「冒険者たち」について、最後までネタバレ大有りで解説しています。未見の方はご注意ください。
ジョアンナ・シムカス演じるレティシアが鉄くずを探すシーンをえんえんと映すメインタイトル。それにかぶさる口笛の「レティシアのテーマ」。まるで映画そのものがレティシアに恋しているかのようなファーストシーン。
映画はツッコミどころ満載なのである。
マヌー(アラン・ドロン)は曲芸飛行がしたいならもっとまともなところに雇われてやればいいのに。
ローラン(リノ・ヴァンチュラ)はレーシングカーのエンジン開発に血道をあげているけれど、大企業に勝てっこないだろうに。
鉄くずでアートを作るレティシアは、作品を専門家に見てもらうとか、公募展に出すとかしてから個展を開けばいいのに、いきなり貯金をはたいて個展を開き、批評家に酷評されてしまう。
コンゴの海に沈む富豪の全財産をねらうギャングのような連中は、お金を使ってダイバーを雇って探せばいいのに、たまたま素人が見つけたあとに横取りするとか。
でも、そんなことは気にならないのだ。
マヌーもローランもレティシアも、大人になれない子どもなのである。
自分には飛行機しかない、と言いながら、危ない橋を渡って免許はく奪になってしまうマヌー。エンジンで特許がとれて儲かるという実現性の薄い夢を追いかけるローラン。個展を開きさえすればアーティストとして認められると単純に考えているレティシア(これは創作家にはあるあるなのだが)。
でも、子どもみたいに夢を追い、冒険する3人は無邪気でほほえましい。彼らはまだ子どもなのだ。だから、まだお互い、男女としての意識がない。カジノへ出かけたマヌーとローランは、一緒に連れていったレティシアを忘れて2人だけで帰ってしまう。この段階ではまだ、2人はレティシアを異性として意識していない。レティシアもそれは同じで、彼女は2人の男と唇ではなく頬にキスしている。
お金を失った3人は、コンゴの海に富豪の全財産が沈んでいるという話を信じ、コンゴへ向かう。当時、アフリカ諸国は次々と独立していて、支配者だった白人は逃げ出していた。ベルギー人の富豪は全財産持って飛行機に乗ったが、途中で墜落、富豪とパイロットは死んだと思われていた。
3人は沖合にヨットを出して宝探しをする。この段階でもまだ、3人は性差を気にしない無邪気な幼い子どものようで、楽しげにはしゃいでいる。結末を知っていると胸が痛くなるのだが。
しかし、3人の楽園に男が侵入してくると、世界は一変する。男は墜落した飛行機のパイロットで、実は生きていたのだ。墜落場所を知っている、と彼は言う。
このパイロットがアダムとイヴの楽園に侵入した蛇(サタン)なのは明らかだ。蛇がアダムとイヴに知恵を与えたように、彼は宝のありかを教える。知恵の木の実を食べたアダムとイヴが無垢ではなくなったように、マヌーとローランとレティシアも、それまでのような無邪気な子どもではなくなる。3人はそれぞれ、相手を男または女として意識するようになる。
もっともパイロットは悪人ではない。むしろ善人だということがあとでわかる。
宝を発見したあと、マヌーはレティシアに「一緒に暮らそう」と愛の告白をするが、レティシアはそれをはぐらかす。そのあと、彼女はローランに「あなたと暮らしたい」と愛の告白をするが、ローランは「マヌーはどうするんだ」と返す。パイロットはマヌーがレティシアを愛していることを察している。
レティシアが銃撃戦で流れ弾に当たって死んでしまったとき、マヌーは原因を作ったパイロットに激怒する。それに対し、ローランは冷静に対処する。マヌーはレティシアを熱愛していたが、ローランはそれほどではなかったのか。自分は中年だから、若いレティシアには似合わないと思っていたのかもしれない。
パイロットはレティシアの死に責任を感じ、また、彼女を愛していたマヌーに申し訳ないという気持ちがあったのだろう。後半、彼は自分の命を犠牲にしてマヌーを守ろうとする。レティシアをめぐる3人の男たちはみな、自分のエゴよりも人のことを考えていて、このあたりの男たちの心情が胸を打つ。
マヌーとローランはレティシアの故郷を訪ねる。レティシアの父はユダヤ人だったため、戦争中に強制収容所に送られ、レティシアはおじ夫婦に育てられたこと、おじ夫婦は彼女を問題児と思っていたことがわかる。幼くして父を失い、おじ夫婦の愛も受けられなかったレティシアは、中年のローランに父を求めていたのかもしれない。彼女もまた、大人になれていない女なのだ。ローランはそれがわかっていたので、マヌーのようには彼女を熱愛できなかったのではないか。
その後、マヌーはパリに帰り、ローランはレティシアが買いたがっていた要塞島を買って、そこに住む。マヌーがパリに帰らなければ、その後の悲劇は起きなかったかもしれない。でも、レティシアに愛されていないとわかった彼は、そこに残れなかった。一方、レティシアに愛されていたローランは、そこに残った。
財宝を狙うギャングたちがマヌーのあとをつけてローランの要塞島へやってくる、というのがこの映画のクライマックス。戦いに勝ったローランが瀕死のマヌーのところへ行き、「レティシアはおまえと暮らしたいと言っていた」というと、マヌーは「嘘つきめ」と言って息絶える。カメラは俯瞰になり、要塞島の2人を映す。このシーンを、かつて、ある評論家が「大人になれない男2人は子宮の中に戻ってしまった」と書いたが、まさにそのとおりだと思う。
でも、この映画が子どもっぽい夢と冒険を追いかける大人になれない男女を否定しているとは、私は思わない。
要塞島に案内してくれたのはレティシアのいとこの少年だったが、彼は博物館のガイドで、初めてマヌーとローランに会ったとき、博物館を案内する。展示品についてものすごく詳しい少年を見て、ローランは、簡単な掛け算の質問をするが、少年は答えられない。
マヌーもローランもレティシアも、そしてこの少年も、自分の好きなことはとことんやるが、それ以外はからきしだめなのである。最低限の知識や常識も欠けているところがある。ローランが掛け算の質問をしたのは、それを確認するためだったのでは?
でも、博物館の管理人になりたいと言う少年は、マヌーやローランやレティシアよりは堅実に、夢と冒険を追う人生を送るかもしれない。
最後に、「太陽がいっぱい」のような裏読みをすると、マヌーはレティシアを愛し、レティシアはローランを愛していたが、ローランはマヌーを愛していた、という解釈もできる。
もちろん、ローランはレティシアが好きだったし、マヌーを親友として愛していただろう。
ローランの最後の嘘は、マヌーへの精一杯の”愛”だったに違いない。「嘘つきめ」と答えたマヌーも、それを理解して死んだに違いない。
同性愛ではない、けれど、友情という言葉では軽すぎる。
追記
マヌーはパリにつきあっていた女性がいるが、ローランには女性の影はない。ローランは性愛に無関心なタイプとも考えられる。