2020年6月16日火曜日

久々、テラスモール松戸へ

ほぼ3か月ぶりにテラスモール松戸へ。
UCテラスモール松戸は検温もなかった。


3月公開予定だった「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」。
「ストーリー・オブ・マイライフ」って、ジェイ・マキナニーの小説のタイトルだよね。
原題は「リトル・ウィメン」日本ではキャサリン・ヘップバーンの映画で「若草物語」となって以来、ずっと「若草物語」で通ってきたおなじみのお話だけど、配給会社はたぶん、これまでの「若草物語」とは違う、という意味でこういう邦題にしたんだろうけど、どうだろね。

それはともかく。
実は、この映画、3月の段階ではかなり見たかったのだけど、その後、コロナで延期になっている間に、だんだん興味が薄れていって、それほど見たい映画ではなくなっていた。
でも、一応見とくか、ってわけで見に行ったのだけど、そういう気分のせいか、面白くなかったのである。
ネットを見ると、評判もいいし、観客の満足度も高いようで、面白くなかったと書いたりしたら白い目で見られそうだが、私は一応、かなーり昔とはいえ、原作の「若草物語」と「続・若草物語」は読んでいる。だから、現在と過去が交錯しても別にわからなくなったりはしなかったから、そのせいで面白くなかったのではない。
興味が薄れていった理由というのは、延期の間に予告を何度も目にし、そこでジョーが「結婚したら作家になれない」と主張しているのに違和感を感じたからだ。
私がかつて専門にしていた18世紀末から20世紀初頭のイギリス小説では、著名な女性作家は結婚している人が多い。

アン・ラドクリフ ゴシック小説の女王。夫のラドクリフはジャーナリスト。
ジェイン・オースティン 「高慢と偏見」。生涯独身。
メアリ・シェリー 「フランケンシュタイン」。夫は詩人のパーシー・ビッシュ・シェリー。
シャーロット・ブロンテ 「ジェイン・エア」。副牧師と結婚するが、お産で亡くなる。
エミリー・ブロンテ 生涯独身。
エリザベス・ギャスケル 「北と南」。夫のギャスケルは牧師。
ジョージ・エリオット 本名メアリ・アン・エヴァンス。「ミドルマーチ」。ジョージ・ヘンリー・ルイスと長年パートナーに(当時、イギリスは離婚が非常にむずかしかったので、ルイスは妻と離婚できなかった)。ルイスの死後、20歳年下の男性と結婚。
ヴァージニア・ウルフ 「ダロウェイ夫人」。夫のレナード・ウルフも作家。

結婚してから作家になってる人も多いというか、メアリ・シェリーも「フランケンシュタイン」完成前にシェリーと結婚している。

確かに、女性は結婚か仕事か選ばなければならない、みたいな状況は常にあるのだけれど、それは小説家以外の職業だろう、と。

で、今回の「若草物語」は、原作者のルイザ・メイ・オルコットは生涯独身だったのに、ジョーを結婚させたのは、心ならずも妥協したのだろう、という仮定が肝になっている。
そこがまあ、邦題の「わたしの若草物語」ってことなのでしょう。
そういう目で見ると、原作でジョーが結婚するベア教授、映画だとジョーとベアが恋愛関係にあるように見えない。ベアはジョーの才能を認め、扇情的な通俗小説ばかり書いていないで文学を書け、と助言するわけだが、ジョーは自分の書く小説を批判されて怒るだけで、ベアの助言で変わるわけではない。ベアも、若い才能のある女性がこんな通俗小説を書いてるなんて、と思うだけで、それ以上の感じがしない。
それがクライマックスで突然、2人の愛が燃え上がるのだけど、実はそれは編集者や読者の好みに合わせた結末にすぎないようなのだ。
私が面白くないと思うのはここなのである。
結局、ジョーは文学的に見たらたいした作家じゃないのだ。オースティンやシェリーやブロンテ姉妹やギャスケルやエリオットやウルフとは違うのだ。「若草物語」があるから名前が残っているけど、それさえも読者が望むものを描いたから残っているのだ。
文学史的に見たら確かにそれが現実なのだけど、そういう結論になってしまう映画化ってどうよ。

長女のメグは貧しい男性と愛のある結婚をし、お金持ちと結婚するのが夢だった四女のエイミーも愛のある結婚をする。それを見て、寂しさを感じるジョー。仕事をがんばっていて、愛や結婚が遠い現代の女性の共感を呼ぶのはわかるけど、なにか、ジョーをものすごく低いレベルに貶めているように感じてしまう。