地元の図書館に登録し、ネットで本を予約して近くの分館で受け取る、ということを試してみた。
今はどの町の図書館もあちこちの分館にいろいろな本を分散させている。以前は図書館の場所がどこも便利な地域だったのでネットで予約せずにそれぞれの図書館に出かけて借りていたが、今の町はJRのターミナル駅の近くと住んでいるところの近く以外はとても行けない。
で、ネットで検索したら、読みたい本がすべて借りられる状態だったので、まとめて予約。昨日今日で一気に読んだ。
「ルドルフとイッパイアッテナ」の3巻目と4巻目、それに作者の斉藤洋の童話作家に関するエッセイも借りて読んだ。
「ルドルフ」は1巻目と2巻目(映画の原作)は文庫で買って読んだが、どちらも80年代の作品。が、3巻目の「ルドルフとゆくねこくるねこ」は2002年、4巻目の「ルドルフとスノーホワイト」は2012年に発行されている。物語の中の時間は最初からあまりたっていないのに、本の発行はかなり間があいている。
「ルドルフ」シリーズはやはり1巻目の「ルドルフとイッパイアッテナ」が一番出来がよくて、2巻目の「ルドルフともだちひとりだち」もいいけれど、こちらは映画の方がうまいなと思う。前にも書いたけど、作者の立場が不安定な時期に書かれた1巻目が一番切実な感じがして、作者が安定してしまった2巻目はやはりそのあたりの切実さが失われた感じがする。
そして10年以上のブランクをあけた3巻目「ルドルフとゆくねこくるねこ」は、江戸川の川向こうに凶暴な犬が現れ、犬や猫を襲うというので、川向こうの猫たちがルドルフとイッパイアッテナに応援を頼む。結局、イッパイアッテナだけが川向こうへ行くことになり、ルドルフはブッチーや、川向こうの猫テリーと一緒に待つことに。その間のこの3匹の物語が中心になる。
大筋は凶暴な犬とルドルフたちの戦いで、その伏線がきちんと張られているけど、その大筋の間にある無関係なエピソードが面白い。
特にルドルフたちが浅草の浅草寺に行き、そこで偶然、岐阜から来たリエちゃんと再会。しかし、リエちゃんはルドルフを覚えておらず、友達から「リエちゃんのルドに似てる」と言われると、「うちのルドの方がかわいい」と言って、ルドルフ大ショック、という話。
そのあとすぐにリエちゃんとはぐれてしまい、ルドルフ自身、すぐにはリエちゃんとわからなかったこと、リエちゃんも小学生から中学生になっていて、思い出の中のリエちゃんとは少し違っていたこと、など、なかなかにじーんと来るエピソードなのであります。
これに、ブッチーの飼い主の金物屋が店をたたんで茨城へ行くことになり、ブッチーは残ることを決意、そして、ブッチーに恋人がいることがわかる、といったブッチーのエピソードがもう1つの中心となる。
こんな具合で、イッパイアッテナは最初と最後しか出てこないが、この2つのエピソードと、留守番中の3匹の猫のやりとりが楽しい。
ただ、野良猫か飼い猫かみたいな議論はやっぱり作者が安定しているせいか、切実さを感じない。
最後に、イッパイアッテナが川向こうで恋人ができたみたいなのだけれど、これは次の4巻目には生かされていない。
それからさらに10年のブランクをあけて発表された「ルドルフとスノーホワイト」。
こちらは前半が別のテリトリーでけがをしたブッチーの敵討ちにルドルフが出かけ、そこで女ボスのスノーホワイトに出会う物語。後半が、恋人と結婚して3児の父となったブッチーの娘チェリーが行方不明になり、ルドルフとスノーホワイトが探しに行く物語。つながりはあるとはいえ、2本立てなので、求心力が劣る感じは否めない。ことわざがいろいろ出てきて、ユーモアで笑わせるところも多いけれど、全体に、ヤクザの縄張り争いみたいな話になっているのが残念というか、「ルドルフ」シリーズにはそぐわない感じがするのだが。イッパイアッテナもスノーホワイトも、そしてルドルフも言葉が悪くなっているし(イッパイアッテナはもともと悪いのだが、今回はさらに悪く感じる)。
そんなわけで、4巻目が少し後味が悪かったので、もう一度3巻目を読みなおしたのでした。
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2016年8月31日水曜日
2016年8月26日金曜日
「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者
「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者・斉藤洋が亜細亜大学の教授(独文学者)であることを知り、驚くとともになるほどと思うところがあった。
なんでも斉藤氏は大学院を出て非常勤講師をしていたとき、お金がほしくて文学賞に応募することを考え、初めて書いた「ルドルフとイッパイアッテナ」でみごと受賞。が、翌年、専任講師の職に就き、童話作家と大学教師の二足のわらじをはくことになったのだとか。
つまり、大学院を出てすぐに専任講師になれていたら、童話作家にならなかったかもしれない?
