ユー」となって、観客も巻き込んでの絶唱となる。天才フレディとメンバーの間のケミストリーが名曲を生み、それが観客によって受容されて、音楽として完成するのだ。
だから後半、金がすべての業界人がフレディにソロになることをすすめ、フレディもその気になって、バンド解散の危機になったとき、そのケミストリーの重要性が浮かび上がる。
フレディはバンドのメンバーとの確執に疲れていて、それでバンドを離れてソロになろうとしていたのだが、どうもうまくいかない。精神的にも肉体的にも疲弊したフレディの目を覚まさせたのは元恋人の女性で、雨の中、立ち尽くすフレディは、自分にとってだいじな人は金目当ての人々ではなく中まであることに気づく。この雨の中の覚醒シーンはこれまでもよく映画などで描かれたシーンで、決して新しさはないのだが、それでも手垢のついた感じはなく、すなおに感動できる。
バンドのメンバーと再会したフレディは言う、「新しいバンドのメンバーは自分の言いなりで意見も何も言わない。でも、きみたちは俺に意見を言ったり不満な顔をした。それでいい曲ができたのだ」と。バンド・メンバーとの切磋琢磨がすぐれた音楽を生み出していた、と彼は悟ったのだ。
この映画は、クイーンの音楽が1人の天才だけによって作られたという見方はしていない。フレディは天才であり、レジェンドだが、音楽は神のような天才1人によって作られるのではない、というのがこの映画の見方である。だから、名曲が生まれるときにバンド・メンバーの関与があったとするシーンが、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」以外の曲でも描かれる。
このような見方は、フレディ・マーキュリーの才能を過小評価することになるのだろうか? そういう見方もあるだろう。
しかし、音楽や映画のような芸術は1人の人間によって作られるのではない。そして、音楽も映画も、最終的には観客の受容によって完成する。この映画はフレディの才能とバンドのケミストリーによって音楽が誕生し、そして観客に受容されるまでを描いている。そこまで行って初めて音楽は完成するのだということを。クライマックスの大観衆の熱狂はまさにそれを描いている。
この映画は当初、デクスター・フレッチャーが監督する予定だったが、ブライアン・シンガーが監督になり、3分の2ほど撮影したところでシンガーが降板、その後はフレッチャーが監督して映画を仕上げたのだという。シンガーだったらもっとシリアスで奥深い傑作にできたかもしれないが、上に書いたようなバンドのケミストリーによって音楽が生まれ、そこにフレディをめぐる人々の人間模様がかぶさるというモチーフはシンガーには合わなかったのだろう。おそらくこのモチーフは映画の肝であって、あとを継いだフレッチャーはこのモチーフに従って映画をまとめたのではないかと思う。
クレジットはシンガーになっているが、シンガーの映画とは言えないのかもしれない。
でも、と私は思う。
「風と共に去りぬ」には3人の監督がいた。ジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミング、サム・ウッド。キューカーがまず監督し、それをフレミングが受け継いで全体をまとめ、最後にウッドが補った、という感じらしいのだが、実は同じ年に同じMGMで作られた「オズの魔法使」もジョージ・キューカーがまず監督し、それからフレミングが受け継いだのだそうだ。どちらもフレミングがクレジットされているが、「オズの魔法使」DVDの特典映像によると、当時のハリウッドでは監督は1本の映画に専念せずに次から次へとプロジェクトを移っていくのは普通だったらしい。「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」のようなビッグバジェットの娯楽映画は、作家性を主張しないフレミングのような監督の方が全体をまとめるには合っていたのだろう。神のような1人の監督が支配する作家の映画ではないからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」も、作家性の強い神のような監督が支配するタイプの映画ではない。しかし、「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」がキューカーのような名匠の手によって土台作りをされたことで格調の高さも手に入れたのだとしたら、「ボヘミアン・ラプソディ」もシンガーの参加で映像的なすばらしさを手に入れているのかもしれない。この映画には間の抜けた映像が見当たらないのだ。
いさかいがあっても、最終的には多くの人のケミストリーで出来上がる傑作というものがあって、「ボヘミアン・ラプソディ」という映画自体もそうした作品かもしれない。そして、それは、クイーンの音楽のケミストリーという映画のテーマにぴったりと合うのだ。
