2024年10月1日火曜日

「太陽がいっぱい」&「太陽はひとりぼっち」

 先週末からキネマ旬報シアターで上映されているアラン・ドロン追悼特集。


上映は今週金曜までで、「太陽がいっぱい」は連日、「冒険者たち」と「太陽はひとりぼっち」は隔日で、土曜日に「冒険者たち」、日曜日に「太陽がいっぱい」と「太陽はひとりぼっち」を見に行ったのだけど、あまり混んでいないので少し意外だった。

私にとってのアラン・ドロン3本を選ぶとしたらこの3本なので、まさにドンピシャリのセレクト。3本とも十代前半にテレビで見た。当時のテレビの洋画劇場は吹替&カットされているので、「太陽がいっぱい」は大学生のときにリバイバルで見た。他の2本はレンタルビデオで見たような気がするが、記憶が定かではない。いずれにしろ、見てから数十年はたっている。

「冒険者たち」と「太陽はひとりぼっち」はとにかく好きで、「太陽はひとりぼっち」なんか、まだ中学生だったのに、アンニュイだの愛の不毛だのに惹かれて、その映像美に魅せられた。

それに比べると、「太陽がいっぱい」は名作中の名作ではあるけれど、好みという点からすると、他の2本ほどではなかった。

いつの頃からか、「太陽がいっぱい」はゲイ映画として語られるようになって、検索すると、ゲイ映画として語るか、ゲイ映画ではないとして語るか、みたいな記事がいくつも出てくる。今回久々に見て、ゲイをにおわせるセリフや描写はないと思ったが、同性愛だったパトリシア・ハイスミスの原作ではトム・リプリーがゲイであるように描かれているそうだ(中学生の頃に原作を読んだときはそんなことまったくわからなかったが)。ただ、監督のルネ・クレマンはゲイの要素を入れたつもりはなかったという。

なので、「太陽がいっぱい」がゲイ映画、というのはあくまで深読み、裏読みであって、そういう見方も面白いが、表の意味ではない、ということは確かだと思う。

ただ、中学生のときにテレビでこの映画が放送された翌日、学校では女子の間でこの映画が話題になった。当時はまだBLの元祖であるやおいやJUNEもなかった時代だったけれど、あのときのまわりの女子の関心が、トム(アラン・ドロン)とフィリップ(モーリス・ロネ)の関係にあったのは確かで、女子のBL好きの源流がこのときすでにあった。中学の友人で、「ハムレット」の主人公と親友の関係に惹かれていた人がいたし、高校時代には「アラビアのロレンス」のゲイだったロレンスに惹かれる女子もいた。

今、あらためて映画を見直すと、トムとフィリップの関係はホモソーシャルの腐れ縁だ。1980年代くらいまではホモソーシャルもトランスジェンダーもホモセクシュアルと混同されていた、というか、ホモソーシャルとかトランスジェンダーという概念がまだきちんとできていなかったので、ホモセクシュアルと一緒にされていた、ということがあったのではないかと思う。

ホモソーシャルについては男の友情として表現されていたが、その関係にBL的な要素を見出してうっとりする女子というのは確かに存在した。

一方、男の友情というよりは腐れ縁のホモソーシャルもあって、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」なんかはそっちの方で、これも女子には実はBL的に受けた面がある。

そしてこの「太陽はいっぱい」は友情は完全にない腐れ縁。トムとフィリップの関係は主人と下僕。これもBL要素っちゃそうなんだが。

「太陽がいっぱい」がゲイ映画だとして言われるシーンに、トムがフィリップの服を着て鏡に向かってフィリップのせりふを言うシーンがある。表の意味は、トムはフィリップになりたい、貧しい身分から富豪の息子になりかわりたい、ということなのだけれど、男が別の男の服を着るシーンに同性愛的要素がある、というのはほかにも例がある。「アラビアのロレンス」で、トルコの将軍から拷問と性的虐待を受けたロレンスが、そのあと、アリと語り合うシーンでアリの毛皮を着る。そして、この毛皮をもらっていいか、とアリにきく。ロレンスとアリの、ちょっとBL的なシーンである。

また、トムはフィリップをナイフで突き刺すが、「ロミオとジュリエット」の最後にジュリエットが「私をさやにして」と言ってナイフを胸に突き刺すシーンのように、ナイフを突き刺すのは性交の暗示でもある。

というわけで、裏読みは可能なのだ。あくまで裏読みであるが。

フィリップの死体がヨットにからみついていたという有名なラストシーンは、2人の腐れ縁を示すわけだが、ここも裏読みは可能、ではあるけれど、私が注目したのは最後のショット。黒っぽい色の帆のヨットが海に浮かんでいる。

黒い帆といえば、思い出すのは「トリスタンとイゾルデ」の結末。イゾルデが乗船していれば白い帆、そうでなければ黒い帆だったが、白い帆を黒い帆と言われ、トリスタンが絶望して死ぬ。

ラストの黒っぽい帆のヨットは「太陽がいっぱいだ」と言い、呼ばれて笑顔で立ち上がるトムに対する凶兆なのだろうが、これも深読み、裏読みが可能かもしれない。

このほか、フラ・アンジェリコの画集が出てきたのが興味深かったが、「受胎告知」の絵が映像のモチーフになっているという指摘のブログを見つけた。ただ、説明があまりうまくなくて、なるほど、というまでにはならなかったが、見る人が見ればわかるのだろう。


「太陽はひとりぼっち」はモニカ・ヴィッティが主役で、ドロンは脇役という感じ。

「太陽がいっぱい」はドロンのサイコパス演技がすごくて、特に目のアップがよくあるのだけど、その目がイッている。他の映画のドロンはこんな目はしてないので、演技であり演出だろう。

「太陽はひとりぼっち」のドロンは株式仲買人で、後半、ヴィッティと恋に落ちるのだが、オフィスに戻ってはずされた受話器をひとつひとつかけていくと、それで恋は終わり、現実になってしまう。

はるか昔に見たときのように、映像が魅力的で、当時はSFチックな都市の映像と思ったが、今見ると60年代のSFチックな風景。ラストの街灯にFINEは覚えていた。

喧騒と静寂。特にラスト近く、静寂で描かれていた都市の風景の騒音が解き放たれ、また静寂に戻る。この映画も深読みや裏読みがいろいろできそうな作品。

「冒険者たち」はまたのちほど。