午前十時の映画祭の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。TOHO錦糸町に行こうかと思っていたけれど結局行かず、今日からのTOHO市川へ行ってきました。
実はそのあとTOHO錦糸町へも行ったのです。今日から始まる「女王陛下のお気に入り」を見るために。市川でもやっているのですが、開始が午後2時半。「ワンス~」終了が2時半で、予告の時間に移動はできるものの、「ワンス~」の余韻も冷めぬうちに「聖なる鹿殺し」の監督の変な映画を見たくない、と思い、探した結果、錦糸町だと約1時間半後に開始とわかり、移動を決意。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」ディレクターズカットは本当に至福の時間でした。完全版を試写で2回見たのが1984年、カットされた日本公開版は日劇には見に行かず、レーザーディスクを買って見ていましたが、その後、昔の文芸坐で上映があり、2回見に行きました。いつごろだったのだろう。たぶんその文芸坐での上映が日本で最後の上映だったのではないかと思いますが、まさにそれ以来の、しかも完全版より長いディレクターズカット。堪能しました。
いやもう、最初の方の、店の中のファットモーの姿を外から撮っていて、それからカメラが移動して電話ボックスのヌードルスを映し出す、あそこでまず泣きそうになります。
それから、一番年下の幼い少年が殺されてしまうところ。仲間たちが稼いだお金をカバンに入れて、その上に手を重ねたあと、「もう一回見ていい?」と言う。いやもう、かわいい。その幼い少年が、ギャングに殺されてしまう。ヌードルスの怒りも当然なわけですが、ヌードルスはギャングを殺しただけでなく、警官も刺してしまったので、刑期が長くなったのですね。おそらく10年以上刑務所にいて、出てきたときはまわりがすっかり変わっていた。そして禁酒法時代の終わりに起こった事件のせいで、35年間の逃亡と隠遁生活。ヌードルスの失った時間の長さにがくぜんとします。娑婆で自分自身として暮らせていた時間はわずかだったのだと。
だから、この映画がヌードルスの見た夢だという解釈は、彼が夢を見るしかなかった時間の長さのことなのかもしれない。
復元されたヌードルスがイヴと出会うシーンから休憩前の駅のシーンも泣けます。復元シーンで、イヴをデボラと呼んで抱こうとしたヌードルスが抱かずに寝てしまい、イヴがそんな彼に好意を感じるシーン。そのあと、デボラに完全に嫌われたと思ったヌードルスがデボラをあきらめ、イヴと恋人になるのも、復元シーンがあると非常に説得力がある。
この休憩が開始から2時間55分後なので、その前の謎のフリスビーの少し前あたりでトイレに立つ人が少しいますね。休憩もみんなぞろぞろとトイレへ。私は5時間くらいは平気なのですが、おなかがすいてしまい、バッグの中にあった小さいお菓子を食べていました。
後半ではヌードルスがデボラの楽屋を訪れるシーン。ここでデボラのテーマであるアマポーラとヌードルスのテーマである主題曲が交互に流れ、絶妙な音楽効果。そのあとの復元されたマックスとジミーのシーンもすばらしく、ジェームズ・ウッズとトリート・ウィリアムズの演技がみごと。ウッズはデ・ニーロとの次のシーンだとあまりいい演技に見えないけれど、この復元されたシーンでの演技はすばらしい。
そして、老いたヌードルスとマックスが再会するシーンで、少年時代の回想シーンが出るあたりからまた泣けてしまうのです。
あともう1回は見たい。朝起きられさえすれば何度でも見られるのに。
(追記 クリームケーキの少年について勘違いしていたので、そこを削除しました。)
TOHO市川は駅からかなり歩くのがちょっと大変なのだけど、余韻をかみしめながら駅に向かい、総武線で錦糸町へ。が、錦糸町に着いたとたん、余韻がぶち壊しになることが次々と(たいしたことではないけど)。
錦糸町で映画を見たのは過去にはただ1度だけで、高校時代に古い映画館で2本立てを見ただけでした。そんなわけで、本当に久々の錦糸町。スカイツリーが大きく見える。以前から気になっていた墨田区の体育館はここだったのか、と思いながら映画館へ。
「女王陛下のお気に入り」はスクリーンが小さいみたいだったので、前の方にしたら、ものすごく見上げる格好になり、かなり後悔。この映画、下からのアングルの映像が多くて、しかも魚眼レンズ使ってるらしく、上方にゆがんでいたり、左右にゆがんでいたりする映像。それを下から見上げるから、その変わった映像がさらに増幅されてちょっと気分が悪くなるほど。それに、朝早く起きたせいか、ちょっと眠くなるシーンも。
やっぱりハシゴするんじゃなかった、日をかえて近場のシネコンで見ればよかった、とまたまた後悔。TOHOは次が無料の回だから、もう一度見に行ってもいいんだけど、鳥を撃ち殺すシーンとか、あまり気分のよくないシーンが多い。「聖なる鹿殺し」ほどではないけれど。
ただ、映像や美術や衣装、それにクラシックを使った音楽は「バリー・リンドン」級にすばらしいので、もう一度見ても悪くはない感じ。3人の女優の演技も見ごたえ十分でした。
下からのアングルが多いのは、痛風で座っていることの多いアン女王の視線と考えられますが、最後にうさぎがうようよ出てくるので、実はうさぎの視線かも。
脚が動かない、というのは「聖なる鹿殺し」にもあったし、誰かを排除しなければならないというのも同じパターンかなと思うし、いかにもランティモスの映画で、好きな人にはたまらないようです。
ラストのうさぎうようよがとにかくすごい。
さて、昨日はポール・シュレイダー脚本・監督の「魂のゆくえ」の試写を見てきました。
以下、ネタバレあり。
息子を従軍牧師にしてイラクで死なせてしまった牧師が、妊娠した妻が子供を産むことに反対する環境活動家の男を説得しようとして失敗、テロを計画していた男は自殺してしまい、しかも自分の所属する教会が環境破壊企業から多額の寄付を得ていると知って、しだいに狂気にとりつかれていく様子が描かれます。「タクシー・ドライバー」で狂気に陥っていく主人公に似ていますが、最後に彼を救うのは夫に自殺された妻メアリー。メアリーという名前が示すとおり、彼女は聖母マリアなのです。死んだ夫は環境破壊された地球に子供を送り出したくないと思って産むことに反対していたのだけれど、環境破壊された地球というのはエデンの園の外の世界。愛し合うようになる牧師とメアリーはエデンの園の外で生きなければならないアダムとイヴでもあり、牧師は最後にはキリストのように自分の体を傷つける。
牧師が環境破壊企業からの寄付のことを言うと、教会の人物から「君は庭の中にしかいない、外の世界を知らない」というようなことを言われる。庭の中というのはエデンの園、楽園の中ということであり、また、庭にしかいない人は世間知らずというのは、「ナイロビの蜂」の原題にある庭師という言葉にも表れています。
また、牧師が、万物に神は宿るといったアニミズム、汎神論もキリスト教と矛盾しないと言ったりするあたりは、一神教のキリスト教とは異なる考え方ではないかと思うので、その辺も気になりました。牧師が環境問題に関心を持ったためにこのような考え方が出てきたのかもしれません。
牧師に扮したイーサン・ホークは多数の賞を受賞していますが、狂気にとりつかれる人間を非常に渋い演技で見せているところが評価されたのでしょう。いかにもな狂気ではなく、だからこそ、最後にメアリーに救われるのが説得力があります。