音楽が生まれ育ち、観客に受容されることを描くのが主眼だとしたら、人物描写に奥深さがないのは決して欠点ではない。芸術はケミストリーで生まれるということを描くとき、そこに登場人物たちの友情や絆を重ねるのはうまいやり方だ。前者だけでは知的すぎるが、後者を重ねることで、観客が率直に感動できるドラマが生まれる。
満を持してのクライマックス、大観衆の前で歌われる「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」では、金のことしか考えず、フレディを堕落させようとした人々は敗者であり、仲間を大切にする人こそが勝者であるというモチーフが映像で強調される。音楽を生み出す仲間とのケミストリーを、人間ドラマの寓話で表現したシーンだが、この人間ドラマの寓話の部分を安っぽいとか浅はかとか言ってはいけない。これは寓話なんである。音楽を生み出すケミストリーに人間ドラマの寓話を重ね、音楽の高まりとともに観客を感動させる手段なのだ。
もう一度言おう。この映画は、音楽家の苦悩や葛藤が音楽を生み出すという見方をしない。かわりに、天才と仲間たちとのケミストリーが音楽を生み出し、それが観客によって受容されたときに音楽が完成するという見方をとり、それをみごとに表現している。
クイーンの音楽について、その見方は正しいのかどうか、それは私にはわからない。ただ、音楽を描いた映画として出色の出来栄えだということは断言したい。
クイーンについては有名な曲を知っているくらいで、フレディ・マーキュリーの名前はさすがに知っていたが、バンド自体についてはまったく知らず、まったくといっていいほど予備知識なしに、まさに真っ白な状態で見に行った。
その真っ白な心に焼きついた感動を胸に帰宅したのだが、やはり背景を知りたいと思い、ネットで調べてしまった。
そこで、ブライアン・シンガーがスタッフ・キャストと衝突して監督降板したことを知り、ロッテントマトで批評家は60%という、かろうじて赤いトマトになる数字だと知る(観客は90%と圧倒的な支持)。
そのあたりから自分の目が曇ってしまい、見えていたものが見えなくなっていた。
見た直後に私が感じていたのは、今世紀に入って20世紀後半のアーティストの伝記映画が次々と作られているけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」はその中でも出色の出来だということだった。
もちろん、今世紀に入って次々と作られる音楽映画が、そこそこいい映画ではあるけれど、そんなにすごい、奥深い傑作というわけではなく、その中で出色の出来といっても、別にすごい芸術というわけではないのだが、それでもこの映画は頭ひとつ抜きんでた傑作だという思いは強かった。
そのわけは、この映画が、音楽が生まれることをテーマにしているからだ。
フレディ・マーキュリーの伝記ではあるが、フレディの人生の葛藤や苦悩を前面に出した映画ではない。
さらに言うと、この映画は、音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれる、というテーマを採用していない。
音楽家の苦悩や葛藤からすばらしい音楽が生まれるというのは人気のあるモチーフである。ベートーヴェンはそのモチーフで描かれることが多い。しかし、モーツアルトはしょうもないひどいやつで、ふざけたことばかりしていたけれど、それでも美しい音楽を苦もなく書き上げた。一方、サリエリはどんなに苦悩したってたいした曲は書けなかったのだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」の音楽は、天才の苦悩や葛藤から生まれるのではない。それは、仲間との協力によって生まれるのだ。天才と彼をとりまく仲間との間のケミストリーが、すばらしい傑作を生み出すのだ。
そう、この映画は音楽におけるケミストリーをテーマにしているのであり、そのケミストリーは音楽を受容する観客にまでつながるものだ。
私にこの映画に興味を持たせた予告編、中でも猫がピアノの鍵盤の上を歩くシーンは、映画のはじめの方に登場する。まだ無名のフレディがガールフレンドとベッドに寝ていて、彼らの頭の斜め上にピアノの鍵盤があるのだ。そこを猫が歩く。(追記 再見したところ、猫が鍵盤を歩くシーンはこのシーンではなく、そのの少しあとに出てくる。)
弦楽器や管楽器はまともな音を出すまでが大変だが、ピアノは猫が歩いても音が出る、とはよく言われる言葉。しかし、猫が歩いて出る音を音楽とは呼ばない。
音楽はどのようにして生まれるのか。あるいは、クイーンの音楽はどのようにして生まれたのか。
映画はそれを実に巧妙に描いている。
タイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」は、題名からしてクラシックを連想させる。ラプソディはクラシックの曲の1種であるし、ボヘミアンはプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を連想させる。ボエームはボヘミアンのことで、芸術家の意味だ。フレディはオペラをよく聞いていて、この曲はロックでオペラをやろうとしたものだが、6分もあるからラジオでかけてもらえないとか、歌詞が意味不明とかさんざん言われる。発売されるが、批評家からは評価されていないことがわかる字幕が画面に次々と浮かぶ。しかし、芸術家の狂詩曲(ボヘミアン・ラプソディ)はフレディの死後に再評価されたことが最後に告げられる。
白眉は「ウィー・ウィル・ロック・ユー」誕生シーン。メンバーが手拍子足拍子でリズムをとっていると、そこへフレディが現れ、「で、歌は?」と言い、それが「ウィー・ウィル・ロック・ユー」となって、観客も巻き込んでの絶唱となる。天才フレディとメンバーの間のケミストリーが名曲を生み、それが観客によって受容されて、音楽として完成するのだ。
だから後半、金がすべての業界人がフレディにソロになることをすすめ、フレディもその気になって、バンド解散の危機になったとき、そのケミストリーの重要性が浮かび上がる。
フレディはバンドのメンバーとの確執に疲れていて、それでバンドを離れてソロになろうとしていたのだが、どうもうまくいかない。精神的にも肉体的にも疲弊したフレディの目を覚まさせたのは元恋人の女性で、雨の中、立ち尽くすフレディは、自分にとってだいじな人は金目当ての人々ではなく中まであることに気づく。この雨の中の覚醒シーンはこれまでもよく映画などで描かれたシーンで、決して新しさはないのだが、それでも手垢のついた感じはなく、すなおに感動できる。
バンドのメンバーと再会したフレディは言う、「新しいバンドのメンバーは自分の言いなりで意見も何も言わない。でも、きみたちは俺に意見を言ったり不満な顔をした。それでいい曲ができたのだ」と。バンド・メンバーとの切磋琢磨がすぐれた音楽を生み出していた、と彼は悟ったのだ。
この映画は、クイーンの音楽が1人の天才だけによって作られたという見方はしていない。フレディは天才であり、レジェンドだが、音楽は神のような天才1人によって作られるのではない、というのがこの映画の見方である。だから、名曲が生まれるときにバンド・メンバーの関与があったとするシーンが、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」以外の曲でも描かれる。
このような見方は、フレディ・マーキュリーの才能を過小評価することになるのだろうか? そういう見方もあるだろう。
しかし、音楽や映画のような芸術は1人の人間によって作られるのではない。そして、音楽も映画も、最終的には観客の受容によって完成する。この映画はフレディの才能とバンドのケミストリーによって音楽が誕生し、そして観客に受容されるまでを描いている。そこまで行って初めて音楽は完成するのだということを。クライマックスの大観衆の熱狂はまさにそれを描いている。
この映画は当初、デクスター・フレッチャーが監督する予定だったが、ブライアン・シンガーが監督になり、3分の2ほど撮影したところでシンガーが降板、その後はフレッチャーが監督して映画を仕上げたのだという。シンガーだったらもっとシリアスで奥深い傑作にできたかもしれないが、上に書いたようなバンドのケミストリーによって音楽が生まれ、そこにフレディをめぐる人々の人間模様がかぶさるというモチーフはシンガーには合わなかったのだろう。おそらくこのモチーフは映画の肝であって、あとを継いだフレッチャーはこのモチーフに従って映画をまとめたのではないかと思う。
クレジットはシンガーになっているが、シンガーの映画とは言えないのかもしれない。
でも、と私は思う。
「風と共に去りぬ」には3人の監督がいた。ジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミング、サム・ウッド。キューカーがまず監督し、それをフレミングが受け継いで全体をまとめ、最後にウッドが補った、という感じらしいのだが、実は同じ年に同じMGMで作られた「オズの魔法使」もジョージ・キューカーがまず監督し、それからフレミングが受け継いだのだそうだ。どちらもフレミングがクレジットされているが、「オズの魔法使」DVDの特典映像によると、当時のハリウッドでは監督は1本の映画に専念せずに次から次へとプロジェクトを移っていくのは普通だったらしい。「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」のようなビッグバジェットの娯楽映画は、作家性を主張しないフレミングのような監督の方が全体をまとめるには合っていたのだろう。神のような1人の監督が支配する作家の映画ではないからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」も、作家性の強い神のような監督が支配するタイプの映画ではない。しかし、「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」がキューカーのような名匠の手によって土台作りをされたことで格調の高さも手に入れたのだとしたら、「ボヘミアン・ラプソディ」もシンガーの参加で映像的なすばらしさを手に入れているのかもしれない。この映画には間の抜けた映像が見当たらないのだ。
