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2018年2月11日日曜日
ふちねこ2018
去年に続いて今年もシャノアールのふちねこキャンペーンが始まりました。
去年はしばらくベローチェに行ってなかったので、気づいたのが1か月近くたったあと。結局3匹(3種類)しかゲットできず。その前の2015年秋のときは各種類を2匹ずつ以上、合計12匹ゲットしていたので、がっくり。
が、今年は開始の2月1日にたまたまベローチェに行ったおかげで、すでに3匹(2種類)ゲットしています。
今年の5種類はこれ。
今年は猫に名前がついている。
で、一番欲しかったのはお腹なめだったのですが、最初にもらいに行った店の箱にはやたらとジャンボがいっぱい(袋に入っていて中は見えないが、ジャンボは大きいのですぐわかる)。それでジャンボより小さいのを選んだらイカ耳でした。
2回目は、店員さんが箱の中を見せてくれたのですが、数が少なく、1つだけ、袋がしわしわのがあったのです。なんだろうと思い、つかんで見ると、これはお腹なめだ!とすぐわかったので、それをゲット。お腹なめも触るとわかりやすいし、しわしわってことは、店員さんによるこれが欲しい人への沈黙のメッセージだったのかも。
3回目は今日もらってきましたが、箱の中を触ってみたらどうもイカ耳ばかり? 何個目かに触ったらお腹なめだったので、これは2つあってもいいと思ってもらってきました。
まだまだ始まったばかりで在庫はかなりありそう。2匹持って行くと希望の猫1匹と交換してくれるそうなので、早めに集めて5種類ゲットしたいところです。
店によってジャンボばかりとかイカ耳ばかりとか、そういう偏りがあるのだろうか? あと、お腹なめも意外に多いのかな。今回は5種類ともみんな好きです。以前のだとはっきりはずれみたいなのがあったのだけど、今回はどれも当たり感があります。
2015年はシャノアール50周年だったので5万個、2017年はベローチェ30周年だったので3万個で、2015年は3か月くらい在庫があったのに2017年は1か月半くらいでほとんどなくなってしまった気がします。今回はいくつなのか書いてないのですが、3月31日までになっているので去年と同じ3万個かもしれません。
2018年2月10日土曜日
下町ボブスレーとクソ食らえのVサイン
ジャマイカに蹴られた下町ボブスレーの醜態が話題になっている。
数年前から下町ボブスレーの公式ツイッターが他国をバカにしたツイートや保守速報のツイートをしていたことも指摘されている。
おまけにツイッターである人が「大田区は下町じゃない。だいたい下町はよその人に対して冷たい」とかツイートしていて、下町のイメージを下落させた罪も重い。(このツイッターの人は大学の非常勤講師らしいが、けっこう間違ったことをツイートしていて、あまり知識や教養がないのか偏ってるのかだろう。)
以下の記事にあるように、下町ボブスレーは国や大企業がかかわっていて、全然下町じゃない。下町はむしろ利用された感さえある。
また、大田区は田園調布しか思いつかない人もいるかもしれないが、大森蒲田のあたりは完全な下町。昨年蒲田宝塚に「君の名は。」を見に行ったときは映画館の場所がわからず、商店街で聞いたら、ほんとに親切に教えてくれた。映画館のスタッフのおばあちゃんたちも雰囲気がよく、下町は決してよそものに冷たくない。
で、以下が下町ボブスレーの実態を伝える記事。
http://buzzap.jp/news/20180208-shitamachi-bobsleigh/
さて、上の記事にある道徳の教科書の写真、ボブスレーに乗ってVサインする安倍首相ですが、このVサイン(よく見えない場合はクリックすると産経新聞のこの記事にアクセスするので、そこでさらに写真をクリックして拡大するとよくわかる)、実は、映画「ウィンストン・チャーチル」でチャーチルがやって庶民に笑われたVサイン。
Vサインについては、ウィキペディアにこういう解説がある。
「第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利 (victory)」を意味する「V」の字を象った仕草として広く用いられた。イギリスや、それと文化的なつながりの深い地域の人々の間では、手のひらを自分の方に向ける形でこのサインを示し、相手への敵対、挑発のジェスチャーとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/V%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
