「ツリー・オブ・ライフ」のネット上の観客の意見を読んでいたら、10年くらい前に「シン・レッド・ライン」の映画評で私が書いたのと同じことを書いている人がいた。
その人いわく、テレンス・マリックはキリスト教を信じてはいない。彼の宗教は自然のすべてのものに神が宿るという汎神論だ。これはキリスト教以前の古い宗教。この映画ではブラッド・ピット演じる父親が神になぞらえている。古い宗教では、神は理不尽な存在なのだ。
うーん、やっぱりか、と思った。
「ツリー・オブ・ライフ」を見ていて、例の大自然やら何やらの映像がえんえんと続くのを見て、ああ、またマリックの汎神論だな、すべてのものに神が宿るという。母親のナレーションでキリスト教の敬虔な信仰が述べられているけれど、それをうわまわる存在を誇示しているのだな、と。
しかし、この映画は「シン・レッド・ライン」に比べて、キリスト教の信仰に寄りかかる部分が非常に多いとも感じた。「シン・レッド・ライン」は神もいないような悲惨な戦場の物語で、しかし、そこに美しい自然の風景の映像を入れることで、キリスト教の神はいないが、それでもすべてのものに神が宿っていると私は感じ、「キネマ旬報」の特集でそのことを書いた。
この特集では、有名な評論家K氏と私が作品評を書いていたが、K氏は映画を見て、「この世に神などいない」と感じ、それを強調した。私は「それでも神はいる」と書いた。2つの映画評を読んだ編集者はこの対立を面白いと思ったのだろう。2つの論が対立しているかのような印象の見出しをつけた。結果、私の論はK氏の論への反論のようになってしまった(私はK氏の論を読まずに書いているので、反論ではないのだが)。
その後、K氏が、キネ旬の別の号で、はっきりとではないが、私の論を批判するような文章を書いた。それは非常に短い文で、何についての言及なのかを明らかにしていなかったので、一般論だと言ってしまえばそれで終わるようなものではあったのだが。
それを読んで、私が思ったのは、あの2つの論は決して対立する論ではなかったのに、編集でそう見せてしまったのがまずかったのではないか、ということ。K氏は、これだけ悲惨な状況でも救ってくれる神がいない、ということを書いたのだが、私もここはK氏と同意見なのだ。ただ、ここで言う神とは、キリスト教など(イスラム教、仏教も含む)の近代宗教の神で、こうした神は人を救い、人の手本となる立派な神なのだ。しかし、それ以前の原始宗教では、ギリシャ神話の神々に見られるように、神とは気まぐれで自分勝手で、単に力があるだけの理不尽な存在なのだ。その一方で、すべてのものに神が宿るといった汎神論が存在する。この汎神論は理不尽な神よりさらに古いものだろう。私がそれでも神はいると書いた、その神とは、汎神論の神である。
「ツリー・オブ・ライフ」が「シン・レッド・ライン」に似ていることは見る前からわかっていたので、この点、キリスト教の神はいないが、汎神論の神はいる、という視点で見ていた。しかし、この映画は「シン・レッド・ライン」ほどは汎神論の神をうまく描いていなかった。それは自然を描く映像美が唐突で、しかもイマイチであるからだけでなく、キリスト教の信仰を強く出していたからでもある。カンヌで受けたのはこの部分じゃねーの?と私は勘ぐった。
また、この映画は、「シン・レッド・ライン」に比べると、神がいない、と感じるほどの状況を描いていない。確かに子供の死は理不尽だが、戦場ほどの悲惨さではない。自分勝手で抑圧的な父親を原始宗教の理不尽な神と重ねるのは、面白いが、それだけではいささか無理がある。この父はやはり人間だ。あまりにも人間だ。観客のレビューの中には、自分の父親と重ね合わせて書いているものがあって、とても感動的だった。そういうふうにも見られる映画なのだ。
そんなわけで、この映画は「シン・レッド・ライン」ほどにはキリスト教の神の存在の否定や自然の汎神論を強調してはいない(キリスト教の神の存在については、決して否定はしていないと思う)。中心にあるのはやはり人間の問題だと思う。ただ、それにキリスト教の神の存在の有無や、自然の汎神論を重ねたところが、「シン・レッド・ライン」の監督なのだということだろう。
キネマ旬報「シン・レッド・ライン」特集の号
1999年4月上旬春の特別号(品切れ)
興味のある方は古本屋さんで探してください。