2010年12月8日水曜日

東京都青少年健全育成条例その後

 例の、東京都青少年健全育成条例は、どうやら可決されてしまいそうです。なんたって、民主党が賛成にまわりそうな雲行き。
 しかし、反対派は可決されたからってあきらめないはずだし、あきらめる理由なんか何もないわけです。
 今週は「週刊朝日」、「週刊プレイボーイ」、「週刊金曜日」に相次いで、この問題が取り上げられました。本当に、いい加減で、しょうもない条例だと思います。
 それに加えて、石原都知事の、再三の同性愛差別発言て、どうなんでしょうか。テレビで放送されたり、ネットでニュースとして流れたりしているのですが、都知事の問題発言はもう、ボケかましだ、ほっとけって感じなのか。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html
(追記 石原都知事のホモフォビア発言は、英語に翻訳され、世界中に流れています。ishihara shintaro homosexualでぐぐってみればわかります。)

 それはともかく、この条例に関しては、ネットでさまざまな意見が書かれていますが、私が一番共感したのは、内田樹氏の次のツイッターです。

東京都の条例について、共同通信に1100字の原稿を書きました。新聞記事としてはずいぶん長いですね。前にブログに書いたことと同じですけれど、他人の表現について「これはよいが、これはダメ」というようなことを統計的に何の根拠もないまま、政治家たちが主観的な印象に基づいて決定し、強権的に表現を規制できるという政治的「事実そのもの」が、社会を非寛容で攻撃的なものにすることは間違いありません。それによって「他者や異物に対して非寛容で攻撃的な子どもたち」を組織的に生み出すことによる災厄の責任は誰が取るのでしょう?

 一方、ネットでは、反対派の中にも、規制は必要だ、見たくないものを見ない権利もある、みたいな主張もあります。あるいは、有害な表現とそうでない表現がある、とか。
 上の内田氏は、ブログで、「有害な表現は存在しない。表現が有害な影響を与えたと証明されたことはない」と主張しています。
 この主張には賛否あるでしょうが、多くの人にとって、見たくない表現、有害な表現というのは、本当は、その人にとって、「不快な表現」なのではないかと思うのです。
 蛇が大嫌いなので、蛇が出てくる映画は見られない、とか、レイプシーンがあるといやだとか、同性愛は嫌いだとか。
 同性愛を差別すべきではない、と思っている人でも、自分の中の「同性愛がイヤだ」という気持ちは消せない人もいます。
 今回のように、小説や映画は問題にされず、マンガやアニメばかりが問題にされるという背景には、おそらく、リアリズムから極端にはずれているマンガやアニメに対する不快感があります。言ってみれば、非実在フォビアみたいなものです。リアリズムから離れたものを不快に思うという傾向は、確かにあると思います。
 問題は、自分が不快に思い、見たくない表現のことを、有害と称してしまうことです。
 人は少数派や異質なものに不快感を持ちます。これは人間の防衛本能でもあるので、完全に消すのはたぶん無理。理性で対応するしかない(同性愛が嫌いでも、存在は認め、差別しない、など)。
 PTAに所属するある女性が、都職員が開いた条例の説明会で見せられたエロ本が、どう見てもコンビニや一般書店で売られているものではないと感じ、その後、コンビニや書店をまわってみたけれど、やはり売られていない、つまり、都職員は、コンビニでは売ることができないエロ本を持ってきて、こういうのがコンビニで売られているというように説明したのだとわかって、そのことを他の人々に伝え、しだいに他の人も彼女の意見、この条例がおかしいという意見に同意するようになった、ということをブログで書いていました。この女性の努力にはとても頭が下がるのですが、その一方で、彼女は、民主党は夫婦別姓を押し付けようとしているから本来は支持していない政党だ、とも書いています。
 夫婦別姓は、別姓を望む人だけが選べばいいもので、同姓を選びたい人(おそらく大多数はこちら)は同姓を選べます。しかし、夫婦別姓が認められたら、同姓がいい人も別姓にしなければならなくなる、と考えて反対している人が少なくないです。
 なぜ、マジョリティである同姓主義者は、マイノリティである別姓を希望する人を恐れるのでしょう。例の「シングルマン」で、主人公が大学の講義でマイノリティの問題について学生に話す中で、こんなことを言います。「マイノリティはマジョリティにとって脅威になったときだけ、マイノリティとなる。もしも、このマイノリティが一夜にしてマジョリティになったら、彼らは何をするだろうか」
 夫婦別姓を認めたら、夫婦別姓がマジョリティになる、ということを反対する人は恐れているのです。同性愛についても、同性愛がマジョリティになることの恐れが差別の背景にあるのでしょう。実際は、別姓や同性愛がマジョリティになることなどありえないと思うのですが。
(なお、上記、PTAの女性がとった行動は尊敬に値する行動なので、別姓論議とは別に、大いに評価しています。)
 自分の嫌いな表現、不快な表現を認めると、嫌いなもの、不快なものがマジョリティになってしまうという恐怖が、こうした問題の背景にあるのだと思います。「シングルマン」の原作者、クリストファー・イシャウッドの半世紀前の指摘は実に名言です。

 と書いてきたところで、「子供に見せたくないという話なんだよ」という声が聞こえてきそうですが、まず、今回の条例では、一口に子供と言っても、赤ん坊から17歳の高校生や社会人まで子供なんで、そこがまず問題。
 次に、子供に見せたくないもの、がどういう基準で決められるのかそこが問題。
 その基準を決める大人の考えが、実は、有害な表現=不快な表現であって、その不快さが存在するのがイヤだから完全排除、みたいな基準であったとしたら、それはまさに、内田氏の言う、「他者や異物に対して非寛容で攻撃的な社会になり、その結果、他者や異物に対して非寛容で攻撃的な子供たちを生み出す」ことになるのだと思うのです。特に、婚姻は禁じられているが法律違反ではない近親相姦と、表には出てこないが同じ条件の同性愛の部分に、非常な危機感を感じます。「表現の自由」とか「表現の美学」などは、「他者や異物に対する不寛容と攻撃につながる教育の問題」に比べたら、二の次、三の次でしょう。