つまり、手のひらを相手に向けるのが正しい用法で、自分の方に手のひらを向けると「クソ食らえ」という意味になる(と映画で解説されていた)。
で、その道徳の教科書の安倍首相のVサインは手のひらを自分に向けている。
まわりにいるのは敵ではないので、味方に対して「クソ食らえ」とやっちゃっているのだよね。
下町ボブスレーの顛末を象徴する写真になってしまったというお話。
追記 映画の試写を見た人はすぐに気づいたようで、ツイッターで書いている人がいました。字幕では「クソッタレ」じゃなくて「クソ食らえ」でしたね。訂正。
数年前から下町ボブスレーの公式ツイッターが他国をバカにしたツイートや保守速報のツイートをしていたことも指摘されている。
おまけにツイッターである人が「大田区は下町じゃない。だいたい下町はよその人に対して冷たい」とかツイートしていて、下町のイメージを下落させた罪も重い。(このツイッターの人は大学の非常勤講師らしいが、けっこう間違ったことをツイートしていて、あまり知識や教養がないのか偏ってるのかだろう。)
以下の記事にあるように、下町ボブスレーは国や大企業がかかわっていて、全然下町じゃない。下町はむしろ利用された感さえある。
また、大田区は田園調布しか思いつかない人もいるかもしれないが、大森蒲田のあたりは完全な下町。昨年蒲田宝塚に「君の名は。」を見に行ったときは映画館の場所がわからず、商店街で聞いたら、ほんとに親切に教えてくれた。映画館のスタッフのおばあちゃんたちも雰囲気がよく、下町は決してよそものに冷たくない。
で、以下が下町ボブスレーの実態を伝える記事。
http://buzzap.jp/news/20180208-shitamachi-bobsleigh/
さて、上の記事にある道徳の教科書の写真、ボブスレーに乗ってVサインする安倍首相ですが、このVサイン(よく見えない場合はクリックすると産経新聞のこの記事にアクセスするので、そこでさらに写真をクリックして拡大するとよくわかる)、実は、映画「ウィンストン・チャーチル」でチャーチルがやって庶民に笑われたVサイン。
Vサインについては、ウィキペディアにこういう解説がある。
「第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利 (victory)」を意味する「V」の字を象った仕草として広く用いられた。イギリスや、それと文化的なつながりの深い地域の人々の間では、手のひらを自分の方に向ける形でこのサインを示し、相手への敵対、挑発のジェスチャーとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/V%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
つまり、手のひらを相手に向けるのが正しい用法で、自分の方に手のひらを向けると「クソ食らえ」という意味になる(と映画で解説されていた)。
で、その道徳の教科書の安倍首相のVサインは手のひらを自分に向けている。
まわりにいるのは敵ではないので、味方に対して「クソ食らえ」とやっちゃっているのだよね。
下町ボブスレーの顛末を象徴する写真になってしまったというお話。
追記 映画の試写を見た人はすぐに気づいたようで、ツイッターで書いている人がいました。字幕では「クソッタレ」じゃなくて「クソ食らえ」でしたね。訂正。
もうイギリスの階級について解説することもないのかなあ
ツイッターで、英文学を理解するにはイギリスの階級を理解しないとだめ、みたいなツイートがあり、それがトゥゲッターにもなっていた。
学生がイギリスの階級をどうしても理解できないのでチャートを作った、といってネットにあげているのだが、私から見るとどうも変。
まず、18世紀末のジェイン・オースティンから現代の「ハリー・ポッター」までいっしょくたになってるが、そもそもそれは無理。
続いて、上流階級は貴族だけなのだが、そのチャートではアッパーミドルクラス、つまり、中産階級の上の方も上流階級と書いている。
学生が、と書いているところを見ると、この人は大学で英文学か何かを教えているのだろうか?
