ラスト近くを見て思ったのですが、クリント・イーストウッドの「ヒアアフター」に続いて、テレンス・マリックも「大霊界」かい?
浜辺のような場所で、年をとったショーン・ペンが、父や母や兄弟に再会するシーンですよ。浜辺みたいな場所っていうのがいかにもなんだけど(フランソワ・オゾンの「まぼろし」ね)、人間、年とると、どうしても、あの世に思いをはせるのでしょうね。確かに、年をとると、親、家族、親戚、友人知人が次々他界していくわけです。
「ツリー・オブ・ライフ」ではまず、3人兄弟の次男が亡くなったという知らせが届くというシーンがある。でも、その前後がまるでわからない。そのあとは、幼い3兄弟と両親の話になる。兄弟の母親は「神の恩寵」(グレース)に生きる人、父親は世俗(ネイチャー)に生きる人、ということになっている(というか、母親がそう思っている)。ネイチャーに生きる人というのは、この世に不満ばかり見出してイライラしている。グレースに生きる人は、神の存在を信じ、すべてを受け入れて生きる。神は常に人間の善に報いてくれるわけではない。善人にも災難がふりかかる。それでもありのままにそれを受け入れるのがグレースに生きる人、ということになる。
一方、ネイチャーに生きる父親は、音楽家をめざしたが道をはずれてしまい、発明をして特許をとってもうまくいかず、仕事も成功していない。父親はいつも不満を抱いている。隣人は遺産があるから庭師が雇えると、人と自分を比較し、恵まれていない自分にいらだつ。
父親は息子たちには非常に厳格だ。ああしてはいけない、こうしてはいけない、と、しつけがきびしいというよりはうるさいくらいだ。子供に暴力をふるうような父ではないし、本当は子供を愛しているのかもしれないが、愛情を示すシーンがない。
あるとき、父親が出張に出かけ、兄弟は近所の悪ガキたちと遊び、自由を満喫する。よその家に忍び込んで女性の下着を盗んだりと、悪いこともする。やがて父親が帰ってきて、自由は失われ、兄弟、特に長男は父親を殺したいくらい憎む。
ここで注目したいのは、兄弟が近所の子供と遊ぶのは父親がいないときだけだということ。父親が帰ってきて、友達を呼びたいというと、父は、家族がいれば十分だ、みたいなことを言って、友達と遊ばせない。実際、そのあと、兄弟は兄弟だけで遊んでいる。
なんで父親は友達と遊ぶのを禁じるのか。悪ガキだからか。確かに、男の子の親は、悪い子とつきあうな、と言う。たぶん、そのような理由なのだと思うが、子供にとっては理不尽だ。
家族で泳ぎに行ったとき、近くで子供が溺れ、兄弟の父親が助けようとするが、死んでしまう、というエピソードがある。そのシーンのあとに葬式に出かけるシーンがあるので、そう思うのだが、あの溺死した子供がのちに死ぬ次男に重なるのだろうか。どんな理由であれ、子供の死は理不尽だ。神の作った世界は理不尽だが、神を信じるなら、それも受け入れなければならない。
大自然や宇宙から、人体の内部までも描く映像は、それなりに美しいので、見ていてあきない(恐竜だけは不自然)。なんとなく、タルコフスキーっぽい映像だな、と思う。でも、タルコフスキーのような力は感じない。映像的には、「天国の日々」や「シン・レッド・ライン」に劣るし、マリックの映画は映像的に劣ると中身も劣る。前作「ニュー・ワールド」よりはかなりよいのが救い。
字幕ではネイチャーを世俗と訳しているが、映画の中では、ワールドを世俗と訳している部分もある。ワールドが世俗はごく普通の訳で、教会の中に対して俗世間がワールドなのだ。おそらく、ネイチャーはこのワールドを拡大解釈した言葉で、だから世俗でよいというか、神の恩寵(グレース)と対立する観念だとどうしても世俗にせざるを得ないのだが、やはりワールドよりは広い観念、大自然や宇宙や人体内部もネイチャーで、こうした部分もキリスト教の外の世界だが、そこにも神が宿っているという、そうした意味のネイチャーではないかと思う。もちろん、ヒューマン・ネイチャーでもあるだろう。そういうふうに考えると、ネイチャーに生きる父親は決して否定されるものではなく、グレースだけではとらえきれない大きな存在の一部と考えられる。実際、最後に登場する父親は、愛情のある表情をしている。息子はようやく父を受け入れられたのだ。
3兄弟を演じた子役、特に長男と次男がいい。この2人の絆を描くシーンはすばらしかった。
この映画は年をとった長男の回想のようだが(そのわりには現在の長男の描写が不足)、彼は次男の死は父親のせいだと思っているのかもしれない。そう思ったのは、この映画を見たあと、スサンネ・ビアの「未来を生きる君たちへ」を見たからだ。こちらでは、愛する者の死を父親のせいだと思うというテーマがはっきりと出ている。