年を取ったせいか、最近、雑誌に書いた映画評のタイトルを見ても、何を書いたかまったく思い出せないことがよくあります。
書いた文章の数が多いということもありますが、こんなに覚えていないものなのか、というくらい忘れている。
若い頃はそんなにしょっちゅうは書かせてもらえなかったので、その頃のなら覚えているかというと、実はそうではなかった。
先日、SF界の評論家・翻訳家として有名な方がツイッターで、私が1980年代に書いたシルヴァーバーグ論(文庫の解説)に言及しているのを発見したのですが(ツイート自体は昨年のもの)、その解説の内容をまったく思い出せないことに気づき愕然としました。
かなり力の入った論考で、これを書くために国会図書館にまで行って、絶版になっていたシルヴァーバーグの翻訳書を読んだりもしていたのです。
思えば「フランケンシュタイン」解説に次ぐ代表作だったかもしれないもの。
なぜ忘れたのか。それは、この論考について思い出すことがなかったから、だと思います(忘れている他の映画評なども思い出す機会がなかったので、忘れたのでしょう)。
そしてその理由は、文庫が出たとき、SF界の反応が皆無に等しかったからだと思います。
ああ、私が書いたのはSFファンにとっては当たり前のことで、価値がなかったのだ。
そう思ったために、その後、シルヴァーバーグについて研究することもなく、SF界からも離れてしまいました。
そして今、遅ればせながらSF界の方の反応を目にして、過去に書いたものを少し整理した方がいいと思い始めています。
私は自分の書いたものが残るということにあまり興味がないので、書いたら書きっぱなし、評論集を出そうなどとも考えていません。若い頃、映画評論集を出したくて、2つの出版社に持ち込んで、断られたり、自費出版で大金が必要だったりしたので、売れない本を出してもむだだからやめようと思ったのです。
「フランケンシュタイン」創元推理文庫はもう5年以上、増刷されていないので、これが絶版になったら、これを含めた評論集が出せるのですが、うーん、私が生きているうちには絶版にはならないかな。
昨日は谷中へ。お寺の桜。
帰りに上野駅構内の書店をのぞく。
「シャンシャン自身」品切れで寂しくなっていたパンダコーナーがにぎやかになっていた。