詳しいことはわからないのでなんとも言えないが、トゥゲッターに書かれている他の人の意見も間違っていたり無知だったりすることが目についてイライラするので、全部は読まなかった。
先日の「ウィンストン・チャーチル」では、チェンバレンが首相をやめたあと、ハリファックスが推挙されたのだが、ハリファックスは自分は貴族だから首相になるべきではないとして辞退したらしい。イギリスは貴族院は貴族の世襲制、つまり、選挙で選ばれていない。
イギリスの階級というのは、まさにこういう社会制度にまで及んでいる。
あと、上に書いたトゥゲッターの意見で感じたのだけど、「高慢と偏見」に関しては、映画の「プライドと偏見」をもとにしているんじゃないかと思ってしまう。映画「プライドと偏見」では中産階級のベネット家が貧しそうに描かれていて、母親が「秘密と嘘」で労働者階級の無教養な母を演じたブレンダ・ブレッシンなのだが、いくらベネット夫人が上品じゃないからといって、労働者階級丸出しのブレンダ・ブレッシンではやっぱり本当のベネット夫人とは違う。一方、ダーシーのおばの貴族役はジュディ・デンチで、ブレッシンとデンチの対照は面白いのだが、この映画のベネット家は貧乏な庶民みたいで、かなりのミスリードだと思う。
「高慢と偏見」ではデンチの演じた貴族が一番上。その貴族の親戚であるダーシーの家がアッパーミドルの中では一番上、そのすぐ下が長女と結婚する青年の家、そしてベネット家はアッパーミドルの下の方で、ロウアーミドルではないし、ましてや庶民ではないのだ。
ジェイン・オースティンの世界には貴族とアッパーミドルしか出てこない。
ロウアーミドル、中産階級の下の方と労働者階級を描いたのがチャールズ・ディケンズ。当時の労働者階級は炭鉱や工場で働くワーキングプアや小作人。小作人の世界を描いたのがトマス・ハーディの「ダーバヴィル家のテス」。
財産のないミドルクラス、働かないといけないミドルクラスは、男は軍人か法律家、女は家庭教師になる。サッカレーの「バリー・リンドン」の主人公はおちぶれたアイルランドのミドルクラスで、軍隊に入る。サッカレーの「虚栄の市」にも軍隊に入るミドルクラスの男性が何人も出てくる。「高慢と偏見」で軍人がもてるのは、もともと家柄がよくて、でも長男じゃないから土地を継げず、軍人になった男たちだからで、ミドルクラスの女性の結婚相手としてはよいのである。当時、地位の高い男性がついて恥ずかしくない職業は軍人か法律家で、医者は人の体に触ったり血を見たりするから地位の低い職業だった(看護婦もそうで、ナイチンゲールが出てくるまでは身分の低い女性のつく職業だった。ちなみにナイチンゲールは裕福なミドルクラスの令嬢だったが、そういう世界で結婚して主婦になるのはいやだと思い、周囲の反対を押し切って看護婦になった)。だから、ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」で、フランケンシュタインの父が医者になっているのは本当はおかしい。あの時代、あの階級の人は医者にはならない。
そんなわけで、映画自体が歴史を曲げてるんで困るんだけど、今は英文学の時間で映画を使わないわけにはいかなくて、私自身、そういう授業を8年半やってきて、ついにクビというか、こっちから辞めたくなるような方向に追い込まれて辞めたんだけど(けんかもさんざんしたので)、英文学の授業ではイギリスの階級のことを必ず教えていたのだよね。そこを教えないと、「嵐が丘」でなぜキャサリンとヒースクリフが結婚できないのか、キャサリンの家とリントンの家は同じ中産階級だけどどこが違うのか、わからないから、というか、物語を教えるときにその物語の一部として階級の話を自然にしてきたし、学生も、昔は恋愛も結婚も大変だったんだなあ、なんていう感想を書いてくれていたのです。学生にはけっこう受けた授業だったし、私も授業自体は続けたかったけど、大学ってところはなかなかそうはいかない部分が大きいです。
でも、やめたからもう教えることもないのか、としみじみ思ったのでした。
学生がイギリスの階級をどうしても理解できないのでチャートを作った、といってネットにあげているのだが、私から見るとどうも変。
まず、18世紀末のジェイン・オースティンから現代の「ハリー・ポッター」までいっしょくたになってるが、そもそもそれは無理。
続いて、上流階級は貴族だけなのだが、そのチャートではアッパーミドルクラス、つまり、中産階級の上の方も上流階級と書いている。
学生が、と書いているところを見ると、この人は大学で英文学か何かを教えているのだろうか?
