デンマークの女性監督スサンネ・ビアは日本初公開の「しあわせな孤独」から見ていて、特に「ある愛の風景」以後は大のお気に入り監督になっているが、新作「真夜中のゆりかご」も非常に見応えのある映画だった。
刑事のアンドレアスは妻アナと赤ん坊の一見幸福な家庭を築いている。しかし、夜泣きのひどい赤ん坊のせいでアナは育児ノイローゼ気味。アンドレアスも夜泣きでは育児を手伝っているが、妻が子供を産んで後悔しているのではないかと思うくらい、アナはこたえている。
アナがこたえている理由の1つは、実の母親が赤ん坊にプレゼントを贈るだけで、会いに来ることさえしないからだ。
ある晩、赤ん坊が突然、急死してしまう。赤ん坊の死を受け入れられないアナは救急に連絡しようとする夫を必死でとめる。アンドレアスは最近、同僚のシモンと一緒にジャンキーのDV男が妻に暴力をふるっている現場にかけつけ、そこで夫婦からネグレクトされてひどい状態になっている赤ん坊を見つけていた。アンドレアスは悩んだ末、その夫婦の家に忍び込み、赤ん坊の死体と夫婦の赤ん坊を交換してしまう。妻のためにも赤ん坊のためにも、その方がいいと思ったからだ。
自分の子供ではないと拒否するアナを、ネグレクトされている赤ん坊を救うためだと説得するアンドレアス。一方、自宅で赤ん坊の死体を見つけた母親のサネは自分の子供ではないとすぐにわかるが、夫のトリスタンは死体が見つかると前科者の自分は刑務所に逆戻りになると言って、赤ん坊の死体を捨てに行く。
スサンネ・ビアの映画の面白さは、ごく普通の日常の中に起こる事件が思いがけない方向に展開していくことだ。私はキネ旬のベストテンで「ある愛の風景」を1位にし、監督賞にスサンネ・ビアを推したことがあるが、ビアの映画は日本ではそれほど高く評価されていないと感じる。その理由は、彼女の描く物語がメロドラマチックであり、映像を含めて高い芸術性を感じさせるものではないためではないかと思う。彼女の映画には俳優のアップが多く、それをテレビ的だとして低く評価する文章も目にしたことがある。
しかし、ビアと脚本家のアナス・トーマス・イエンセンが描く物語は多分に小説的で、ミステリー小説の作家が工夫を凝らす意外な展開に満ちている。そして何より、ビアの映画が多用する俳優のアップ(顔のアップだけでなく、瞳のアップも多い)は、登場人物の心理を俳優の顔の演技で表現しているのであり、アップによって観客が人物の内面に肉薄し、理解するようになっている。それはちょうど、20世紀以降の小説の技法である、三人称による人物の内面描写の手法にきわめてよく似ている。
「真夜中のゆりかご」も思いがけない方向に展開していく。まず、死体を捨てに行ったトリスタンが、乳母車に乗せた赤ん坊がさらわれたと主張する。事件を担当することになったのはアンドレアスとシモン。アンドレアスは自分の赤ん坊の死体とトリスタンとサネの赤ん坊を取り替えたわけだから、事情がわかっている。しかし、それを知られてはならない。
サネは死んだ赤ん坊は自分の子供ではない、自分の子は生きている、と主張するが、トリスタンはサネが赤ん坊を殺したに違いないと主張する。
意外な展開はさらに続く。以下ネタバレなので、色を変えます。
アンドレアスの妻アナが自殺してしまうのだ。
葬式のためにアナの両親と、アンドレアスの母親がやってくる。アンドレアスの母はわりと普通のおばあさんだが、アナの両親は身なりはよいが冷たい。育児ノイローゼになったとき、女性が一番頼りたいのは育児の経験がある母親だろうに、その母が非常に冷たい。アンドレアスの母が身近にいたらまた違っていたのかもしれないが、核家族化の中で夫婦が孤立している現代社会を感じさせる。また、アンドレアスは赤ん坊を交換しに行く前に、同僚のシモンに電話しているが、シモンは離婚が原因で酒に溺れるようになっていて、そのときは電話に出られない。アンドレアスが相談できるのが同僚のシモンだけ、というのも現代人の孤立を感じさせる。あとでわかるが、シモンはアンドレアスとアナ夫婦の親友で、赤ん坊の写真も持っている(事件の真相を突き止めるのはシモンで、最後の部分のシモンは前半の彼とは別人のようだ)。
やがてアンドレアスとアナの赤ん坊の死体が発見され、死因がはっきりする。アナが育児ノイローゼであることが最初から知らされているので、死因は予想できたが、そのあとの展開は悲劇にもかかわらず、希望を感じさせるものだ。アカデミー賞外国語映画賞受賞の「未来を生きる君たちへ」と同じく、悲劇を超えて未来への希望を見出す結末になっている。