2013年11月23日土曜日

ただ今読書中

先日、山田洋次監督の新作「小さいおうち」の試写を見せてもらい、非常に感銘したのだが、その後、原作の中島京子の小説「小さいおうち」についてネットで調べたら、映画とはだいぶ違う印象を受けたので、こりゃ原作読まなきゃ、というわけで、今日、図書館で借りてきた(映画公開は来年なので、まだ貸し出し中でない図書館が多いけど、そのうちどこも貸し出し中になるであろう)。
通常は、読了してからきちんと書くのだけど、なにか、これは途中経過を書いておきたい、と思ったので書く。

映画を見ていて、すごく引っかかったのは、時子の夫・平井は不倫しているんじゃなかろうか、ということ。社長からコンサートのチケットをもらい、夫婦で行くはずが、夫は会合があって行けないとなり、時子がイライラするシーンがある。こりゃ、夫は愛人がいて、それで時子は板倉と恋に落ちるのかなあ、と思ったら、そうじゃないみたいなのだ。
平井は典型的な会社人間で、会社のことしか頭にないという、日本の夫の代表者みたいだが、この当時、平井のような立場の人は愛人とか普通にいたのではないかと思っていたので、そうでなくて、平井夫婦は仲がいいのだとしたら、なんで板倉に、と思ったのである。夫を愛しながら板倉にひかれるとなると、それは「マディソン郡の橋」? まあ、確かに、戦争についての言及や、ラストの重さがなかったら、これは「マディソン郡の橋」だろう。

しかし、原作では、時子は最初の夫に死なれ、息子・恭一を連れて平井と再婚するのだった。語り手の女中・タキは最初の夫のときから女中をしていて、最初の夫は色男だったけど、平井は男の匂いがしないと書く。そして、平井夫妻が友達のような夫婦で、肉体関係がないことが示唆される。
なるほど、それなら板倉と恋に落ちるのは大いに納得。
そして、夫が留守のときに嵐が来て、板倉が泊り込む、というところまで読んで、はたと気がついたことがあった。
これって、日本版「日の名残り」じゃないだろうか。
果たして、著者はインタビューで、カズオ・イシグロのこの小説の影響を受けていることを認めていた。
「日の名残り」はイギリスの執事が過去を回想する話で、主人に仕えながらいろいろなことを見聞きしながら、常に傍観者としてものごとにコミットしない。そのコミットしない、できない主人公が、ジェームズ・アイヴォリーの映画の主人公にぴったりだなあと思っていたら、やがて、アイヴォリーが「日の名残り」を映画化。これはみごとな映画化だった。
「日の名残り」では、第二次大戦前夜の時代、語り手の執事が仕えた主人がナチスドイツに利用されてしまうエピソードが描かれている。「小さいおうち」の語り手、女中のタキは、現代から過去を振り返って手記を書いているのに、当時の能天気な日本人の感覚からあまり変わっていなくて、親戚の若者からきびしいことを言われる。このあたりも「日の名残り」の執事につながる感じ。

というわけで、「小さいおうち」の原作を読んだらすぐに映画と原作の比較を書く、というわけには、おそらくいかない。影響を与えたイシグロの「日の名残り」を読み返し、それをアイヴォリーがどう映画化したかを再確認してからでないと書けない、と思った(幸い、「日の名残り」の原作もDVDも手元にある)。
山田洋次がアイヴォリーとは全然違うタイプなのは明らかで、だから、映画からは「日の名残り」を連想することはできない。そこが一番気にかかる(というわけで、しばらくお待ちを)。