詳しいことはわからないのでなんとも言えないが、トゥゲッターに書かれている他の人の意見も間違っていたり無知だったりすることが目についてイライラするので、全部は読まなかった。
先日の「ウィンストン・チャーチル」では、チェンバレンが首相をやめたあと、ハリファックスが推挙されたのだが、ハリファックスは自分は貴族だから首相になるべきではないとして辞退したらしい。イギリスは貴族院は貴族の世襲制、つまり、選挙で選ばれていない。
イギリスの階級というのは、まさにこういう社会制度にまで及んでいる。
あと、上に書いたトゥゲッターの意見で感じたのだけど、「高慢と偏見」に関しては、映画の「プライドと偏見」をもとにしているんじゃないかと思ってしまう。映画「プライドと偏見」では中産階級のベネット家が貧しそうに描かれていて、母親が「秘密と嘘」で労働者階級の無教養な母を演じたブレンダ・ブレッシンなのだが、いくらベネット夫人が上品じゃないからといって、労働者階級丸出しのブレンダ・ブレッシンではやっぱり本当のベネット夫人とは違う。一方、ダーシーのおばの貴族役はジュディ・デンチで、ブレッシンとデンチの対照は面白いのだが、この映画のベネット家は貧乏な庶民みたいで、かなりのミスリードだと思う。
「高慢と偏見」ではデンチの演じた貴族が一番上。その貴族の親戚であるダーシーの家がアッパーミドルの中では一番上、そのすぐ下が長女と結婚する青年の家、そしてベネット家はアッパーミドルの下の方で、ロウアーミドルではないし、ましてや庶民ではないのだ。
ジェイン・オースティンの世界には貴族とアッパーミドルしか出てこない。
ロウアーミドル、中産階級の下の方と労働者階級を描いたのがチャールズ・ディケンズ。当時の労働者階級は炭鉱や工場で働くワーキングプアや小作人。小作人の世界を描いたのがトマス・ハーディの「ダーバヴィル家のテス」。
財産のないミドルクラス、働かないといけないミドルクラスは、男は軍人か法律家、女は家庭教師になる。サッカレーの「バリー・リンドン」の主人公はおちぶれたアイルランドのミドルクラスで、軍隊に入る。サッカレーの「虚栄の市」にも軍隊に入るミドルクラスの男性が何人も出てくる。「高慢と偏見」で軍人がもてるのは、もともと家柄がよくて、でも長男じゃないから土地を継げず、軍人になった男たちだからで、ミドルクラスの女性の結婚相手としてはよいのである。当時、地位の高い男性がついて恥ずかしくない職業は軍人か法律家で、医者は人の体に触ったり血を見たりするから地位の低い職業だった(看護婦もそうで、ナイチンゲールが出てくるまでは身分の低い女性のつく職業だった。ちなみにナイチンゲールは裕福なミドルクラスの令嬢だったが、そういう世界で結婚して主婦になるのはいやだと思い、周囲の反対を押し切って看護婦になった)。だから、ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」で、フランケンシュタインの父が医者になっているのは本当はおかしい。あの時代、あの階級の人は医者にはならない。
そんなわけで、映画自体が歴史を曲げてるんで困るんだけど、今は英文学の時間で映画を使わないわけにはいかなくて、私自身、そういう授業を8年半やってきて、ついにクビというか、こっちから辞めたくなるような方向に追い込まれて辞めたんだけど(けんかもさんざんしたので)、英文学の授業ではイギリスの階級のことを必ず教えていたのだよね。そこを教えないと、「嵐が丘」でなぜキャサリンとヒースクリフが結婚できないのか、キャサリンの家とリントンの家は同じ中産階級だけどどこが違うのか、わからないから、というか、物語を教えるときにその物語の一部として階級の話を自然にしてきたし、学生も、昔は恋愛も結婚も大変だったんだなあ、なんていう感想を書いてくれていたのです。学生にはけっこう受けた授業だったし、私も授業自体は続けたかったけど、大学ってところはなかなかそうはいかない部分が大きいです。
でも、やめたからもう教えることもないのか、としみじみ思ったのでした。
2018年2月9日金曜日
神谷町のWBで「15時17分、パリ行き」を見る。
神谷町のワーナー・ブラザースの試写室にクリント・イーストウッド監督の新作「15時17分、パリ行き」を見に行った。
