2013年11月12日火曜日

またまた98%Fresh

またまた”RottenTomatoesで脅威の98パーセントフレッシュ”の映画を見てまいりました。
サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー主演、というか、この2人しか出ていない(正確には2人だけではないが)「ゼロ・グラビティ」。ただ今世界中で大ヒット中だそうです。
宇宙空間に放り出された2人の宇宙飛行士、ブロックとクルーニーが、猛スピードで地球のまわりを回り衛星も宇宙ステーションも破壊する宇宙のゴミの脅威にさらされながら、なんとか地球へ生還しようとする物語。3Dが効果的で、エイリアンなんぞいなくても宇宙は怖いという、シンプルでストレートでコンパクトにまとまったスペースサスペンス映画。
とても面白かったのですが、なんだかデジャヴ感が。
これって、「127時間」とか、ああいったサバイバルものと基本的に同じなのだ。
「127時間」は実話の映画化で、特にすごい山に登りに行ったのではないが、そこで腕をはさまれて動けなくなり、必死で生還するという話。こちらはほとんどジェームズ・フランコの一人芝居で、やはりシンプルで力強い映画でありました。
「ゼロ・グラビティ」は宇宙空間というのがユニークで、宇宙から見る地球の美しさ、人間が宇宙に残したゴミの恐ろしさ、よく考えればご都合主義のストーリー、でも手に汗握るサスペンス、そして3Dに特殊効果と、シンプルだけどゴージャスな映画。ただ、作り物である分、ゲーム感覚に見えてしまうのも否めない部分がある。次から次へと襲ってくるトラップをかいくぐり、みたいな感じ。
アカデミー賞有力とも言われ、サンドラ・ブロックがまたオスカー取るかもしれないな、と思いましたが、面白いし、見ごたえもあるし、特に文句を言う筋合いはないのですが、やっぱり98パーセントフレッシュだと、文句のつけどころはないけれど、そんなにすごくもないという感じが、またしてもしてしまうのです。
ただ、ここまでシンプルに、宇宙空間と人間だけで手に汗握る映画を作り出したのはすばらしい。3Dもよく生かされていました。

先週は「メイジーの瞳」と「さよなら、アドルフ」の試写に行きました。
「メイジーの瞳」はヘンリー・ジェイムズの小説「メイジーの知ったこと」の現代化で、原作は読んでないけど、かなり有名。
離婚した両親がそれぞれ幼い娘を独占したがり、でも、忙しいので、娘の世話は新しいパートナーにやらせるというか、娘の世話をさせるために新しいパートナーを選んだみたいなところのある、困った両親(けっこういい年なんだが)。
それに対し、それぞれの若いパートナーは、メイジーのために一生懸命やってくれて、メイジーにとってはだんだんこの2人の方が親みたいになってくる。
生みの父と母も娘を愛しているのだが、派手な仕事であっちこっち飛び回っているので、娘の世話ができないというか、娘を手放したくないくせに娘中心の生活になるのはどこかいやという、自己チューな親たち。対して、若い2人はかたや元ベビーシッター、かたやバーテンダーという庶民。メイジーをめぐるこの4人の大人たちの描写がなかなか面白い。
結局、父と母の新しいパートナーたちは、自分を利用するだけの彼らに嫌気がさし、若い2人とメイジーで擬似家族のようなものができあがっていく。この辺、とてもほのぼのとしていいのだが、同時に、ちょっとご都合主義というか、若い庶民の男女の方がここまで自己犠牲的というのがリアルでない感じがして、少し引っかかった。でも後味のいい作品。

「さよなら、アドルフ」は、日本語のタイトルがやわすぎる気がするくらい重くきびしい映画だった。
(注意 以下、ネタバレありです。)
ナチ高官の父と母が終戦後に戦犯として逮捕され、残された14歳の少女が赤ん坊を含む幼い弟妹4人を連れて遥か遠くの祖母の家をめざす。途中で、ユダヤ人虐殺の写真が貼り出されているのを見ると、そこにはナチ高官の父親が写っている。父がユダヤ人虐殺の当事者で、母もその事実を知っていただろうという衝撃。そして、誰も彼ら子供たちを助けてくれない中で、唯一、助けてくれたのがユダヤ人の青年だった。
なにものも美化しない映像が目をひく。何度も出てくる真っ赤な血。母の太ももについた血は、母が体を売って食料を買う金を手に入れたということだろうか? あるいは、レイプされたのか?
旅をする少女が目にする女性の死体も、下半身の血がレイプを暗示させる。
そして、自殺した男の血塗られた死体から腕時計をはずす少女。食料を手に入れるにも、赤ん坊に乳を飲ませるにも、必ず交換する物が必要だから。
この映画では女性の肉体がまったく美化されない。冒頭、鏡の前でブラジャーだけの裸身をさらす母親は、強制収容所のユダヤ人女性を連想させる。彼女が自分の姿を見て嘆く顔をするのは、そのためだろうか?
そして、長いつらい旅をする少女の肉体も、額や脚が傷だらけになっていく。
ドイツによるユダヤ人虐殺の事実と、父親が加担していたという事実を、どう受け止めていいのかわからない少女の苦悩。助けてくれた青年が実はユダヤ人ではなく、ユダヤ人の身分証を持っていただけだとわかったあと、少女はその身分証にはさまっていた写真を見る。この身分証を持っていたユダヤ人も、その家族も殺されてしまったのだということを、殺したのは父親だということを、少女が悟るシーンだ。
飢えて、傷だらけになり、幼い弟の1人も失って、少女たちはようやく祖母の家にたどり着く。裕福な祖母には少女たちの苦しい経験などわかりはしない。わずかな食料をがつがつと食べ、こぼした水をすくって飲むような生活が、強制収容所に、そして、終戦後の混乱の中にあるということに気づかない祖母。現実を知らない人、知ろうとしない人に対する怒りを少女は感じる。
少女が身分証のユダヤ人の写真を見るシーン。祖母の家の母の部屋に入ったとき、何の価値もない鹿の置物の意味がわかるシーン。そして、現実を知ろうともしない祖母に対して黙って抗議する食卓のシーン。この一連のシークエンスは言葉には言い尽くせないほどすばらしい。