2010年11月2日火曜日

試写の帰りに本を買う

 難民問題を扱ったフランス映画の試写を見たあと、某所で「鷺と雪」を買い、そのままカフェ・ベローチェに直行、閉店までに読み終わった。
 「街の灯」、「玻璃の天」に続く北村薫のベッキーさんシリーズ3冊目にして最終章。うーん、やっぱりこれは「ベルばら」だわ(10月28日に書いた「近況」の一番下の部分を参照)。
 その「近況」で、ベッキーさんは「ベルばら」のオスカルとアンドレを合わせたもの、そして、ヒロインの英子にもオスカルの要素が入っている、と書きましたが、最終巻「鷺と雪」でそれはかなりはっきりします。「ベルばら」のオスカルがアンドレらによって、貧しい庶民の実態を知るように、英子とベッキーさんは「鷺と雪」の最初の短編「不在の父」で、いわゆるルンペン、最下層の人々を知る。そして、次の短編「獅子と地下鉄」では、英子が庶民の世界へ1人で出かけていって恐ろしい目にあいます。その一方で、革命家と結婚する「ベルばら」のロザリーのような女性も登場。しかし、時代はフランス革命ではなく、日本の暗い未来へと突入していく、というのが3冊全体を通したモチーフであるのですが、最後を飾る「鷺と雪」ではドッペルゲンガーがテーマ。とはいっても、これは幻想文学ではないので、リアルな説明がついているけれど、それとは別に、英子とベッキーさんの関係は、私がどちらもオスカルが入っていると書いたとおりの関係に思えます。英子に「あなたは何でもできる」と言われたベッキーさんが、「いや、自分は何もできないのだ」と答え、「なんでもできるのはあなただ」と英子に言うとき、オスカルが2人の人物に分かれていると感じたのは正しかったと思うのです。
 「鷺と雪」はそのあと、美しくも悲痛な結末を迎えます。能の鷺の舞を男と女が踊る夢の世界と、そのあとに来る結末は、悲痛であればあるほど美しく、美しくあればあるほど悲痛だと感じさせるものです。文学や映画の引用が衒学的でうるさいと感じる人もいるかもしれませんが、これらは小説の背景のさまざまな時代考証と切り離せないもので、こうした精緻な小説世界の構築の中に、人の心を動かすエピソードや人物の感情をちりばめ、そして、悲痛な結末へとたどりつく、その構成のみごとさは、一読に値するものです。
 なお、試写で見た映画の話はまたのちほど。