しかし、この人、大学教員になったあともものすごくたくさんの童話を書いている。こんなに次々と書けるというのは並大抵のことではない。
最近ずっと奥田英朗の小説を読んでいて、今は「サウスバウンド」を読んでいるのだけど(ものすごく面白い)、奥田氏が岐阜の出身で、ほかにも岐阜出身の作家の本を読んだので、斉藤氏も岐阜の出身かと思ったら、イッパイアッテナの住む江戸川区北小岩の出身だった。でも、岐阜ともなんらかの接点はあるのだろう。
それにしても、斉藤氏が非常勤講師をしていて、将来が不安なときに「ルドルフとイッパイアッテナ」を書いたと知ると、いろいろわかることがある。
原作ではイッパイアッテナは飼い主がアメリカに行ってしまい、野良猫になると、それまで親しくしていた飼い猫たちから差別されるようになる。隣の家の飼い犬デビルとも仲良しだったのに、デビルもイッパイアッテナに意地悪をするようになる。ブッチーだけが野良猫を差別しない飼い猫として描かれる。
私も非常勤講師を長年やっていて、ついに専任になれなかったのでわかるのだが、大学院を出て研究職をめざした場合、まわりがどんどん専任になっていくのに自分だけいつまでも非常勤だとつらい。専任になった人たちは私に比べて優秀なわけではないと私は確信していたし、専任になれた人も優秀さでなれたわけではない思っていたが、それでも専任になった人は別世界に行ってしまい、非常勤の自分は同じ職場にいても差別されるというか、まともな人間として扱ってもらえない。
口では、専任になると大変よ、非常勤の方が自由でいいわよ、あなたは特に雑誌に映画評書いてるんだし、と言うが、実際は彼らは専任になれたというだけで優越感なのだ。そして、自分が専任になれたことを正当化するために、こちらを傷つけることを平気で言う。
その一方で、イッパイアッテナのような、飼い猫とは違う自由さを満喫しなかったと言えばうそになる。生活は苦しいが自由だった。組織や上の人に縛られることもなかった。
映画の後半の原作「ルドルフともだちひとりだち」では、イッパイアッテナの飼い主が帰国し、その家にルドルフも住めるようになる。しかし、自分の主人はやはりリエちゃんだと思うルドルフは岐阜に帰る決意をする(ここは映画とは違う)。このあたりは、童話作家と専任講師の両方になれてしまった作者の思いがあらわれているのだろうか。イッパイアッテナも、飼い主が戻ってきたが、俺は俺だと言う。そのあたりに2つのものを手に入れてしまった作者の立場が透けて見える。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は野良として生きる猫たちの決意がにじみ出ているが、続編の「ルドルフともだちひとりだち」では彼らは住む家を手に入れている。作者が専任講師になれなかったら、どういう話に変わっただろうか。
斉藤氏はプロットを立てずに物語を転がしていくタイプらしい。これは奥田英朗とまったく同じだ。そして、重要なことは細部に宿ると考えているようだが、これも奥田氏とまったく同じ。奥田氏はこの手法で小説を書くことのつらさを「野球の国」で書いているが、童話を量産している斉藤氏には奥田氏のような悩みはないのだろうかと思う。ただ、どちらも先が見えない展開で細部を重視ということは作品からはっきりと読み取れる。
なんでも斉藤氏は大学院を出て非常勤講師をしていたとき、お金がほしくて文学賞に応募することを考え、初めて書いた「ルドルフとイッパイアッテナ」でみごと受賞。が、翌年、専任講師の職に就き、童話作家と大学教師の二足のわらじをはくことになったのだとか。
つまり、大学院を出てすぐに専任講師になれていたら、童話作家にならなかったかもしれない?
