シャノアールの罪な企画に載せられて、2日連続ベローチェへ。
が、その前に図書館に予約してあったジェームズ・ボールドウィンの「ビール・ストリートに口あらば」を含む文学全集を受け取りに近くの分館へ行き、それを読むのも兼ねてベローチェへ。
「ビール・ストリートの恋人たち」の原作「ビール・ストリートに口あらば」を含む集英社「世界の文学」の33巻はバーナード・マラマッドの短編、ソール・ベローの「その日をつかめ」、そしてボールドウィンのこの小説が入っている。訳者はマラマッドが西川正身、ベローが宮本陽吉、ボールドウィンが沼澤洽冶というなつかしい面々。若い頃に読んだなあ、この人たちの翻訳。
「ビール・ストリート」の原作を読んだら、映画の脚色はなかなかみごとであることがわかった。原作は若い黒人女性ティッシュの一人称で、映画もそれを踏襲したつくりになっている。映画同様、原作も恋人ファニーが無実の罪で投獄されている現在と、彼らの過去が交互に出てくるのだが、このあたりは小説の方がやはり自然で奥深い。映画では点景のように見えた他の登場人物は小説でもやはり点景的なのだが、小説の方がティッシュの語りの中で登場するので点景的には感じない。映画では役者が演じているので、点景のようなエピソードのように見え、物足りなさを感じてしまう。
そうはいっても、この小説の映画化としてはよくできた映画であり、黒人を取り巻く現実が現代もあまり変わっていないという点を取り入れた今日性も評価できる。
でも、やっぱり小説ってすごいなあと思ったのは、次のような描写だ。
・・・もしあの目が高い所から、いやおうなしに人を認め、その当人があの目の奥にある途方もなく凍てついた冬の世界に存在することにでもなったら、その人は絶体絶命にマークされてしまうのだ。黒いオーバーを着た人が、雪の上を這って逃げているようなもの。あの目は冬景色を汚す存在として、その人を不快に思う。じきに黒いオーバーは動かなくなり、血に染まる。雪も血で赤くなる。あの目はその光景自体をも不快に思い、一瞬きすると、もっと雪を降らせ、すべてをすっぽりと隠してしまう。
これはファニーに無実の罪を着せた白人のベル巡査についての描写。白と黒のたとえがみごと。映画ではこのベル巡査の描写がどうにも不十分で不満だったが、ボールドウィンの文章はすばらしい。映画、完全に負けてます。
それでもバリー・ジェンキンズの「ビール・ストリートの恋人たち」はうまい脚色で、原作を読みながら、昨年、試写で見た「未来を乗り換えた男」の場合と比べたくなった。
ドイツ映画「未来を乗り換えた男」はかなり評判のよい映画なのだが、私はどうも不満を感じ、すぐに図書館を利用して原作のアンナ・ゼーガースの「トランジット」を読んだ。これも古い文学全集に入っていたのを図書館で検索して見つけ、借りて読んだもの。
ナチスドイツの迫害を逃れようとする亡命者たちを描く原作を現代に置き換え、またまたドイツが侵略を始め、人々が難民となって逃れようとしているという設定になっている。
原作は主人公の亡命者の男の一人称で書かれていて、映画では最後にわかる衝撃の結末が、小説の冒頭でネタバレされてしまっている。
つまり、この小説も主人公の語りで読ませる作品なのだが、一人称を生かした「ビール・ストリート」と違い、こちらは主人公による一人称的語りを捨て、主人公を見守るある人物の語りで話を進めている。
プレスシートによると、監督のクリスティアン・ペッツオルトはキューブリックの「バリー・リンドン」のナレーションを参考にしたというが、「バリー・リンドン」のナレーションは原作者サッカレーの代表作「虚栄の市」の有名な全能の語り手をそのまま使ったもので(「バリー・リンドン」原作は主人公の一人称)、「未来を乗り換えた男」のナレーションとは本質的に異なるものだ。「未来~」のナレーションはむしろ「ミリオンダラー・ベイビー」に近い。
そして、「バリー・リンドン」や「ミリオンダラー・ベイビー」はナレーションが成功しているが、「未来~」ではこの傍観者的人物によるナレーションが成功していない。むしろ、邪魔であると私は感じた。
原作の主人公の一人称的表現をやめ、三人称の視点で主人公たちを描くこと自体は原作とは違うアプローチでよいのだが、あのナレーションが余計としか思えず、そこが残念な出来栄えと感じてしまったのである。
さて、ベローチェでもらったクリアファイルはこれでした。
例によって、写真は公式サイトから。
昨日アップした写真が1番欲しかったのだけど、2番目に欲しかったのがこれ。
しかし、ドリンク2杯でくれちゃうなんて。「ねことじいちゃん」とコラボしているので、映画会社からお金が出ているのだろうか? 数はふちねこと同じくらいみたいなので、なくなるのが早いかもしれない。