2014年4月10日木曜日

水曜日の昼下がり

9日水曜日の午後、スタップ細胞の小保方氏が記者会見、ネットとテレビで生中継された。私はニコ生も見れないので、ツイッターでの実況を見ていたが、途中でウェス・アンダーソン監督の新作「グランド・ブダペスト・ホテル」を見に行ったので、あとは帰宅してからネットでニュースや不正追及の人のブログやツイッターを見た。
不正追及の人の中には、お涙頂戴でおわびしまくる(でもスタップ細胞と自分の研究者としての正しさは断固主張)小保方が理研に勝利した、これで理研は法人指定してもらって税金ゲット、小保方を加えてスタップ細胞の研究に励み、日本は世界から取り残され、日本の科学は壊滅状態になる、と嘆いている人がいるのですが、まさかそれはないでしょう。まあ、小保方氏が研究の世界から追い出されても、今回の件での日本の科学界の信用失墜は免れないと思いますが。
確かにネットのニュースでは小保方氏を信じる、と言い出す著名人が紹介されていたり、小保方氏を信じるという人が信じないという人を投票で上回ったりしていますが、ネットの投票なんてものはまず信用できない、というのは他の問題でも同じ。だいたい、こんな投票、する人はどんな人かということを考えた方がいい。自分が真剣に投票したことがあるか考えてみればいい。私も投票したことあるけど、遊びです。
今回の会見でよろめいちゃう人は、最初の割烹着でよろめいた人と同じなわけで、マスコミも最初の割烹着に戻った感じで報道しているニュースもあるけれど、シビアに見ているものもあります。
それに、この会見自体、本当に重要な質問はほとんど出てませんね。所詮はワイドショーなのね。ワイドショー的質問が多い。「スタップ細胞はあります! 200回もできたんです! 私以外の人もできたんです! 証拠? 出せません」という会見なんですが、突っ込みどころがあるのに誰も突っ込まないし、博士論文疑惑に関する質問はするなと言われてたのか、1つもなし。博士号を失ったら、どうやって研究を続けますか、って誰も聞かない。
あと、ツイッターで英語で実況していた人がいたんだけど、この会見、外国人記者が英語で質問とかなかったのだろうか。たぶん、外国ではもう誰もこの問題には関心がなくて、あれはガセと認定していて、だから外国のメディアは来なかったのだろうか。英語で実況しているサイトもあったけど、小保方氏が涙を見せるといっせいにフラッシュがたかれた、と、ワイドショーそのものの報道でした。
舞台になったホテルがエビの偽装のホテルだったそうです。


小保方氏の作戦としては、まず、自分が未熟者であることを認め、反省謝罪する、次に理研の先生たちにも謝罪し、理研や先生たちを決して悪く言わない。自分の実験は成功した、論文の結論自体は正しい、と主張はするが、不備については平謝り。とにかくひたすらすみません、ごめんなさいと言い続けるけど、肝心な真相とかそういうことについては「あるけど言えない」というごまかしと嘘のオンパレードという印象です。
佐村河内氏の場合は、謝罪会見と言いながら、新垣氏を訴えるとか、まるで逆ギレ会見でしたが、小保方氏は未熟者ですみません、すみません、と言い続けて同情を得るという作戦。
小保方氏が逆ギレして理研と全面対決、というのを期待した人たちはあれ?という感じだったかもしれませんが、小保方氏と理研はまだ同じ船に乗っている、と思った私としては、ああ、こういう方法しかないよね、と思いました。理研が言った未熟者という言葉をそのまま使い、理研と先生たちを悪く言わず、理研でスタップ細胞研究続けたいんです、やらせてください、と頼む、という作戦。
現実には小保方氏のねつ造や改ざんや剽窃があまりにひどく、おまけに研究者としても失格だということがわかったので、研究者たちは誰も彼女と組みたいとは思わないでしょう。小保方氏が本当に研究を続けたいなら、富豪のスポンサーを見つけるしかないと思います。


小保方氏が会見したので、ついに隠れている笹井氏も会見するという話が出てきましたが、もちろん会見すべきですが、前の理研の会見といい、素人記者のワイドショー質問しか出ないかもしれないなあ。科学者の会合に彼らが出てきて会見、それをマスコミが取材する、というのが本来のやり方だと思うのだけど。