いさかいがあっても、最終的には多くの人のケミストリーで出来上がる傑作というものがあって、「ボヘミアン・ラプソディ」という映画自体もそうした作品かもしれない。そして、それは、クイーンの音楽のケミストリーという映画のテーマにぴったりと合うのだ。
音楽が生まれ育ち、観客に受容されることを描くのが主眼だとしたら、人物描写に奥深さがないのは決して欠点ではない。芸術はケミストリーで生まれるということを描くとき、そこに登場人物たちの友情や絆を重ねるのはうまいやり方だ。前者だけでは知的すぎるが、後者を重ねることで、観客が率直に感動できるドラマが生まれる。
満を持してのクライマックス、大観衆の前で歌われる「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」では、金のことしか考えず、フレディを堕落させようとした人々は敗者であり、仲間を大切にする人こそが勝者であるというモチーフが映像で強調される。音楽を生み出す仲間とのケミストリーを、人間ドラマの寓話で表現したシーンだが、この人間ドラマの寓話の部分を安っぽいとか浅はかとか言ってはいけない。これは寓話なんである。音楽を生み出すケミストリーに人間ドラマの寓話を重ね、音楽の高まりとともに観客を感動させる手段なのだ。
もう一度言おう。この映画は、音楽家の苦悩や葛藤が音楽を生み出すという見方をしない。かわりに、天才と仲間たちとのケミストリーが音楽を生み出し、それが観客によって受容されたときに音楽が完成するという見方をとり、それをみごとに表現している。
クイーンの音楽について、その見方は正しいのかどうか、それは私にはわからない。ただ、音楽を描いた映画として出色の出来栄えだということは断言したい。
2018年11月13日火曜日
最近見た映画から:「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を中心に
この記事は「「ボヘミアン・ラプソディ」&「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」」というタイトルで書いたものですが、どちらの映画についても自分の言いたいことが十分に書かれていないことに気づきました。そこで、「ボヘミアン・ラプソディ」については別の記事に改めて書くこととし、この記事では「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」について後半を大幅に加筆しました。他の部分もリライトしています。
土曜日に日本橋まで「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った。
クイーンは歌は知っているけれど、メンバーのこととか全然知らない。なのに、映画が断然見たくなったのは、猫がピアノの鍵盤の上を歩くあの予告編のためだった。
フレディ・マーキュリーが猫好きだなんて全然知らなかったのだが、あの予告編は猫好きに刺さる。対して、「旅猫リポート」は、もう、まったく猫好きに刺さらない予告編で、まあ、試写状来たので、映画は見ましたが、猫より子役がよかった。
で、「ボヘミアン・ラプソディ」。本来なら、シネコンの新作は金曜日の初日に見るのが常なのだけれど、今回は金曜日にコリン・ファースの新作「喜望峰の風に乗せて」の試写があったので、土曜日にまわしたのだ。「喜望峰~」はなかなかちょっと微妙な感想が浮かぶ映画で、それの前にやはり試写で見た「未来を乗り換えた男」が今、原作を読んでいるところなので、この試写2本はあとでまとめて書くつもり。
「ボヘミアン・ラプソディ」は日本橋のTOHOシネマズだとスクリーンが大きくて映像がクリアーなTCXなので、ここで見ることに決めた。日本橋ではドルビーアトモスでも上映されていて、こちらの方が人気だったが、映画を見てみると音楽がすばらしいので、割増料金でもドルビーアトモスで見たい人が多いのもわかる。
土曜日ということで、予約したときはさすがに座席がかなり埋まっていたが、それでも好みの席がぽつんと1つ空いていて、そこを予約。行ってみると、両隣がシニア夫婦で、ほかにも白髪の人が目立つ。クイーンはシニアの同世代だったのだ。
映画ですが、とても気に入りました。
ふだんはここで見ると、銀座線の三越前駅から地下鉄に乗るのだが、しばらく余韻にひたりたくて、神田駅まで歩いてしまった(たいした距離ではないけど)。こんなことは久しぶり。
もともとクイーンの曲はアイスホッケーのアリーナでよくかかっていたこともあって、わりと好きだったのだが、この映画を見て、ますます好きになった。
