2023年2月11日土曜日

「バビロン」(ネタバレ大有り)

 金曜日は雪だから「バビロン」は来週にしよう、と思って、朝起きたら外はみぞれで、雪はほとんどなし。じゃあ、ということで、見に行った。

久々、UC松戸。



最初と最後が昔のパラマウントのモノクロのロゴ。「ジャズ・シンガー」の登場で映画がサイレントからトーキーになる1927年の前年、1926年から始まる。

デイミアン・チャゼルはこれまではエログロ、ゲテモノには縁のない、いわば品行方正な感じの作風だったが、今回はのっけからエログロ満載、ゲテモノ展開。終わり近くには「ナイトメア・アリー」のサーカスみたいなのが出てくる。

ハリウッドのお屋敷のパーティにいた無名の男女が偶然、幸運を手に入れ、映画界で仕事ができるようになるという、話がうますぎる出だし。その後もなんか話がうますぎる展開なのだが、意外と面白くて気にならない。あちらではかなり評判が悪かったのだけど、これなら見られそう、と思っていると、1927年、「ジャズ・シンガー」が登場して、主人公たちもトーキーの世界に入る。このあたりからつまらなくなってくる。

マーゴット・ロビー扮する女優がトーキー映画の撮影に臨むシーンで、これが全然面白くない。「雨に唄えば」にあった同種のシーンの面白さと比べるのもなんだが、天と地の差がある。

最後まで見るとわかるが、この映画全体が「雨に唄えば」へのオマージュになっていて、ブラッド・ピット演じるサイレント時代のスターが過去の人になったことがわかる映画内映画のシーンが「雨に唄えば」のパクリ。でも、「雨に唄えば」のそのシーンはトーキーの失敗なので笑えたのだが、こちらのシーンはどこも悪くないのに客は笑うということになっている。設定がいいかげんすぎる。

このほか、大勢がレインコートを着て「雨に唄えば」を歌うシーンもあり、これも実際にあった当時の映像をもとにしていると思う。

ピットが舞台女優と結婚してけんかになるあたりも「雨に唄えば」にあったシーンから来ているが、ここも下手すぎる。「雨に唄えば」へのオマージュシーンがとにかく下手。

ロビーが初出演の映画の撮影で、涙を自由に流せることができるシーンはよくできている。これは「雨に唄えば」のデビー・レイノルズがクライマックスで泣くのだが、彼女は泣けず、玉ねぎを使ったというエピソードからヒントを得たのかもしれない。このロビーのシーンはまだサイレント時代だが、トーキーになる前はエログロ、ゲテモノ、ご都合主義でも面白く見られる。が、どうもそのあとがだめ。

トーキーになると、ロビーとピットは落ちぶれていく。ピットは自殺し、ロビーはドラッグと賭け事で身を亡ぼす。しかし、ピットが自殺するのはよくわからない。スターもいずれは落ちぶれるのだから、それだけで自殺というのは短絡すぎる。

サイレント時代のスターがトーキーの時代になって淘汰されたのは事実だが、彼らは引退してもセレブだったり、脇役で活躍したり、グロリア・スワンソンのように「サンセット大通り」でカムバックした人もいた。「サンセット大通り」はパラマウントの映画だったよね? 「雨に唄えば」と同時期なのになぜ出てこない?

ピットに気に入られて映画界に入り、裏方として成功したメキシコ人青年はトーキー後も順風満帆だったのに、ロビーの賭け事の借金問題に巻き込まれて殺されそうになり、なぜか殺されずに済んで(とにかく話がうますぎるご都合主義満載なのだ)、メキシコへ逃げる。これが1930年代なのだが、そのあと、場面は1952年になって、彼が妻子と一緒にハリウッドを再訪する。ニューヨークでオーディオ店をやっていると言い、仕事も家庭もとりあえず順調のようだ。

彼が映画館に入ると、「雨に唄えば」を上映している。それを見て、彼は泣き出してしまう。サイレント時代からトーキーに変わった頃の思い出、そのときに知り合った人々の顔が浮かぶ。

主人公が最後に映画館に入って映画を見て、という映画はいくつもあるが、このシーンに一番近いのは、ロベール・アンリコの「ラムの大通り」だ。

ブリジット・バルドーに恋をし、冒険をしたリノ・ヴァンチュラが、彼女とは別れ、その後いろいろあって、映画館に入ると、バルドーの映画を上映している。彼女は「愛の喜び」を歌っている。気がつくと、その日の上映はすべて終了し、彼は最後まで見ていたことがわかる。「ラムの大通り」は大好きな映画で、このラストも大好きだ。

チャゼルもきっと、そうに違いない。

「ラ・ラ・ランド」はMGMミュージカルへのオマージュのように見せて、実は、ジャック・ドゥミとミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」へのオマージュだった。チャゼル自身がルグランの自伝に寄せた文章でそのことを書いている。だから、「バビロン」も「雨に唄えば」へのオマージュに見せて、本当は「ラムの大通り」へのオマージュだったのかもしれない。彼はたぶんフランス映画が好きなのだ。

思えば「ラ・ラ・ランド」のヒロインはパリへ行くし、「バビロン」の中国系の女性もパリへ行く。

が、「シェルブールの雨傘」へのオマージュとして秀逸だった「ラ・ラ・ランド」に対し、「バビロン」での「雨に唄えば」と、そして「ラムの大通り」へのオマージュはひどすぎる。「雨に唄えば」はラストでシーンがいくつも出てくるが、そのあと、今度はさまざまな名作映画のシーンのコラージュが登場する。これが、あの、YouTubeで公開されたワーナー100周年の動画にそっくりなのだ。あのワーナー100周年の動画は、最近傘下に入れたMGMの映画がやたら多くて、映画ファンは興ざめだったのだが、この「バビロン」の最後のコラージュもMGMが多い(ワーナー100周年動画とかぶってる)。「バビロン」はピットの所属する映画会社がMGMで、「ジャズ・シンガー」がワーナーなので、ワーナーとMGMに目配せした結果なんだろうが、おまえ、パラマウントだろ! 最初と最後のロゴが泣くぞ。「サンセット大通り」はどうした?

ロゴといえば、現在のワーナーのロゴに出てくる空撮にそっくりな映像があるので、MGMとワーナーに目配せしてるのは間違いない。

それにしても、最後の最後を「雨に唄えば」に大幅に頼っているのもどうかと思うが、こんなへたくそでご都合主義でエログロでゲテモノが最後にあの名作「雨に唄えば」(「ラムの大通り」以上に大好きな映画)で決めるって、ファンとして許せない。

しかも、あの男は何で泣くのだ。ロビーを愛していたとはいっても、彼女との愛に生きたとはとてもいえない人生ではないか。今は別の女性と結婚し、仕事も映画ではないが軌道に乗っている。それで、「雨に唄えば」を見て、映画界での思い出に泣くとか、そこまでの思いがあるとはとても思えないのだ。

「ラムの大通り」のヴァンチュラの涙ならしみじみと見られた。が、「バビロン」の方はしらけるばかりだ。「雨に唄えば」に対してとにかく失礼な映画。つか、「雨に唄えば」なしでやってみろって言いたい。