2011年8月19日金曜日

未来を生きる君たちへ(ネタバレ大あり)

 「ツリー・オブ・ライフ」はストーリーを書いてもあまりネタバレにはならないと思うが、このスサンネ・ビアのアカデミー賞外国語映画賞受賞作「未来を生きる君たちへ」はストーリーを書くと完璧ネタバレになる。でも、ここでは最後まで書かずにはいられないので、ネタバレ大ありとします。これから見る方は注意してください。

 「ある愛の風景」で、戦争がある家族にもたらす悲劇を描いたデンマークの女性監督スサンネ・ビアが描くのは、暴力に対して暴力で対抗することは果たしてよいことなのかという疑問。それを寓話のように面白く描いていき、最後は感動できるという、誰にでもおすすめできるわかりやすい映画だ。
 母親を癌で亡くした少年クリスチャンは、転校してきた学校でいじめにあっている少年エリアスを助け、いじめっ子に暴力をふるっていじめをなくす。
 エリアスの両親は別居していて、父親アントンはアフリカの難民キャンプで医療活動をしている。エリアスはそんな父親を慕っているが、平和主義者のアントンは暴力に対して暴力で返すのはいけないと息子とクリスチャンを諭す。そんなことでは世の中はよくならない、というわけだ。
 アントンがエリアスとその弟とクリスチャンと一緒に出かけたとき、自動車整備店を営む男とアントンの間にいさかいが起こり、男はアントンを平手で殴るが、アントンは抵抗しない。そのことに、クリスチャンとエリアスは怒りを感じる。
 クリスチャンは埠頭にあるビルの屋上に上がるのが趣味で、エリアスも彼についてそこへ行くようになる。柵のない屋上の端に腰をおろして下を見ていると、例の自動車整備店の男がいろいろな人を脅しまくっているのを見る。クリスチャンは、この男は悪者だ、だから懲らしめてやるべきだ、と考える。
 クリスチャンを演じる少年はとてもハンサムだが、エリアスに復讐主義の影響を与える彼は悪魔の子ではないかと、私は途中で思った。あのダミアンだってかわいい顔をしていたではないか。しかし、悪魔の子がクリスチャン(キリスト教徒)って? 一方のエリアスは、「プラトーン」でウィレム・デフォーが演じた士官の名前だ。エリアスは旧約聖書の預言者エリヤから来ているとも言われるが、エリアスといえば正義、善の印象がある。平和主義者の父親の影響を受けた善のエリアスが、悪のクリスチャンに影響され、悪に染まるという話なのか。
 あるいは、クリスチャンは、自分が正義の神だと信じているのか。埠頭の高い建物の屋上に上がるのが好きなのは、そこにいると神の視点が得られるからだろうか。しかし、彼の目に見えるのは、周囲の人を恫喝している男の姿だけであり、アントンと子供たちが訪ねた自動車整備店にはその男とともに働く人々がいて、この男もいやなやつだけど、子供がいて、やはり1人の人間として生活しているのだという、そのことは屋上からは見えない。
 やがてクリスチャンは爆弾を作り、男の車を吹き飛ばそうと計画する。エリアスは悩むが、結局、彼を手伝う。
 以下、ネタバレにつき、文字の色を変えます。
 早朝、誰も来ないと思った駐車場に、ジョギングする母娘がやってきてしまう。爆発寸前、エリアスは身の危険もかえりみず、2人を止めるが、そのとき車が爆発し、エリアスは倒れてしまう。
 エリアスは意外と軽症だったことがわかるが、それを知らされず、エリアスが死ぬと思ったクリスチャンは絶望し、埠頭のビルの屋上へ行く。クリスチャンの父親から息子が行方不明だと知らせを受けたエリアスの父アントンは、息子から聞いた屋上の話を思い出し、そこへ急行してクリスチャンを救う。そこでアントンは、クリスチャンが母の死を受け入れられず、苦しんでいることを知り、彼を励ます。
 このシーンの前に、クリスチャンが母の死のことで父親を責めるシーンがある。父親は、末期癌の激痛に苦しむ妻のために延命治療をやめたのだ。そのことで、息子は父が母を殺したと思っていた、というよりは、クリスチャンは母の死を受け入れられず、母の死について誰かを罰したかったのだと思う。誰かに母親の死の責任をとらせたかったのだ。その相手が父親だった。父は母を愛していなかった、だから、と彼は考えたのだ。
 暴力には暴力を、という復讐の論理は、まさに、母親の理不尽な死について誰かに復讐したいという思いから生まれていたのだ。
 映画は2人の少年のシーンの合間に、アフリカで医療活動をするエリアスの父アントンのシーンをはさむ。難民キャンプのある地域ではギャングのボスが妊婦の腹の中の子供の性別を賭けに使い、妊婦の腹を裂いて子供を取り出し、母子とも殺してしまうという事件が起こっていた。このボスが足に大怪我をして運ばれてきたとき、アントンの平和主義が試される。
 こういうシーンがあるので、何かとても深遠で、世界平和にかかわるような壮大なテーマがあるように見えてしまうのだが、実はこの映画はもっと身近なもの、愛する者の理不尽な死や、暴力に対する怒り、怒りから生まれる暴力といった、ごく普通の日常的な人間の営みに起こる問題をテーマにしているのだと思う。もちろん、それは世界の問題へとつながることではあるけれど、この映画は屋上から見ても神の視点など得られないこと、地上に立ってものごとを見ることを訴えていると思われる。
 「ツリー・オブ・ライフ」にしろ、この映画にしろ、何か壮大なものとのつながりを強調しているように見えるが、実際は、個人としての人間の思いについての物語なのだ。ただ、死という理不尽なものに向かったとき、人は壮大なものに自分を照らし合わせないと救われない。この2本の映画が壮大なものとのつながりを出してきたのは理解できる。