監督のブライアン・シンガーがスタッフ、キャストと衝突して途中降板とか、ロッテントマトでの評価が批評家は賛否両論、観客は大絶賛とか、いろいろ微妙な映画ではあるのだけれど、それがどうした、と言いたくなるような作品なのだ。
というわけで、この映画については別の記事で詳しく。
そして、月曜日は、仕事帰りにレイトで「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を見る。セクシーズとは両性、つまり男と女のことで、1970年代のテニス界の男と女のバトルを描く。
最近もテニス界の男女差別が話題になったが、当時は賞金が男は女の8倍。人気は同じなのに許せない、と、女子チャンピオンのビリー・ジーン・キングが反発。それに対し、元チャンピオンのボビー・リッグスが男女対抗試合を持ちかけた、という実話の映画化。
映画は公然と女性差別をするテニス界の男たちに対し、キングが男女平等を掲げて戦いを挑む姿を中心に描いている。キングが55歳のリッグスをコートで打ち破るクライマックスには、ヒラリー・クリントンの大統領選勝利というかなわなかった夢が託されているようにも感じた。
それと同時に、夫のいるキングが女性にひかれてしまう様子が描かれていて、このあたりが「ボヘミアン・ラプソディ」の女性の恋人がいながら男性にひかれてしまうフレディ・マーキュリーと似ていて、しかも、どちらも異性のパートナーがいい人なのである(実際にそうだったらしい)。
ただ、フレディは女性の元恋人に心の友を求めていたが、キングはテニスがすべてで、夫も女性の恋人もテニスの次、という感じで、2人もそれを理解している。男性は仕事のためにパートナーが必要で、女性は仕事のときはパートナーを忘れる、みたいなのはうーん、やっぱり男女に対する偏見かなあ、という感じも。
リッグスはキングを破ったマーガレット・コートと先に試合をしていて、このときはコートはまるでだめだったのだが、それを見てキングが奮起、リッグスの挑戦を受ける。で、このコートが夫と赤ん坊のいるいかにも女性らしい女性で、それに対し、キングは男っぽい女性として描かれているが、こういう女性観もちょっと問題があるかもしれない。
キングは自分が同性愛者であることを自覚し、その後はLGBTQの権利のための活動をしているが、最近、マーガレット・コートがLGBTQを差別する発言をしているとしてキングが反発したというニュースがあったが、どうも因縁のある2人のようだ。
ただ、上に書いたような、今なら問題あるかも、と思う女性観、男性観は、1970年代当時では普通だったし、そうした女性観、男性観の根底に男女差別があって、その中でキングのような人々が平等を主張してきたことは事実。
たとえば、この映画に描かれる女性差別発言を公の場で平気でする人々。今なら公の場で著名な人や地位のある人がそういう発言をすれば叩かれるが、当時は叩かれなかったという事実(日本ではいまだに叩かれない人もいるが)。キングとリッグスの試合の中継で、女性差別を公然としているテニス界の重鎮を中継からはずせとキングが主張するシーンでは、キングはその男に向かって、「リッグスは女性差別を煽っているが、心底差別主義者というわけではない。でもあなたは、上品にふるまっているけれど、言葉の端々に差別がある根っからの差別主義者だ」と言う。男は結局「自分のせいで負けたとキングに言われたくないから」という理由で中継を降板、かわりに女子テニス選手が解説で登場。だが、そばにいる聞き役の男は終始、彼女の肩に手をかけている。今なら完全にセクハラだし、また、これは男が女より上だということを露骨に示す行為でもある。だが、当時は男はこういうことをしても、それが当然だと思われていたということ。
おかしなことばかりやっているリッグスの煽るのが目的の女性差別と、日常的に行われ、しかも多くの人は差別ともセクハラとも思っていないことの両方が描かれるが、本当に問題なのは後者だということを映画は描いている。
キングが、あなたはフェミニストかと聞かれて、違う、と答えるシーンがある。ここではウーマン・リブ、あるいはリブという言葉が何度も使われている。フェミニズムとかフェミニストとかいう言葉にどこか違和感を感じていた私は非常に納得した。
映画は女性差別との闘いだけでなく、同性愛への差別と偏見も描き(「ボヘミアン・ラプソディ」同様、あまり深くは追究しないが)、女性の地位向上とともにLGBTQが普通に存在できる社会ができることを願う男性デザイナーの言葉で締めくくられる。キングはその後、同性愛者として生き、この2つの実現のために尽力することになる。
全体的にやや冗漫な構成で、「ボルグ/マッケンロー」の方が求心力があってうまい演出だったと思うし、脇役がビル・プルマンなど有名どころが出ているのに、いまひとつキャラが立っていないのが惜しい。ただ、主役のエマ・ストーンとスティーヴ・カレルの名演は光る。
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