ワーナーの試写室は日比谷だったのだけど、最近たまに来るワーナーの試写は場所が神谷町になっている。
ここは以前はパラマウントの試写室だったが、パラマウント作品が東宝東和の配給になったので、ワーナーの試写室になったらしい。
パラマウントの頃は試写状が来ることはなく、雑誌の依頼で見に行くくらいだったからほとんど行ったことがないに等しい試写室だった。
先日の「ウィンストン・チャーチル」が開映35分前ですでに補助椅子それもすぐ埋まってしまう状態だったので、こちらはさらに早く出かけた。特に行き慣れない試写室だから迷う恐れもあった。実際、建物に入ってから少し迷い、開映45分前に着いたときにはもう10人くらいは並んでいた。それでも「ウィンストン・チャーチル」のようにすぐにいっぱいにということはなかった。
スターも出ていないし、アカデミー賞にノミネートもされていない、地味な作品だが、イーストウッドの演出が手堅いので面白く見られる。「ハドソン川の奇跡」同様、実話の映画化で、尺が短いのもいい(どちらも90分程度)。
「ハドソン川の奇跡」は航空機の乗客を機長が救う話だが、「15時17分、パリ行き」はパリ行きの高速列車の乗客を3人のアメリカ人の若者が救う話。しかも、この3人の若者と、一緒にテロリストを制圧した男性、テロリストから銃を奪うが首を撃たれてしまう男性とその妻はご本人が演じている。
特に首を撃たれた男性と妻はトラウマになっていそうなのに、よく出演したなあ、と思う。
3人の若者以外は出演シーンもせりふも少ないので、素人でも問題なかったと思うが、主役の3人の若者はかなりのシーンに出ているし、せりふも多いのに素人とは思えない演技。特にせりふまわしがうまいし、声もよいので、声は吹き替えだろうか?(エンドロールにヴォイスキャストというのがあったのだけど)。
それはともかく、この3人は顔立ちとか表情とかが非常にいい。生き生きとしている。
予告編では普通の若者がテロリストに立ち向かったとなっていたが、予告編を見ると主役の1人が明らかに兵士なので、普通の若者じゃないだろう、と思ったが、3人の内2人は兵士、1人が大学生。ただ、2人の兵士は戦闘を経験していない。兵士として、衛生兵としての訓練を受け、1人はアフガニスタンに行ったが、この頃のアフガニスタンはいたって平和だったようだ。
兵士としての訓練を受けていたのだからやはり普通の若者とは言い難いが、それでもこの冷静さ、勇敢さには脱帽する。特に、非常に冷静なのには驚く。
予告編を見たときはなんとなく軍隊賛美になっているのではないかと思ったが、そういう面はなく、3人の若者が自撮り棒を持ってヨーロッパ各地を観光しているシーンなど、ほのぼのとした場面が多い。少年時代のシーンではシングルマザーへの偏見があることが描かれる。
プレスシートでは3人の若者が「運がよかった」とさかんに言っている記事があるが、「ハドソン川の奇跡」が「あれは奇跡でも幸運でもなく機長の能力の高さが乗客を救った」としているのとは対照的。イーストウッドの監督作としては軽さが身の上の作品だが、事件の恐怖よりもその軽やかさを全体のトーンとしているところが後味をよくしている。いわゆる「いい話」の域を出ないのではあるが。
ワーナーの試写室は日比谷だったのだけど、最近たまに来るワーナーの試写は場所が神谷町になっている。
ここは以前はパラマウントの試写室だったが、パラマウント作品が東宝東和の配給になったので、ワーナーの試写室になったらしい。
パラマウントの頃は試写状が来ることはなく、雑誌の依頼で見に行くくらいだったからほとんど行ったことがないに等しい試写室だった。
先日の「ウィンストン・チャーチル」が開映35分前ですでに補助椅子それもすぐ埋まってしまう状態だったので、こちらはさらに早く出かけた。特に行き慣れない試写室だから迷う恐れもあった。実際、建物に入ってから少し迷い、開映45分前に着いたときにはもう10人くらいは並んでいた。それでも「ウィンストン・チャーチル」のようにすぐにいっぱいにということはなかった。
スターも出ていないし、アカデミー賞にノミネートもされていない、地味な作品だが、イーストウッドの演出が手堅いので面白く見られる。「ハドソン川の奇跡」同様、実話の映画化で、尺が短いのもいい(どちらも90分程度)。