しかし、この人、大学教員になったあともものすごくたくさんの童話を書いている。こんなに次々と書けるというのは並大抵のことではない。
最近ずっと奥田英朗の小説を読んでいて、今は「サウスバウンド」を読んでいるのだけど(ものすごく面白い)、奥田氏が岐阜の出身で、ほかにも岐阜出身の作家の本を読んだので、斉藤氏も岐阜の出身かと思ったら、イッパイアッテナの住む江戸川区北小岩の出身だった。でも、岐阜ともなんらかの接点はあるのだろう。
それにしても、斉藤氏が非常勤講師をしていて、将来が不安なときに「ルドルフとイッパイアッテナ」を書いたと知ると、いろいろわかることがある。
原作ではイッパイアッテナは飼い主がアメリカに行ってしまい、野良猫になると、それまで親しくしていた飼い猫たちから差別されるようになる。隣の家の飼い犬デビルとも仲良しだったのに、デビルもイッパイアッテナに意地悪をするようになる。ブッチーだけが野良猫を差別しない飼い猫として描かれる。
私も非常勤講師を長年やっていて、ついに専任になれなかったのでわかるのだが、大学院を出て研究職をめざした場合、まわりがどんどん専任になっていくのに自分だけいつまでも非常勤だとつらい。専任になった人たちは私に比べて優秀なわけではないと私は確信していたし、専任になれた人も優秀さでなれたわけではない思っていたが、それでも専任になった人は別世界に行ってしまい、非常勤の自分は同じ職場にいても差別されるというか、まともな人間として扱ってもらえない。
口では、専任になると大変よ、非常勤の方が自由でいいわよ、あなたは特に雑誌に映画評書いてるんだし、と言うが、実際は彼らは専任になれたというだけで優越感なのだ。そして、自分が専任になれたことを正当化するために、こちらを傷つけることを平気で言う。
その一方で、イッパイアッテナのような、飼い猫とは違う自由さを満喫しなかったと言えばうそになる。生活は苦しいが自由だった。組織や上の人に縛られることもなかった。
映画の後半の原作「ルドルフともだちひとりだち」では、イッパイアッテナの飼い主が帰国し、その家にルドルフも住めるようになる。しかし、自分の主人はやはりリエちゃんだと思うルドルフは岐阜に帰る決意をする(ここは映画とは違う)。このあたりは、童話作家と専任講師の両方になれてしまった作者の思いがあらわれているのだろうか。イッパイアッテナも、飼い主が戻ってきたが、俺は俺だと言う。そのあたりに2つのものを手に入れてしまった作者の立場が透けて見える。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は野良として生きる猫たちの決意がにじみ出ているが、続編の「ルドルフともだちひとりだち」では彼らは住む家を手に入れている。作者が専任講師になれなかったら、どういう話に変わっただろうか。
斉藤氏はプロットを立てずに物語を転がしていくタイプらしい。これは奥田英朗とまったく同じだ。そして、重要なことは細部に宿ると考えているようだが、これも奥田氏とまったく同じ。奥田氏はこの手法で小説を書くことのつらさを「野球の国」で書いているが、童話を量産している斉藤氏には奥田氏のような悩みはないのだろうかと思う。ただ、どちらも先が見えない展開で細部を重視ということは作品からはっきりと読み取れる。
試写のハシゴと3回目の「ルドルフ」
水曜日は久々、六本木で試写のハシゴ。
木曜日はシネコンで3回目の「ルドルフとイッパイアッテナ」。
さすがに3回も見る必要はないんじゃない?とは思ったのですが、前回見た後、やはり後ろ髪をひかれるというか、また見たいという気持ちが強くて、出かけました。
さすがに前半はもう、これで打ち止めにできるかな、と思ったのですが、後半になるとどんどん涙腺がゆるんできて、最後はまた見たいという気持ちに。
これって、たぶん、昔だったら入れ替え制ではないので、そのまま座ってもう1回見て、それで満足できたのだと思うのですが、入れ替え制で出なければいけない、というのが後ろ髪になってしまうような気がします。
見るごとに発見があり、新しい感想があるので、何度見ても損はないのですが。
今回気づいたのは、昼から夜とか夜から朝とかいった1日の光の変化。1年の季節の変化も美しいけれど、この1日の光の変化もかなりうまいです。
シーンと音楽もよく合っていて、特に好きなのが、ルドルフが岐阜へ行くためにトラックに乗り、仲間との別れをかみしめたあと、きっと目を見開くシーンで、ここで音楽ががらっと変わり、シーンの雰囲気も変わるというところ。イッパイアッテナと一緒に覚えた地名が目の前に次々と見えてくるというシークエンスもいい。
あと、ルドルフが口を開けたときに小さい白い歯が見えるのがかわいいんですよ。
