「婚約者の友人」に続いて、翌日もキネ旬シアターへ。見たのはエミリ・ディキンスンの伝記映画「静かなる沈黙」。この種の映画はやはりイギリスが得意らしく、ディキンスンはアメリカの詩人なのにイギリス映画で、出演者も一部イギリス俳優。なので、19世紀のイギリスとアメリカが日本では混同される恐れがある?と感じたので、少しばかり解説を。
詩には詳しくないので、ディキンスンの詩はまだ読んだことがないし(映画にはよく出てくるが)、彼女自身についても詳しくないので、この映画で初めてこういう人だったのかとわかったくらいだが、某大学で英米文学史みたいなのを8年半講義してずっと思っていたのは、イギリスだと18世紀末から女性作家が次々と出てくるのに、アメリカは19世紀だと紹介できる女性作家がほとんどいない、ということだった。
私は小説が専門なので、講義はまずシェイクスピアを紹介し、そのあとは英米の小説中心で話を進めたが、アメリカの19世紀では私が紹介できる女性作家がいないことがいつも気になっていた。
ディキンスンが重要な詩人であることは知っていたが、詩は扱わなかったので、ディキンスンは出てこない。小説はケイト・ショパンという女性作家がいるのだが、私は読んだことがない。あとは「若草物語」のルイザ・メイ・オルコットで、彼女は犯罪小説の作家として生計を立てていたが、今では「若草物語」しか読まれておらず、エンターテインメント作家なので文学で扱うのはちょっと、というところ。彼女の時代には犯罪小説などで生計を立てる女性作家が次々と現れ、イギリスにもそうした作家がたくさんいたようなのだが、この辺も私には専門外。
というわけで、イギリスとアメリカの女性作家事情の違いをひしひしと感じていたのだが、この映画でもそれは如実に表れていた。
アメリカ東部マサチューセッツ州に住むディキンスンは裕福な家の生まれで、宗教に対する反抗的な姿勢(本人はしごくまじめに考えているのだが、保守的な人々には受け入れられない)で学校をやめてからは家に閉じこもって詩を書いている。父の口添えで新聞に詩を載せてもらえるが、編集長は女には本格的な文学は無理という考え。お情けで載せてやったというような態度。しかし、海の向こうのイギリスではブロンテ姉妹やジョージ・エリオット(本名メアリ・アン・エヴァンス)、エリザベス・ギャスケルといった作家が活躍し、ディキンスンも妹や友人とその話をしている。イギリスでは18世紀末にアン・ラドクリフやジェイン・オースティンが登場し、19世紀に入ってから「フランケンシュタイン」のメアリ・シェリー、ヴィクトリア朝になると、ブロンテ姉妹などの女性作家が活躍するようになる。ブロンテ姉妹は最初、女性とはわからないペンネームで小説を出版したが、その後、女性とわかって本名に戻した。ジョージ・エリオットはずっと男性名のペンネームを使ったが、女性であることを隠してはいない。「フランケンシュタイン」は初版は匿名で出されていたが、その後の改訂版(現在翻訳されている版)では本名を出している(両親も夫も有名人なので、すぐに身元ばれただろう)。
こんな具合に、イギリスでも女性が名前を出しにくい、女性だとばかにされる、といった状況があったのだが、それでもイギリスでは女性作家が活躍していた。しかし、アメリカはその点、まだ遅れていたのか?
この辺、19世紀のアメリカ文学に詳しくないのでわからないのだが、19世紀アメリカ文学の女性像というと男性作家ヘンリー・ジェイムズの描く女性になってしまうのが苦しいところ。
「静かなる情熱」を見ると、当時のアメリカはイギリスよりも保守的だな、と感じる。
マサチューセッツ州のようなアメリカ東部だけの特徴かもしれないが、ピューリタン的な宗教的抑圧が映画には表現されている。
特に牧師が、イギリス文学とアメリカ文学では違うと思うのだが、イギリス文学では牧師はだいたい偽善的な俗物に描かれている。たとえば、オースティン「高慢と偏見」のコリンズとか、ハーディ「ダーバヴィル家のテス」のエンジェルの父や兄とか、エリオット「ミドルマーチ」のヒロインの夫とか。
一方、アメリカ文学では牧師が俗物とか、あまり記憶にない(うさんくさい説教師とかは出てくる)。アメリカの方がキリスト教を大事にしている感じが強い(イギリス人はあまり信心深くない印象)。
というわけで、「静かなる情熱」に描かれる宗教の抑圧を見ただけで、イギリス、というよりイングランドじゃないな、と思うわけである(アイルランドとか、カトリックの国はまた違う)。
そういった、一見、イギリス的なアメリカの東部社会だが、女性が文学をすることについては遅れていて、偏見も強く、そうした中で内向的で外に出ようとしないディキンスンがかたくなに自分を貫きながら詩を書き続ける姿が、映画ではまさに「静かなる情熱」という雰囲気で描かれている。
ディキンスンのかたくなさ、周囲の人々へのきびしさが、年をとるにつれてしだいに強くなっていくのも印象的だ。若い頃の反抗的気質が年とともにかたくなな不寛容になり、最後は妹に叱責されるほどになっていく。
ディキンスンの詩作そのものについてはほとんど描かれず、ただ詩が出てくるだけなのが詩人の伝記としては物足りないところだが、女性作家が活躍していたイギリスとは違う、アメリカ東部の保守的な世界が興味深い。
ディキンスンが亡くなる頃、ヘンリー・ジェイムズは「ボストニアン」でボストンのウーマンリブを描いている。ディキンスンの出て行かなかった外の世界にはもっといろいろな女性がいたのだろう、ということは考えておきたい。