2017年11月12日日曜日

船堀映画祭で「ルドルフとイッパイアッテナ」と「君の名は。」

江戸川区の船堀で土日に行われた船堀映画祭。日曜の「ルドルフとイッパイアッテナ」と「君の名は。」に行ってきた。
手作りの映画祭という感じで、上映作品も昨年の話題のアニメから昔の大衆娯楽映画、ドキュメンタリー、無声映画、自主映画と、意欲的なラインナップ。特に昔の「君の名は」総集編とアニメの「君の名は。」はそれぞれ2回とも前売り完売の盛況。
ロビーでもいろいろな展示を行っていた。



無造作に置いてあるけど、よく盗まれないな、いい人ばかりなんだなあ、と感心。売店の横とはいえ。

上映作品の一部。



「ルドルフとイッパイアッテナ」聖地巡礼の展示。岐阜市のパンフレットも置いてあった。






映画が終わったあと、展望台へ。前売券を買いに行ったときは昼間で曇りだったけれど、今回は夜景。が、うまく写真が撮れなかった。わりとマシな2枚。東京タワーはぼけるし、目の前のスカイツリーはなぜか灯りがほとんど消えていて、とてもアップできない。

これは葛西臨海公園の観覧車。

さて、1年以上ぶり10回目の「ルドルフとイッパイアッテナ」、先日上野で2回見たばかりの30回目の「君の名は。」。どっちもすぐそばの親子連れがかなり迷惑だった。
映画館でこれほど迷惑な客って、そうそう出会うものじゃないのに、2回ともそういう客がすぐ隣とかすぐ後ろとか、よっぽど運がないのか、客層が悪いのか。
「ルドルフ~」の方は客のおしゃべりもあちこちから聞こえていて、自宅でテレビを見るのと同じ人たち、映画館にめったに行かない人たちなのだろうと思った。
映画泥棒も予告編もなくいきなり本編が始まるのは映画祭ならではだけど、客層が高齢者多数、あとはアニメのせいか小さい子供を連れたファミリーが多かった。「君の名は。」大多数の客は静かに集中して見ていたけど、すぐ後ろはほんとにひどかったなあ。
でもまあ、近所の家から普段着で歩いてきたみたいな客ばかりで、それがこの映画祭のクオリティならしょうがないか、と思った。
昔の「君の名は」や「若大将」、「ひばり・チエミ」なんかは高齢者中心で、静かに見られたのかもしれない。「君の名は」総集編はあとになって見たいと思い始めたけど、その頃には前売完売していた。
お客さん以外でちょっと、と思ったのは、「ルドルフとイッパイアッテナ」の原作者・斉藤洋氏が最初にトークを行ったのだけど、何も考えずにやってきて思いついたことを話しているのが明らかで、ちょっとがっかりだった。前に一応演壇ができていたのに、客席の前や通路をうろうろしながら話すという、大学の講義みたいなやり方で、亜細亜大教授の授業そのまんまなのかなあと思った。でも、映画が終わったあとまで残ってサイン会をしていたので、ファンを大切にする人なのだろう。もうちょっと実のあるトークを期待していたんだけどね。
そして、一番困ったのが、「ルドルフとイッパイアッテナ」の応援団ができていて、その人たちが最前列に座って、上映中に拍手したり大声で叫んだりするのだ。これって、そういう上映会だったの?
まあ、この人たちのおかげで上映されたわけだし、そうでなければもう二度と映画館では見られないと思っていたのだから、このくらいはしかたないんだろうけど。
というわけで、2本とも、これまで見たときのような気分で見れなかったが、早い時点でここはそういう映画祭なんだと悟ってあきらめがついたからイライラせずにすんだ。「君の名は。」はまたどこかで見られるだろうし、「ルドルフ~」はこの応援団がまた来年もここで上映するのかもしれない。
でも、普通のお客さんのために、これは応援上映です、とか告知してほしいと思う。

さて、「君の名は。」30回目にして初めて気づいたこと。
瀧が三葉に電話するシーンは信濃町歩道橋だが、電話がつながらずに切るシーンは六本木ヒルズの歩道橋だった。その前に奥寺と別れるシーンはヒルズ歩道橋なので、なんでそこだけ信濃町歩道橋になるのか不明。信濃町歩道橋はそのあと、三葉がそこで瀧に電話しようとしてつながらず、さらにラスト近くで瀧と奥寺のシーンとして出てくる。だから瀧のシーンでまず信濃町歩道橋が出てこないといけないわけだけど、電話を切るシーンでヒルズ歩道橋になってしまったのはミスだろうか。あるいは意図的にそうしたのか?
「君の名は。」にはこういう辻褄の合わないシーンがいくつかあって、ミスの場合と、意図的にそうした場合の両方がある。

追記
斉藤洋氏のトークで興味深かったのは、父親の話。
イッパイアッテナとルドルフの関係が父と息子のようであり、イッパイアッテナは理想の父親、というのは最初に見たときから気づいていたが、斉藤氏の父親は道楽者で非常に困った人だったという。斉藤氏は23歳のときに父親から勘当されて家を出たのだが、あんな道楽者に勘当されるなんて自分はまじめだったのだ、と言っていた。そんなことから理想の父親像をイッパイアッテナに託したようだ。
一方、「君の名は。」の新海誠監督も若い頃に、家業の建設会社を継がずにアニメ作家になるというので父親に勘当されたというような話をどこかで読んだ記憶がある。新海監督の父親は昔ふうのガンコ親父だそうで、三葉の父やテッシーの父のモデルだろう。
タイプは違うだろうが、どちらも息子から見たら困った父親。斉藤氏は30代で父親とは逆の理想の父親像を描き、新海監督は40代で父親をモデルにした父とその娘の話を作ったわけだな、と思うと、いろいろ興味深い。斉藤氏が父と息子なのに対し、新海監督は父と娘にしたことも。