ルドルフが岐阜から帰ってきて、イッパイアッテナと再会したとき、張りつめていた糸が切れるみたいに号泣して、それをイッパイアッテナが黙って見ているシーン。ここでイッパイアッテナはルドルフが何を経験したか、言わなくてもわかったんだな、と思いました(原作ではイッパイアッテナは最初からそれを予想していたと書いてある)。
イッパイアッテナがケガをしたとき、お互いにわかっているのに彼とルドルフが嘘を言ってごまかすシーンとか、ここは原作どおりなんだけど、言わなくてもわかる、みたいなあうんの呼吸があるんですね。これはけっこう日本的かもしれない。
というわけで、4回目も行きそうです。
映画館は相変わらずガラガラで、1回目は30人くらい、2回目は10人くらいで、今回は一桁だったみたい。これでよく続映してるな。来週もまだ1日5回くらいやるみたいだし。
さて、試写で見たのはジョン・ル・カレ原作の「われらが背きし者」と、アトム・エゴヤン監督の「手紙は憶えている」です。
ル・カレの翻訳は長年、早川書房から出ていたけれど、途中で集英社に移り、この「われらが背きし者」はなんと岩波書店。翻訳者もミステリーの人から大学教授に変更。やっぱり岩波は大学教授じゃないと翻訳出せないのか。岩波に移った時点で、ル・カレはミステリーではなく純文学にします、と宣言したようなものか。翻訳出版権料とか、翻訳業界とかの大人の事情をなんとなく想像してしまいます。
原作は読んでいませんが(例によって難解らしい)、映画は非常にわかりやすいです。わかりやすい分軽い感じになってますが、最後は一度は悪が勝ったように見えて、そのあと逆転が、という感じ。原作はもっと暗いかもしれません。役者はうまい人がそろっているので、そこそこ見応えはあります。
「手紙は憶えている」はアウシュヴィッツの収容所の責任者だったドイツ人が身分を偽ってアメリカに住んでいるので、収容所の囚人だった老人2人が復讐を試みる、という話。1人は車椅子で自由に外に出られないので、もう1人の老人が彼の指示に従ってそのドイツ人を探すが、彼の方は認知症を患っているので、物忘れがひどい、という設定。
最後の5分間でどんでん返しがある、とプレスやチラシに書いてあるのですが、そのどんでん返しは最初から予想がついてしまいます。むしろ、注目すべきは主人公が旅の過程で出会う人々。
復讐すべき相手は名前しかわからないので、その名前の老人を次々と訪ねるのですが、ある者は戦争中はアフリカ戦線にいたが、戦後になってホロコーストの事実を知り、ショックを受けた、と言う。別の者はアウシュヴィッツにいたドイツ人だが、同性愛者なので収容所に入れられたことがわかる。さらには別の者は戦争中は十代の少年で、そのとき以来ナチスの信奉者になり、その影響で息子もナチ信奉者になっている。そして収容所の責任者だったドイツ人は家族にその事実を知られることを恐れている。そしてそのあと、意外というか、予想していたとおりのどんでん返しがあるのですが、それはともかく、ホロコーストの時代のドイツ人たちにもさまざまな人がいたことを示す内容になっています。特にアウシュヴィッツの責任者だったドイツ人が決して冷血な人ではなく、むしろ過去を葬り去ろうとしている普通の人間として描かれている点が興味深い。過去を葬り去るということはその「意外な結末」とも大いに関係しているし、原題の「Remember」もまさにその過去を思い出せと言っているわけです。ラスト、マーティン・ランドー演じる車椅子の男の目に浮かぶ涙も、単に復習に成功したからというだけではないように思います。
北米の名優クリストファー・プラマーとランドー、ドイツの名優ブルーノ・ガンツとユルゲン・プロホノフの4人の演技が映画をしっかりと支えています。
木曜日はシネコンで3回目の「ルドルフとイッパイアッテナ」。
さすがに3回も見る必要はないんじゃない?とは思ったのですが、前回見た後、やはり後ろ髪をひかれるというか、また見たいという気持ちが強くて、出かけました。
さすがに前半はもう、これで打ち止めにできるかな、と思ったのですが、後半になるとどんどん涙腺がゆるんできて、最後はまた見たいという気持ちに。
これって、たぶん、昔だったら入れ替え制ではないので、そのまま座ってもう1回見て、それで満足できたのだと思うのですが、入れ替え制で出なければいけない、というのが後ろ髪になってしまうような気がします。
見るごとに発見があり、新しい感想があるので、何度見ても損はないのですが。
今回気づいたのは、昼から夜とか夜から朝とかいった1日の光の変化。1年の季節の変化も美しいけれど、この1日の光の変化もかなりうまいです。
シーンと音楽もよく合っていて、特に好きなのが、ルドルフが岐阜へ行くためにトラックに乗り、仲間との別れをかみしめたあと、きっと目を見開くシーンで、ここで音楽ががらっと変わり、シーンの雰囲気も変わるというところ。イッパイアッテナと一緒に覚えた地名が目の前に次々と見えてくるというシークエンスもいい。
