カズオ・イシグロのベストセラー小説「わたしを離さないで」の映画化の試写を見に行きました。
原作を読んだとき、これは映画化は絶対うまく行かないだろうと思いましたが、残念ながら、予想どおりの結果に。
「わたしを離さないで」は「日の名残り」と同じく、世間から隔絶された状態にいる主人公が、その事実を認識しないまま、過去を振り返るというスタイルをとっています。主人公はどちらも狭い世界しか知らず、その限られた知識と思考の中で自分の物語を語るという形になっています。
しかし、映画は外からの描写になるので、限られた知識と思考しか持たない主人公を外から描くことになります。そのため、主人公の一人称に感情移入しながら読む小説に比べ、映画では主人公を内面から描くことには限界があり、主人公は客観的に見られるようになります。
ジェームズ・アイヴォリーが映画化した「日の名残り」にもその傾向は大いにあったのですが、アイヴォリーは原作の中のE・M・フォースター的な要素を引き出すことで、「眺めのいい部屋」、「モーリス」、「ハワーズ・エンド」に連なる作品として成功させることができたのです。
しかし、「わたしを離さないで」(マーク・ロマネク監督、アレックス・ガーランド脚本)にはそうしたとっかかりがないため、ヒロイン、キャシーの内側から見た物語を、そのまま、外側から見た物語に変えただけになっています。
原作はキャシーのトミーに対するせつない恋愛感情が全体の中心になっていて、その哀しみが主人公たちの人生の哀しみに重なり、失くしたものが戻ってくるというゴミ捨て場のラストでせつなさがクライマックスに達していました。しかし、映画はゴミ捨て場を始め、原作の重要なシーンをあえて切捨てていますし、また、外側から描くということからか、キャシーの恋愛感情にすべてを集約させることもやめているように思えます。
そんなわけで、原作に比べるとあまり感動できないし、原作のダイジェストのような感は否めないのですが、外側から描いたことで非常によくわかるようになったことはあります。
それは、キャシーやトミー、ルースといった、ある目的のために生み出された提供者と呼ばれる人々が、どうして運命に逆らおうとしないのか、という疑問の答えがはっきりするということです。
彼らは普通の人間の持つ自我がない、あるいは、自我が確立されていないということがわかるシーンが何度も出てきます。大人になっても、彼らの精神状態は未熟です。彼らが運命に逆らおうとしないのは、運命に逆らうだけの自我がない、知識もないし、そういうことができるような発達をしていない。隔離されていた子供時代には外界から切り離され、普通の子供が受けるような教育を受けず、また、普通の子供のような成長もない。彼らは成長する必要のない人間だから。唯一、トミーだけが、怒りというものを時々爆発させることができるけれども、その怒りは大声で叫ぶとか、その程度のもの。何かの原動力になるような怒りではない。ましてや、トミー以外の人々は、運命を受け入れること以外、何も考えることができない。
もしも彼らが普通の人間だったら、これは恐ろしい話です。人間をそういう無力な人に育ててしまう恐怖を感じるでしょう。しかし、この物語では、彼らは、石原都知事の差別発言じゃありませんが(下の記事参照)、彼らは人間になるには何かが足りないのです。それは自我かもしれない(たとえば、レストランで人と違うものを注文できるとか)、未知の世界に対する知識欲かもしれない、自ら調べ、自ら考え、自ら行動する力かもしれない。そうした、人間の成長に期待されるものを、彼らは獲得できないまま一生を終える。それは彼らを教育した人々のせいだとは必ずしも言えない。彼らにはもともと、こういうことについて、限界があるのだと思わせる。
もしも、彼らが知的障害者として描かれたら、これまた恐ろしいことです。臓器移植を認めることに反対する意見の中には、知的障害者が利用されることを恐れる意見がありました。もちろん、この映画はそういう方向には向かいませんが。
たぶん、上に書いたようなことは、原作の中にもあったことなのでしょう。翻訳の文章があまりにも流麗なので、キャシーの恋愛感情があまりにもせつないので、そのことに気づかなかったのかもしれない。でも、イシグロがスタッフに加わっているこの映画化では、上に書いたような問題を積極的に提議しようとしてはいません。もしも積極的に問題提議していたら、この映画は原作とは違う面白さを獲得したかもしれませんが、実際は、未発達な彼らは自分が未発達だということを知ることもなく、人間はいずれは死を受け入れなければならないのだという妙な諦観で映画は終わるのです。
それでも、上のようなことが前面に出てきたことは評価していいでしょうが、原作を読まずに映画だけ見ると、誤解を生みそうな気がします。