クリスマスイヴの六本木なんて行くものじゃないが(人大杉)、話題の映画「英国王のスピーチ」の試写会があったので行ってきた。
「シングルマン」で初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたコリン・ファースが、エリザベス二世女王の父であるジョージ六世に扮して、またまた各賞にノミネートされている話題作。幼い頃から吃音に悩む王を支える妻にヘレナ・ボナム・カーター、王の吃音を治すオーストラリア人にジェフリー・ラッシュ、王冠よりも愛を選んで退位するジョージ六世の兄、エドワード八世にガイ・ピアース、兄弟の父ジョージ五世にマイケル・ガンボン、その妻にクレア・ブルーム、チャーチルにティモシー・スモール、大主教にデレク・ジャコビ、と、豪華共演陣。兄の退位により、思いがけず王になってしまった主人公が、吃音を治す専門家と葛藤しながら、困難を克服して王にふさわしい人物になっていく過程と、その2人の友情が描かれる。
左利きというマイノリティとして生まれ、その左利きとX脚を幼い頃に無理やり矯正され、乳母からは虐待を受けていたジョージ六世ことアルバート(愛称バーティ)は、その頃から吃音に悩まされるようになる。現代では王族は国民に対して語りかけるのが仕事。父も兄もスピーチがうまいのに、彼は吃音のため、スピーチができない。王室に出入する医者も役に立たず、思いあまった妻が新聞で見つけた町の専門家のところへ夫を連れていく。
このとき、アルバートはまだ国王にはなっていなかったのだが、それでも国王の次男夫妻がこっそり、お供も連れずにうらぶれた町の診療所に行くのである。なんとなく殺風景でがらんとした診療室で、オーストラリア人の言語聴覚士ローグは、お互いに愛称で呼び合うことを要求し、アルバートと対等の立場で治療にあたろうとする。当然、アルバートは反発。しかし、アルバートのトラウマをときほぐし、効果的な治療をするローグと、アルバートは何度もけんかしながら、しだいに友情を築いていく。
対立した2人の人物が、けんかしながらも友情や信頼関係を築いていく、という映画はいくつもあるが、この映画ではコリン・ファースとジェフリー・ラッシュのやりとりが見ものだ。「シングルマン」の抑えた演技とは打って変わって、この映画ではファースは、吃音のためにかんしゃく持ちになってしまった男を演じ、怒りを爆発させたり、大声でわめいたり、卑猥なののしりの言葉を叫んだりする。彼はオーストラリア人の平民であるローグを見下す態度をとる。その一方で、吃音のために深い劣等感を持ち、自分は王にふさわしくないと思う。ファースのこうした浮き沈みの激しい演技をひょうひょうと受け止めるのがローグを演じるラッシュだ。「シャイン」で心に障害を負ったピアニストを演じ、すでにアカデミー賞を受けているラッシュは、ここではファースの動の演技に対する静の演技に徹している。治療する立場のローグは、アルバートに対して、ときには父親のようになり、ときには王の道化のようになる。ローグが王の玉座にちゃっかり座ってしまうシーンは、王の道化としての彼の真骨頂だ。
兄の退位により、ジョージ六世となったアルバートは、ヒトラーの演説のうまさに対抗するためには自分も立派なスピーチをしなければならないと感じる。そのスピーチを作り上げる中で、2人の友情はクライマックスに達する。
不思議なことに、アルバートもローグも妻や子供たちと一緒のシーンではまるで差がない。かたや王家の一家、かたや庶民の一家であるのに、この2つの家族はまるで鏡に映したように似通っている。どちらも、妻は献身的であり、子供たちは素直で、絵に描いたような理想の家族の姿だ。
「シングルマン」では、「ひと月の夏」の繊細なファースが帰ってきたような印象を受けたが、この「英国王のスピーチ」の彼は、これまでの長いキャリアで彼が見せてきた、芸域の広い、演技の幅の広い俳優の集大成のように思う。脇で支えるラッシュとヘレナ・ボナム・カーターもいい。特に、カーターは最近はファンタジー映画の暗い役が多かったので、こういう明るくチャーミングな役が見られたのはうれしい。
と、以上は映画の中心部分について触れたものだけれど、これ以外に、ちょっと気になったことがあった。
1つは、離婚歴のあるシンプソン夫人との結婚のために王冠を捨てるエドワード八世の描写。私の記憶では、王冠よりも愛を選ぶエドワード八世=ウィンザー公は、仕事よりも愛を選んだ男として、美談として語られることが多かったと思う。ところが、この映画では、彼は人妻との恋に血道をあげて、国王としての責任感のない男として描かれているのだ。シンプソン夫人も、玉の輿をねらう、感じの悪い女性になっている。
たぶん、これは、ジョージ六世が国王としての責任を自覚し、困難を乗り越えて王になっていく過程を描く映画なので、王冠よりも愛を選ぶエドワード八世は王としての責任を果たさない男という否定的な描かれ方になってしまうのだろう。
しかし、家系の順番で王になる人が決まる王室の制度なんて、誰が王になったってたいして変わらない面がある。愛する女性が傍らにいなければ王としての責任は果たせない、と言って退位するエドワード八世は、愛する女性がいながら親の意向に従ってダイアナと結婚したチャールズ皇太子よりもはるかに自分に正直であり、自分の人生を自分で選んだ男ではないかと思う。
シドニー・ポラック監督の映画「追憶」は、1936年、エドワード八世が退位し、シンプソン夫人と結婚したちょうどそのときから始まる。この映画のヒロインは、愛する男と納得のいかない人生を送るよりも、自分の生きるべき道を選ぶ。女性が愛よりも生き方を選ぶということをテーマにしたこの映画が、王位よりも愛を選んだ男性のエピソードから始まっているのは象徴的だ。保守的な世間が考える男と女の生き方とは逆の生き方を、エドワード八世とヒロインはしたことになる。
それに比べると、この「英国王のスピーチ」は非常に保守的だ。ジョージ六世の妻もローグの妻も良妻賢母であり、男は仕事に生き、女は夫と子供たちのために生きる。仕事よりも愛を選ぶエドワード八世は否定的に描かれる。この映画は全体としては、面白い、よい映画であるが、こうした保守反動の部分を含むことは肝に銘じておきたい。
もう1つは、この映画を見ていて、昭和天皇の玉音放送が頭をよぎったこと。国民へのスピーチを重要視する英国王室と違い、当時の日本は天皇は現人神なので、国民に直接語りかけることなどなく、天皇はそうした訓練を受けていなかっただろう。昭和天皇は戦後、日本各地をまわり、国民と触れ合ったが、いつも「あ、そう」としか言わないのが印象的だった。玉音放送、すなわち、昭和天皇のスピーチは、英国王のスピーチのような上手なものではなかっただろうが、それでも、メッセージは伝わったのだと思うと、また別の感慨がある。