あと、ルドルフが口を開けたときに小さい白い歯が見えるのがかわいいんですよ。
ルドルフが岐阜から帰ってきて、イッパイアッテナと再会したとき、張りつめていた糸が切れるみたいに号泣して、それをイッパイアッテナが黙って見ているシーン。ここでイッパイアッテナはルドルフが何を経験したか、言わなくてもわかったんだな、と思いました(原作ではイッパイアッテナは最初からそれを予想していたと書いてある)。
イッパイアッテナがケガをしたとき、お互いにわかっているのに彼とルドルフが嘘を言ってごまかすシーンとか、ここは原作どおりなんだけど、言わなくてもわかる、みたいなあうんの呼吸があるんですね。これはけっこう日本的かもしれない。
というわけで、4回目も行きそうです。
映画館は相変わらずガラガラで、1回目は30人くらい、2回目は10人くらいで、今回は一桁だったみたい。これでよく続映してるな。来週もまだ1日5回くらいやるみたいだし。
さて、試写で見たのはジョン・ル・カレ原作の「われらが背きし者」と、アトム・エゴヤン監督の「手紙は憶えている」です。
ル・カレの翻訳は長年、早川書房から出ていたけれど、途中で集英社に移り、この「われらが背きし者」はなんと岩波書店。翻訳者もミステリーの人から大学教授に変更。やっぱり岩波は大学教授じゃないと翻訳出せないのか。岩波に移った時点で、ル・カレはミステリーではなく純文学にします、と宣言したようなものか。翻訳出版権料とか、翻訳業界とかの大人の事情をなんとなく想像してしまいます。
原作は読んでいませんが(例によって難解らしい)、映画は非常にわかりやすいです。わかりやすい分軽い感じになってますが、最後は一度は悪が勝ったように見えて、そのあと逆転が、という感じ。原作はもっと暗いかもしれません。役者はうまい人がそろっているので、そこそこ見応えはあります。
「手紙は憶えている」はアウシュヴィッツの収容所の責任者だったドイツ人が身分を偽ってアメリカに住んでいるので、収容所の囚人だった老人2人が復讐を試みる、という話。1人は車椅子で自由に外に出られないので、もう1人の老人が彼の指示に従ってそのドイツ人を探すが、彼の方は認知症を患っているので、物忘れがひどい、という設定。
最後の5分間でどんでん返しがある、とプレスやチラシに書いてあるのですが、そのどんでん返しは最初から予想がついてしまいます。むしろ、注目すべきは主人公が旅の過程で出会う人々。
復讐すべき相手は名前しかわからないので、その名前の老人を次々と訪ねるのですが、ある者は戦争中はアフリカ戦線にいたが、戦後になってホロコーストの事実を知り、ショックを受けた、と言う。別の者はアウシュヴィッツにいたドイツ人だが、同性愛者なので収容所に入れられたことがわかる。さらには別の者は戦争中は十代の少年で、そのとき以来ナチスの信奉者になり、その影響で息子もナチ信奉者になっている。そして収容所の責任者だったドイツ人は家族にその事実を知られることを恐れている。そしてそのあと、意外というか、予想していたとおりのどんでん返しがあるのですが、それはともかく、ホロコーストの時代のドイツ人たちにもさまざまな人がいたことを示す内容になっています。特にアウシュヴィッツの責任者だったドイツ人が決して冷血な人ではなく、むしろ過去を葬り去ろうとしている普通の人間として描かれている点が興味深い。過去を葬り去るということはその「意外な結末」とも大いに関係しているし、原題の「Remember」もまさにその過去を思い出せと言っているわけです。ラスト、マーティン・ランドー演じる車椅子の男の目に浮かぶ涙も、単に復習に成功したからというだけではないように思います。
北米の名優クリストファー・プラマーとランドー、ドイツの名優ブルーノ・ガンツとユルゲン・プロホノフの4人の演技が映画をしっかりと支えています。
2016年8月18日木曜日
モルモット吉田の「シン・ゴジラ」評
これはすばらしい。映画技法としての「シン・ゴジラ」評。
http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2491.html
実は私、庵野監督ってよく知らないんですよ。エヴァとか見てないし。
しかし、この映画評は庵野監督の映画製作の方法から「シン・ゴジラ」を分析していて、なかなかに面白かった。
アニメを作るようにして実写映画を作ったとか、アニメのキャラのような演技をする俳優を使ったとか、目から鱗ですね。
確かに、石原さとみは日系人に見えないけど、その理由は英語が下手だからじゃなくて、日本語がうますぎること、そして、日本人ののっぺりとした顔だからなんです。
そういえば、日本のアニメって、欧米人のキャラも日本人ふうののっぺりした顔ですね。
また、もう1人のヒロイン、女性科学者の尾頭ひろみもまさにアニメや漫画のキャラです。彼女が人気なのもわかる(私も好きです)。