それと、不正追及をしている人たちのブログとか解説とか、そういうのを読まないで、ワイドショー的な情報だけで発言しているマスコミ人が多い。確かに私も全部読んで理解は無理なむずかしい内容だけど、それでもどういうところが問題になっているのかを把握するくらいはしてから発言すべきだと思うのに、それを全然しないで勝手なことを言っている(特に小保方擁護派)。
以前書いた、似非?文系学者の小保方擁護の記事で批判した2人もそうだけど、なんで彼らは最低限の情報と知識を得ないでものを書くのだろう。2人とも一流国立大出身で、一応博士課程まで行っているのだ。
と思ったところで思い出したのだが、私がまだ若くて、研究論文なるものをしこしこと書いていた頃、私の論文の載る雑誌の他の人の論文にレベルのものすごく低いのがあって、なんというか、腹が立ったことがよくあったのだ。
なんで腹が立ったかというと、そのものすごい低いレベルの論文を書いた人は大学教授になっていたり、大学講師に就職していたりしたが、私はどんなにがんばっても就職できなかったからだ。
何がひどいって、まず、文章として読めない。論文としての形ができてない。あるいは、ほとんどあらすじ(英文学なので)。あるいは、引用ばっかり(出典は明記しているけど、引用をいくつも出して、最後に自分の結論を短く書いて終わり)。
英文学の場合、大部分は大学の英語の教師になるので、しょうがないのかな、研究論文なんてどうでもいいのかな、とそのときは思ったけれど、たぶん、まともな論文が書けない研究者というのは昔から大勢いたのだろう。
一般人の多くは研究とか研究者というものをよく知らない。大学でも学部までだと先生は普通に授業しているところしか見えないし(理系は実験があるので違うかもしれないけど)、研究論文というものに触れる機会も少ない。多くの人は大学を出て会社員や他の仕事に就くので、大学の先生の研究というものに関心を持たない。私が大学院へ行くと周囲の人に言ったとき、大学院へ行って何をするの?とか、英文学って、翻訳家になるの?とか言われたものだ。大学院へ行って英文学の研究をするということがどういうことが、まったく想像できないようだった。多くの人はそういう状態なのであり、それはしかたのないことだと思う。でも、一流国立大の出身で博士課程まで行ったあの2人があんなことを書いているということは、一流大の博士課程まで行っても、研究というものが理解できずに終わった人が多数いるのかもしれない。実際、あの2人は研究とは違う世界へ行ったようで、そのうち1人がその後に教授になったようだから、2人とも、博士課程まで行ったが、本当の研究の世界には触れずに外の世界へ出たのかもしれない。文系では確かにそういうこともある。文系では研究以外、たとえば高校教師になるといった目的で大学院へ行く人もいる。


一般の人が研究というものを知らないということを感じることの1つに、一般の人は新書のような一般向けの本をたくさん出している人が優れた研究者と勘違いしていることがある。しかし、一般向けの新書や書籍、あるいは雑誌の記事などは研究業績とはみなされない。研究業績というのはあくまで研究者たちの世界に対して発表するもので、同じ研究をしている人の役に立つものでなければならず、だから同業者のきびしい目を向けられる。それに対し、一般向けの読み物というのは、研究の世界の成果を一般の人にわかるように書くものだから、研究業績とはまったく別のジャンルのものなのだ。
もちろん、一般向けの読み物にも優れたものがあるけれど、それは研究論文とは違う世界のもの、違う読者を対象としたものなのだ。
だから、研究の世界では、一般向けの読み物はその他の業績となり、主要な業績にはならない。私も研究業績リストのトップに載せるのは英文学の研究論文で、その他の業績に映画評論や翻訳を入れている。
ところが一般の人は、私のリストでたとえていえば、映画評論の数が多いから優れた学者と思ってしまうようなところがある。
最近は社会学系で一般向けの新書をよく出して売れる人もいるが、社会学というのがそもそも研究としてはちと色物系なんで、社会学の新書とかで研究論文を判断してもらったら一番困るんです、ハイ。
とりとめなく書いてしまいましたが、「グランド・ブダペスト・ホテル」は楽しかったです。スターがたくさん出ていて、映像が凝っていて、面白い。こういう映画を見ていると、いっとき、世の中の不正などといった醜いことを忘れることができます。まあ、この映画でも善人がどんどん殺されてしまったりと、不幸のてんこ盛りなんだけど。