「ハドソン川の奇跡」は航空機の乗客を機長が救う話だが、「15時17分、パリ行き」はパリ行きの高速列車の乗客を3人のアメリカ人の若者が救う話。しかも、この3人の若者と、一緒にテロリストを制圧した男性、テロリストから銃を奪うが首を撃たれてしまう男性とその妻はご本人が演じている。
特に首を撃たれた男性と妻はトラウマになっていそうなのに、よく出演したなあ、と思う。
3人の若者以外は出演シーンもせりふも少ないので、素人でも問題なかったと思うが、主役の3人の若者はかなりのシーンに出ているし、せりふも多いのに素人とは思えない演技。特にせりふまわしがうまいし、声もよいので、声は吹き替えだろうか?(エンドロールにヴォイスキャストというのがあったのだけど)。
それはともかく、この3人は顔立ちとか表情とかが非常にいい。生き生きとしている。
予告編では普通の若者がテロリストに立ち向かったとなっていたが、予告編を見ると主役の1人が明らかに兵士なので、普通の若者じゃないだろう、と思ったが、3人の内2人は兵士、1人が大学生。ただ、2人の兵士は戦闘を経験していない。兵士として、衛生兵としての訓練を受け、1人はアフガニスタンに行ったが、この頃のアフガニスタンはいたって平和だったようだ。
兵士としての訓練を受けていたのだからやはり普通の若者とは言い難いが、それでもこの冷静さ、勇敢さには脱帽する。特に、非常に冷静なのには驚く。
予告編を見たときはなんとなく軍隊賛美になっているのではないかと思ったが、そういう面はなく、3人の若者が自撮り棒を持ってヨーロッパ各地を観光しているシーンなど、ほのぼのとした場面が多い。少年時代のシーンではシングルマザーへの偏見があることが描かれる。
プレスシートでは3人の若者が「運がよかった」とさかんに言っている記事があるが、「ハドソン川の奇跡」が「あれは奇跡でも幸運でもなく機長の能力の高さが乗客を救った」としているのとは対照的。イーストウッドの監督作としては軽さが身の上の作品だが、事件の恐怖よりもその軽やかさを全体のトーンとしているところが後味をよくしている。いわゆる「いい話」の域を出ないのではあるが。
2018年2月8日木曜日
「ウィンストン・チャーチル」の試写に行ってきたのだけど
ゲーリー・オールドマンがアカデミー賞主演男優賞をとりそうな「ウィンストン・チャーチル」の試写に行ってきた。
開映35分前でもう補助椅子。その補助椅子もあっという間に埋まる。こんなに混むとは思わなかった。アカデミー賞がらみだから? 作品賞など6部門にノミネートされているが、監督賞と脚本賞はノミネートされていないので、作品賞は無理だろう。実際、オールドマンの演技と特殊メイクがすごくて、もうそれがすべてみたいなところがある。
映画は1940年5月、チャーチルが首相になるところから始まり、ダンケルクの戦いまでの1か月弱を描く。最近、ダンケルクの映画が多いけど、なんでだろう。クリストファー・ノーランの「ダンケルク」が当たったから、ではなくて、同時に数本の映画が作られているみたいなのだが。
監督は「プライドと偏見」や「つぐない」、「アンナ・カレーニナ」など文芸路線のジョー・ライト。今回は実話路線なので、文芸路線とは雰囲気が違う。撮影賞もノミネートされているが、渋い映像だ。
映画はチャーチルという人物をユーモラスに描写する。彼を支える2人の女性、妻とタイピスト、紆余曲折の末チャーチルを支持するようになるジョージ6世(「英国王のスピーチ」の主人公だが、この映画では吃音でなく、また、コリン・ファースよりも本物に顔が似ている)、政敵チェンバレンとハリファックスが中心人物。ヨーロッパを侵略し続けるドイツを目の前にして、ドイツと和平を結ぼうとするチェンバレン、ハリファックスに対し、戦うことを主張するチャーチルが描かれる。
歴史的に見てチャーチルの主張が正しいのはあまりにも明らかなので、チャーチルと政敵とのドラマはあまり盛り上がらない。チャーチルも苦悩しているようには見えない。2人の女性も添え物的。オールドマンの演技を堪能する以外には、せいぜい歴史のお勉強とか、それもそんなに深いとは思えず、映画としてはまあまあな出来ではないか。チャーチルの決断は正しかったし、その決断を実行するだけの才能とカリスマを持っていたことはわかるが、今、そのチャーチルの戦う決断を描く映画を作るというのはどういう意味だろうかと考えてしまう。