前半のユーモラスなシーンや、セリフがやたら早口とか、途中でセリフが以下略みたいになる感じとか、私はそこが面白くて好きなんですが、これは実写映画のリアリズムではない。確かにアニメ、いや、むしろ漫画のリアリティに近い、とは言えます(そこがまた、私には面白かったんです)。
ゴジラの変身とかはじっくり過程を描いているのに、それに対する対策が過程省略になっている、というのも鋭い指摘です。日本人がんばるっていっても、それは荒唐無稽なファンタジーよね、と思ってしまうのはそういうところにあるのですね。
「新幹線大爆破」に言及しているのも我が意を得たりで、私も「新幹線大爆破」を連想しました。
モルモット吉田氏は最後に、映画の中心部に最初から空いていた穴を八方手を尽くして埋めた空虚感と書いていますが、この中心の穴こそ、観客が勝手に自分の思いをそこに入れてしまう空白になっているので、結果的に、この穴が映画のヒットにつながっているのです。
左派の人たちが勝手に自分の思いを入れ込んでしまうのもそこなんです。
だから、この空虚感は映画にとって欠点ではなく、むしろ利点になっていると思います。
私がこの映画にカタルシスを感じたり、多少の感動を覚えたりしても、それでリピーターにならないのもそのせいです。本物の感動は「ルドルフとイッパイアッテナ」の方にあるのです。
この映画評は納得できるものでした。そして、最後に否定的にとらえている部分も、実は長所なのだと、私は思います。私が「シン・ゴジラ」にこだわっていて、好きなのは、まさにここに書かれている要素なのです。
http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2491.html
実は私、庵野監督ってよく知らないんですよ。エヴァとか見てないし。
しかし、この映画評は庵野監督の映画製作の方法から「シン・ゴジラ」を分析していて、なかなかに面白かった。
アニメを作るようにして実写映画を作ったとか、アニメのキャラのような演技をする俳優を使ったとか、目から鱗ですね。
確かに、石原さとみは日系人に見えないけど、その理由は英語が下手だからじゃなくて、日本語がうますぎること、そして、日本人ののっぺりとした顔だからなんです。
そういえば、日本のアニメって、欧米人のキャラも日本人ふうののっぺりした顔ですね。
また、もう1人のヒロイン、女性科学者の尾頭ひろみもまさにアニメや漫画のキャラです。彼女が人気なのもわかる(私も好きです)。
前半のユーモラスなシーンや、セリフがやたら早口とか、途中でセリフが以下略みたいになる感じとか、私はそこが面白くて好きなんですが、これは実写映画のリアリズムではない。確かにアニメ、いや、むしろ漫画のリアリティに近い、とは言えます(そこがまた、私には面白かったんです)。
ゴジラの変身とかはじっくり過程を描いているのに、それに対する対策が過程省略になっている、というのも鋭い指摘です。日本人がんばるっていっても、それは荒唐無稽なファンタジーよね、と思ってしまうのはそういうところにあるのですね。
「新幹線大爆破」に言及しているのも我が意を得たりで、私も「新幹線大爆破」を連想しました。
モルモット吉田氏は最後に、映画の中心部に最初から空いていた穴を八方手を尽くして埋めた空虚感と書いていますが、この中心の穴こそ、観客が勝手に自分の思いをそこに入れてしまう空白になっているので、結果的に、この穴が映画のヒットにつながっているのです。
左派の人たちが勝手に自分の思いを入れ込んでしまうのもそこなんです。
だから、この空虚感は映画にとって欠点ではなく、むしろ利点になっていると思います。
私がこの映画にカタルシスを感じたり、多少の感動を覚えたりしても、それでリピーターにならないのもそのせいです。本物の感動は「ルドルフとイッパイアッテナ」の方にあるのです。
この映画評は納得できるものでした。そして、最後に否定的にとらえている部分も、実は長所なのだと、私は思います。私が「シン・ゴジラ」にこだわっていて、好きなのは、まさにここに書かれている要素なのです。
2016年8月17日水曜日
リピーターしてきた。
先週シネコンで見た映画のリピーターをしてきた。
映画館で見た映画をリピーターするのって、おそらく20代の頃以来。試写で見たのを映画館で見るのは時々あるけれど。
で、何をまた見に行ったかというと、
「ルドルフとイッパイアッテナ」
「シン・ゴジラ」ではありません。
「シン・ゴジラ」は何度も見るといろいろ発見がありそうだけど、何度も見たい映画ではないのだよね。
それに対し、「ルドルフとイッパイアッテナ」はとにかく好き。何度でも見たい。
絵の動きはディズニーなどと比べればそれはもう予算が違いすぎて、動きが悪いのはしかたないというか、二度目だと最初それが少し気になったけど、話が進むにつれて気にならなくなる。
しかし、この映画、なんでこんなに客少ないの?
