2014年5月20日火曜日

なつかしい名前

最近、試写状が全然来なくなったなあ、と思ったら、そういえば、新作映画についての映画評を活字媒体に書かなくなってもう2年がたつ(ネットの書評サイトでは書評に合わせて新作映画について書いた)。今月はキネ旬デビュー30周年なのだが、この2年間、キネ旬から遠ざかっていて、年に1度、旧作について書かせてもらえたくらいなので、うーん、30周年どころじゃないわ、実質28年で終わってるやんけ、と思ったのだった。


試写状に関しては、せっかくいただいても日時の関係で、特に非常勤講師の仕事がある時期は行けないことが多く、それも災いしてそうです。活字媒体には書いていないとはいえ、このブログの映画記事へのアクセスはかなりあるので、見せてくださるところにはある程度は恩返ししているつもりですが。


さて、私のキネ旬デビューのことを少し思い出してみるか(若かったなあ、あの頃)。
それはヒッチコック特集の号で、表紙が和田誠さん。長らくリバイバルもビデオ化もされていなかった「裏窓」、「知りすぎていた男」、「めまい」、「ロープ」、「ハリーの災難」の5本がリバイバル公開されることになり、これらを初めて見る人に書かせよう、と思った編集部が、たまたま私が送った「フランケンシュタイン」解説を読んで、「知りすぎていた男」の映画評を書かせてくれたのです。
もともと中学生の頃はドリス・デイのファンで、「ケセラセラ」も大好きだったので、うれしかったです。
映画は映画館で、ちゃんとお金払って見ましたよ。
次に書いたのが日本映画の「さよなら、ジュピター」で(この私がキネ旬2本目が日本映画だったのだよ)、これも映画館で見たもの。
初めて業務用試写を見て書いたのが、3本目の「グレイストーク」。クリストファー・ランパートの立ち姿がかっこいい、斬新なターザンものでした。当時、京橋にあったワーナーの試写室が、どこかわからなくて、建物は見つかったのだけど、どこから入るのかわからない。なんか、裏口みたいなところから入って、ぎりぎりだったけど、なぜか特等席があいていて、座れたのを思い出します(場所わからなくてあせりまくりだったよ)。
当時の配給会社の試写室は、地味な古いビルの中にあって、関係者でないと入り方自体がわかりにくかったですね。今はおしゃれなところが増えてますが。


そんなわけで、その後はシナリオ採録と映画評論が主な仕事になり、90年3月に編集部の大変化があるまで、キネ旬の世話になってました。
その大変化で編集者数人が去ってしまい、私もキネ旬から遠ざかっていましたが、当時はキネ旬以外の雑誌にも書いていたので、映画評は途切れることなく執筆していました。
特に「エスクアイア」のようなグラビア雑誌に書けたのはよい思い出。
そうこうするうちにキネ旬の編集部も変わってきて、またご縁が生まれ、特に97年から10年かそこらはほんとに好きなことたくさん書かせてもらえました(感謝)。
ただ、その頃からキネ旬以外の雑誌からはお呼びがかからなくなってしまいましたね。ライターは40歳をすぎると徐々に仕事がなくなり、50歳すぎると声がかからなくなる、と聞いたことがありますが、まさにそういう時期でした。
映画評論もフリー評論家から大学教授にシフトしてきたなあ、と思う今日この頃、キネ旬になつかしい名前が。私が大学院にいたときの先輩と後輩が連載を持つようです。研究分野が違っていたので、授業で一緒になることはほとんどありませんでしたが、先輩の方は日本英文学会新人賞を受賞した方。後輩は院生時代に「ブルータス」などで活躍していた方です。