欧米の人々にとってはこれは歴史ものの映画として楽しめばいいのかもしれない。だが、日本でこの映画が公開されたら、きっと、安倍首相が見て、自分がチャーチルだと言いだし、北朝鮮をドイツにたとえて徹底抗戦とか言いだすのじゃないかと心配になる。なんたって、「シン・ゴジラ」の首相も自分だと思っている人だから。
映画自体に罪はないのだが、社会の中に置いたとき、問題が起こる、という例はほかにもある。このブログでも記事にした「デトロイト」について、米国の大学院在学中の古谷有希子が批判している。私もこの映画について、人種差別と女性差別がリンクしているところはよいが、その一方で、ネオナチふうの白人警官の狂気のせいにしているのはどうか、と書いたが、古谷はデトロイト反乱(彼女は暴動ではなく反乱と呼ぶべきと主張)の原因その他を十分に描いていないので、黒人がかわいそうという白人向けホラー映画になっていると書いている。
古谷が解説しているデトロイト反乱の背景などは詳しくて勉強になるが、映画でも最初にアニメで背景が一応描かれている(古谷の解説に比べたら不十分ではあるが)。ただ、この映画はデトロイト反乱全体を描くのではなく、白人警官による3人の黒人青年虐殺に焦点を絞っているのであれがないこれがないと言うのは映画に対してちょっと要求が大きすぎるのではないかと思う。
古谷有希子は以前、映画について何かひどい記事を書いていたような気がしたので調べてみたら、「シン・ゴジラ」だった。あれはかなりひどかったが、今回はデトロイト反乱の背景をしっかり解説してくれているのでよいし、こういう批判はあってよいと思う。ただ、この批判を読んだ東大教授の本田由紀が「まだ見ていないけどどうしよう」などとツイートしているのが困る。自分の目で見て確かめないでどうする?
今年はイギリスで女性が選挙権を勝ち取ってから100周年だそうで、選挙権を勝ち取る運動をしたサフラジェットのことがネットにもいろいろ出ている。昨年公開された映画「未来を花束にして」(原題「サフラジェット」)のことも出てきているが、この映画、日本では邦題と宣伝の仕方に問題があったので、去年の今頃はサフラジェットに詳しい人たちから日本の配給会社への批判がかなりあった。映画自体は私はプロパガンダとお涙頂戴で、映画としては出来がよくないと思ったが、サフラジェットを知る人たちにはかなり評価が高かった。が、最近になって、「あの映画はサフラジェットをきちんと描いていないお涙頂戴映画」という批判を目にして、ああやっぱり、と思った。
その「サフラジェットをきちんと描いていない」という主張は、古谷有希子の「デトロイト反乱をきちんと描いていない」という主張と同じで、描いていないことがあまりに多いということである。映画だからあれもこれも入れるというわけにはいかないのだが、映画はやはり一面しか描けないということを知るという点ではどちらの指摘もよかったと思う。「ウィンストン・チャーチル」についても同じような批判がおそらく出るのではないか。映画は映画として楽しんでよいが、そうした指摘もきちんとされるべきだろう。
開映35分前でもう補助椅子。その補助椅子もあっという間に埋まる。こんなに混むとは思わなかった。アカデミー賞がらみだから? 作品賞など6部門にノミネートされているが、監督賞と脚本賞はノミネートされていないので、作品賞は無理だろう。実際、オールドマンの演技と特殊メイクがすごくて、もうそれがすべてみたいなところがある。
映画は1940年5月、チャーチルが首相になるところから始まり、ダンケルクの戦いまでの1か月弱を描く。最近、ダンケルクの映画が多いけど、なんでだろう。クリストファー・ノーランの「ダンケルク」が当たったから、ではなくて、同時に数本の映画が作られているみたいなのだが。
監督は「プライドと偏見」や「つぐない」、「アンナ・カレーニナ」など文芸路線のジョー・ライト。今回は実話路線なので、文芸路線とは雰囲気が違う。撮影賞もノミネートされているが、渋い映像だ。
