2019年8月9日金曜日

「天気の子」の納得できる評論

大ヒット中の「天気の子」は、私が初めて嫌いだと思った新海誠の映画である。
出来の悪い「雲のむこう、約束の場所」、「星を追う子ども」でさえも嫌いではなかった。
なぜ嫌いなのか、それはわかっていたが、「君の名は。」以上に好きだという人もかなりいるようなので、水を差すのもなんだから、何も書かずに来た。
が、ここに来て、自分が感じていることそのものを書いている評論が出た。

映画「天気の子」を観て抱いた、根本的な違和感の正体(杉田俊介)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

長い文章だが、自分の考えと同じことをずばり書いているとことをいくつか抜粋したい。

(以下、引用)
二つ目の疑念は、ラストの帆高の僕たちは「大丈夫」だ、というセリフが、どの視点から、誰が誰に向けて言ったものなのか、ということである。全てがじわじわ水没していく、この国も社会もどんどん狂っていく、けれども神様を信じたり恋愛したりして、日々を楽しく幸福に暮らすのは素晴らしいことだし、みんな大丈夫だよ――という論理によって若者たちを祝福するということ。
しかしそれを若者たちへ向けていう「大人」としての新海監督の立ち位置は、無責任なものではないだろうか。
私にはその「大丈夫」という言葉が、どこか、口先だけで若者を応援はするけれども、社会改良の責任は決して負おうとしない大人たちの姿に重なって見えたのである。『天気の子』は大人になることの困難を主題にしているにもかかわらず、新海監督の手つきが大人として十分に熟し切っているように見えないのだ。
帆高は物語の中でいわば「セカイ系的な恋愛か、多数派の全員を不幸にするか」という二者択一の選択肢を強いられてしまう。しかしそうした問いを強いたのは誰か。若い世代を応援し希望を託しつつも、そのような社会を作ってきてしまった大人たちなのではないか。
そのことが十分に問われないまま、大人たちは腐っているから仕方ない、あとは若者に希望を託そう、君たちは大丈夫だよ、という論理によって体よく責任を未来に先送りしてしまうこと。それを私は欺瞞的だ、と言いたいのである。社会や環境に対する無力感を強制しつつ、子どもたちの口から自己責任において「大丈夫」と言わせてしまうことが暴力的だ、と言いたいのだ。
(中略)
私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。
(中略)
繰り返そう。『天気の子』の二重の欺瞞とは、
(1)「狂った社会」を大人たちが自覚的に変革したり改善したりするという可能性を最初から想定していないこと、
(2)しかも、大人たちは堕落した存在であると断定することで、責任を回避し、若者たちの口からこの世界はそれでも「大丈夫」だと言わせてしまうこと、つまり子どもたちの決断や自己啓発の問題として――見かけは大人の立場から若者を応援し、希望を託す、という態度をとりながら――全てを押しつけてしまっていること。
この二つである。それは今の私たち日本人にふさわしい自己欺瞞の形であるようにも見える。
(引用、終わり)

この文章でほかに注目したのは、ここに描かれる若者のイノセンスが村上春樹やサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の劣化版であり、そこにスピリチュアル系の要素が入っていること、新海誠の思想がネオリベ的であること、そして、私の大嫌いなキャラ、須賀という人物についての分析。須賀は中途半端で観客をイライラさせる、と筆者は書いていて、私もこの須賀が大嫌いなのも「天気の子」が嫌いな大きな理由なのだが、このダメな中年男に実は新海誠の新境地があるかも、という書き方をしていて、なるほどと思った。

「天気の子」に関しては、エロゲーの立場からのとても面白い文章があって、エロゲー的な世界やセカイ系のストーリーを大予算をかけて一般向けの映画にした、ということを大喜びしていて、好意的な文章ではこれが最も納得のいくものだった。
なお、この文章は「天気の子」というエロゲーがかつてあったというフィクションとして書かれているので、ご注意。
http://cr.hatenablog.com/entry/2019/07/23/000034
ちなみにエロゲーというのは性描写中心のゲームではなく、性描写もある大人向けのゲームで、内容的には高く評価されるものだという。

新海誠の言っていることを無批判に肯定し、映画を高く評価しているような文章が一番唾棄すべきであると私は思っている。