場所によっては入っているらしいけど、近場のシネコンでは先週より狭いハコになっていて、その上お客さんは10人くらいだった。先週も30人くらいだった気がする。
舞台となる江戸川区の隣の区のシネコンですよ。ある意味、ご当地に近いのに。
シネコンが松竹系なのも関係しているのかな。
とにかく、この調子では週末から回数減らされる、と思ったので、火曜にまた見てきました。
以下、ネタバレ大有りなので、注意してください。
やっぱり二度目だと細かいところがよくわかって面白いです。
原作となった2冊「ルドルフとイッパイアッテナ」と「ルドルフともだちひとりだち」も読んだので、原作との違いもばっちり。
後半、イッパイアッテナの飼い主が戻ってくる時期が映画と原作で違います。
原作では飼い主が戻ってきてからルドルフが岐阜のリエちゃんのところへ帰りますが、映画では岐阜に帰る方が先で、この方がドラマとしてはよくできている。
ただ、原作の方がイッパイアッテナの飼い主のことがよくわかります。
あと、これは原作にないエピソードだけど、ルドルフが冷凍庫のトラックの文字を見て岐阜に行くと勘違いして乗りこんでしまうシーン。ドアが開いているとギフと書いているように見えるのですが、ドアを閉めると実は「ギブ&テイク」。で、今回よく見たら、ドアが開いていると「ギフイク」=「岐阜行く」に見えるんですね。だからルドルフが勘違いして飛び乗ってしまったのだ。
あと、ルドルフとイッパイアッテナの行く小学校の図書室に原作の単行本があったり、偉人伝の本に宮沢賢治と並んで手塚治虫があったり。
DVDになったら静止画像にして本のタイトルを見たいくらいでした。
そしてラスト近く、岐阜のリエちゃんの家に着いたルドルフが、リエちゃんの家に自分によく似た猫がいることを知るシーン。もう自分はここに戻ることはできないとルドルフが悟るシーンですが、ソファで寝ているリエちゃんがルドルフが帰って来たとは知らずにルドルフをもう1匹の猫(名前は同じルドルフ)と思って抱く。でも、ルドルフは自分からリエちゃんの手を離れるのですね。リエちゃんが手を放したのではなくて。
このシーンでリエちゃんの手しか見せないのもいいし、これ、脚本かなりうまいのではないでしょうか。棚の上にルドルフの写真と餌用の皿が置いてあって、まるで神棚みたいになっていて、それを見てルドルフが踏ん切りをつけるというのも映画のオリジナル。
劇中に流れる音楽がとてもよくて、この音楽に合わせて猫たちが行動するシーンや、岐阜に向かうルドルフが大きな目をきっと開いて道路標識を見るシーンとか、音楽とシーンがよく合っています。
1年たったときにルドルフの首が太くなっていて、体も大きくなっているとか、東京に降る雪をルドルフがじっと眺めているのは岐阜の雪を思い出しているんだろうな、とか、四季の風景も美しい。
クロネコヤマトの大和運輸が協力してますが、「魔女の宅急便」と同じタイプの黒猫の絵ですね。
1つ惜しいと思ったのは、電信柱の上にある機械、東京電力と中部電力では機械の形が違うのに、岐阜のシーンでも東電の機械の絵だったことです。原作だとリエちゃんとか、方言をしゃべってるけど、岐阜のリサーチが映画はイマイチだったのかもしれない。
でも、リピーターしてよかったというか、また見たい。今回はストーリー知っていたので、最初から泣けてしまいました。日本人好みの泣ける映画なんだけど、なんでお客さん少ないのか?