映画はチャーチルという人物をユーモラスに描写する。彼を支える2人の女性、妻とタイピスト、紆余曲折の末チャーチルを支持するようになるジョージ6世(「英国王のスピーチ」の主人公だが、この映画では吃音でなく、また、コリン・ファースよりも本物に顔が似ている)、政敵チェンバレンとハリファックスが中心人物。ヨーロッパを侵略し続けるドイツを目の前にして、ドイツと和平を結ぼうとするチェンバレン、ハリファックスに対し、戦うことを主張するチャーチルが描かれる。
歴史的に見てチャーチルの主張が正しいのはあまりにも明らかなので、チャーチルと政敵とのドラマはあまり盛り上がらない。チャーチルも苦悩しているようには見えない。2人の女性も添え物的。オールドマンの演技を堪能する以外には、せいぜい歴史のお勉強とか、それもそんなに深いとは思えず、映画としてはまあまあな出来ではないか。チャーチルの決断は正しかったし、その決断を実行するだけの才能とカリスマを持っていたことはわかるが、今、そのチャーチルの戦う決断を描く映画を作るというのはどういう意味だろうかと考えてしまう。
欧米の人々にとってはこれは歴史ものの映画として楽しめばいいのかもしれない。だが、日本でこの映画が公開されたら、きっと、安倍首相が見て、自分がチャーチルだと言いだし、北朝鮮をドイツにたとえて徹底抗戦とか言いだすのじゃないかと心配になる。なんたって、「シン・ゴジラ」の首相も自分だと思っている人だから。
映画自体に罪はないのだが、社会の中に置いたとき、問題が起こる、という例はほかにもある。このブログでも記事にした「デトロイト」について、米国の大学院在学中の古谷有希子が批判している。私もこの映画について、人種差別と女性差別がリンクしているところはよいが、その一方で、ネオナチふうの白人警官の狂気のせいにしているのはどうか、と書いたが、古谷はデトロイト反乱(彼女は暴動ではなく反乱と呼ぶべきと主張)の原因その他を十分に描いていないので、黒人がかわいそうという白人向けホラー映画になっていると書いている。
古谷が解説しているデトロイト反乱の背景などは詳しくて勉強になるが、映画でも最初にアニメで背景が一応描かれている(古谷の解説に比べたら不十分ではあるが)。ただ、この映画はデトロイト反乱全体を描くのではなく、白人警官による3人の黒人青年虐殺に焦点を絞っているのであれがないこれがないと言うのは映画に対してちょっと要求が大きすぎるのではないかと思う。
古谷有希子は以前、映画について何かひどい記事を書いていたような気がしたので調べてみたら、「シン・ゴジラ」だった。あれはかなりひどかったが、今回はデトロイト反乱の背景をしっかり解説してくれているのでよいし、こういう批判はあってよいと思う。ただ、この批判を読んだ東大教授の本田由紀が「まだ見ていないけどどうしよう」などとツイートしているのが困る。自分の目で見て確かめないでどうする?
今年はイギリスで女性が選挙権を勝ち取ってから100周年だそうで、選挙権を勝ち取る運動をしたサフラジェットのことがネットにもいろいろ出ている。昨年公開された映画「未来を花束にして」(原題「サフラジェット」)のことも出てきているが、この映画、日本では邦題と宣伝の仕方に問題があったので、去年の今頃はサフラジェットに詳しい人たちから日本の配給会社への批判がかなりあった。映画自体は私はプロパガンダとお涙頂戴で、映画としては出来がよくないと思ったが、サフラジェットを知る人たちにはかなり評価が高かった。が、最近になって、「あの映画はサフラジェットをきちんと描いていないお涙頂戴映画」という批判を目にして、ああやっぱり、と思った。
その「サフラジェットをきちんと描いていない」という主張は、古谷有希子の「デトロイト反乱をきちんと描いていない」という主張と同じで、描いていないことがあまりに多いということである。映画だからあれもこれも入れるというわけにはいかないのだが、映画はやはり一面しか描けないということを知るという点ではどちらの指摘もよかったと思う。「ウィンストン・チャーチル」についても同じような批判がおそらく出るのではないか。映画は映画として楽しんでよいが、そうした指摘もきちんとされるべきだろう。
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