映画館で見た映画をリピーターするのって、おそらく20代の頃以来。試写で見たのを映画館で見るのは時々あるけれど。
で、何をまた見に行ったかというと、
「ルドルフとイッパイアッテナ」
「シン・ゴジラ」ではありません。
「シン・ゴジラ」は何度も見るといろいろ発見がありそうだけど、何度も見たい映画ではないのだよね。
それに対し、「ルドルフとイッパイアッテナ」はとにかく好き。何度でも見たい。
絵の動きはディズニーなどと比べればそれはもう予算が違いすぎて、動きが悪いのはしかたないというか、二度目だと最初それが少し気になったけど、話が進むにつれて気にならなくなる。
しかし、この映画、なんでこんなに客少ないの?
場所によっては入っているらしいけど、近場のシネコンでは先週より狭いハコになっていて、その上お客さんは10人くらいだった。先週も30人くらいだった気がする。
舞台となる江戸川区の隣の区のシネコンですよ。ある意味、ご当地に近いのに。
シネコンが松竹系なのも関係しているのかな。
とにかく、この調子では週末から回数減らされる、と思ったので、火曜にまた見てきました。
以下、ネタバレ大有りなので、注意してください。
やっぱり二度目だと細かいところがよくわかって面白いです。
原作となった2冊「ルドルフとイッパイアッテナ」と「ルドルフともだちひとりだち」も読んだので、原作との違いもばっちり。
後半、イッパイアッテナの飼い主が戻ってくる時期が映画と原作で違います。
原作では飼い主が戻ってきてからルドルフが岐阜のリエちゃんのところへ帰りますが、映画では岐阜に帰る方が先で、この方がドラマとしてはよくできている。
ただ、原作の方がイッパイアッテナの飼い主のことがよくわかります。
あと、これは原作にないエピソードだけど、ルドルフが冷凍庫のトラックの文字を見て岐阜に行くと勘違いして乗りこんでしまうシーン。ドアが開いているとギフと書いているように見えるのですが、ドアを閉めると実は「ギブ&テイク」。で、今回よく見たら、ドアが開いていると「ギフイク」=「岐阜行く」に見えるんですね。だからルドルフが勘違いして飛び乗ってしまったのだ。
あと、ルドルフとイッパイアッテナの行く小学校の図書室に原作の単行本があったり、偉人伝の本に宮沢賢治と並んで手塚治虫があったり。
DVDになったら静止画像にして本のタイトルを見たいくらいでした。
そしてラスト近く、岐阜のリエちゃんの家に着いたルドルフが、リエちゃんの家に自分によく似た猫がいることを知るシーン。もう自分はここに戻ることはできないとルドルフが悟るシーンですが、ソファで寝ているリエちゃんがルドルフが帰って来たとは知らずにルドルフをもう1匹の猫(名前は同じルドルフ)と思って抱く。でも、ルドルフは自分からリエちゃんの手を離れるのですね。リエちゃんが手を放したのではなくて。
このシーンでリエちゃんの手しか見せないのもいいし、これ、脚本かなりうまいのではないでしょうか。棚の上にルドルフの写真と餌用の皿が置いてあって、まるで神棚みたいになっていて、それを見てルドルフが踏ん切りをつけるというのも映画のオリジナル。
劇中に流れる音楽がとてもよくて、この音楽に合わせて猫たちが行動するシーンや、岐阜に向かうルドルフが大きな目をきっと開いて道路標識を見るシーンとか、音楽とシーンがよく合っています。
1年たったときにルドルフの首が太くなっていて、体も大きくなっているとか、東京に降る雪をルドルフがじっと眺めているのは岐阜の雪を思い出しているんだろうな、とか、四季の風景も美しい。
クロネコヤマトの大和運輸が協力してますが、「魔女の宅急便」と同じタイプの黒猫の絵ですね。
1つ惜しいと思ったのは、電信柱の上にある機械、東京電力と中部電力では機械の形が違うのに、岐阜のシーンでも東電の機械の絵だったことです。原作だとリエちゃんとか、方言をしゃべってるけど、岐阜のリサーチが映画はイマイチだったのかもしれない。
でも、リピーターしてよかったというか、また見たい。今回はストーリー知っていたので、最初から泣けてしまいました。日本人好みの泣ける映画なんだけど、なんでお客さん少ないのか?
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