見苦しい
リオに執念
号泣知事
テレビなくてよかったかな。
都知事選では別の候補に投票したよ。
東京オリンピックは返上すべき!
以上。
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2016年6月15日水曜日
2016年6月14日火曜日
拒絶の手紙
拒絶の手紙ということで思い出すのは、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツがディズニー・スタジオからもらったという断りの手紙。
ただ、これもフィクションかな、と思うのは、伝記的なサイトには書いてないし、証拠もなさそうだからだ。
シュルツは何をやってもだめで、でも、絵だけは得意だった。なので、ディズニー・スタジオで雇ってもらおうと絵を送ったら、「あなたの絵は当スタジオの水準に達していません」として断られてしまった、というエピソード。
何をやってもだめな少年だったシュルツが自分をモデルに漫画を描いて成功した、というテンプレな伝記が作られていたのである(前の記事のバレエダンサーと似てるね)。
でも実際はシュルツは勉強はできて、飛び級で上の学年に上がっていたので、そこで年上のクラスメイトたちに囲まれて苦労したということのようだった。
また、漫画家としてもなかなか成功せず、苦労したのは事実。
でも、有名になってからはウォルト・ディスニーに対等の立場で会っている。
有名人には事実とは異なるテンプレな伝記があるというのはよくあることで、それが売る戦略になっていることも多い。チャーリー・ブラウンが飛び級するほどの優等生だったら受けない。
話変わって。
私が断りの手紙やメールを一番多く受け取っているのは、大学の教員公募と産業翻訳の会社からだ。
大学の教員公募は昔は必ず不採用の手紙が来たが(内容はもちろん、テンプレ。いわゆるお祈り)、最近は就活で言うところのサイレントお祈り(不採用の通知をまったく出さない)が増えている。来てもテンプレだからどうでもいいんだけど、それでもサイレントお祈りの大学は問題がありそうだと思って覚えておいている。
産業翻訳の会社の方は、圧倒的にサイレントお祈りが多い。来る場合はやはりテンプレが多いのだが(お祈りつき)、1社だけ、トライアルについてていねいに意見を書いてくれたところがあった。そこには感謝している。
産業翻訳会社でトライアルを受けさせてもらったのは2008年くらいからだが、最初は一応、トライアルを送ってきた。そこで訳して出してもほとんどサイレントお祈り。3社ほど採用されたが、仕事はほとんどなかった。やがてトライアルを送ってほしいとメールしても返事が来なくなった。この間2年くらいだと思うが、産業翻訳も翻訳家の供給過剰になっていたようだ。私の場合、専門分野を持たないこと、非常勤講師をしているので授業中は携帯にも出られないことなど、この業界では不利なことがいくつもあった。実際、理系のポスドクをしている人のブログに、翻訳会社と契約しているが、実験中に電話があるので仕事が受けられないと書いてあった。
翻訳会社に応募しなくなって5年くらいはたつので、今の状況はわからない。翻訳の世界というのは産業であれ出版であれ、変動が激しいというのが私の印象で、5年前と今では大きく違っていてもおかしくない。5年前に仕事をゲットして翻訳家になれた人の話はあくまで5年前の話なので、すでに翻訳家としての地位を確立している人の話はこれからの人には参考にならない場合が多いと、自分の経験で思う。年配者が今の大学生のきびしい現状(高い学費、利子つきの奨学金、ブラックバイト)をまったく知らずに、自分たちはこうして大学を出たのだからと言ったりしているが、過去と今はまったく違うこということが意外に人間にはわからないものなのだ。
お祈り(不採用通知)から話が脱線してしまったけれど、私にとって忘れられないのは映画評論家として有名なH氏からの断りのハガキである(誰だかすぐにわかっちゃうけど一応、匿名で)。
H氏はもともと仏文学者として高名な方であるが、80年代半ば頃には映画評論家として名を上げていた。そのH氏が新しい映画雑誌を創刊するという広告を見て、まだ創刊前であったが、「私にも執筆させてほしい」という手紙を書き、キネマ旬報に掲載された映画評のコピーを同封した。しかし、返事は、「キネマ旬報に書いたような文章は私たちの雑誌には向きません」という内容だった。
「私たちの雑誌」という表現にカチンと来て、すぐにハガキは捨ててしまった。この人には「私たち」と「彼ら」という2種類の人間がいるのだと思ったのだ。そして、私は「彼ら」の方だと。
私自身、H氏の名前は知っていたが、H氏のことをよく知らなかったので、確かに「彼ら」の方なのである。それはすぐにわかった。また、H氏がキネマ旬報を批判していることもわかった。それで納得したので、その雑誌が創刊されてからは遠くから見ている程度だったが、創刊第2号である女性の投稿による映画論が掲載された。そのとき、H氏が、「**さんのような繊細な女性の登場を期待する」みたいなことをあとがきで書いたので、またまたカチンと来た。なぜなら、その女性は私とは正反対のタイプの女性であり、なおかつ、そういう繊細な女性の登場を、という言い方が、英文学などのアカデミズムで男性たちが受け入れたい女性のテンプレだったからだ。
やがて90年代になると、H氏の影響を受けた若手の映画評論家が主流になった。90年代にかろうじて映画評論家を続けられたのは、H氏の影響を受けた書き手ばかりの現状に不満な編集者たちが私を採用してくれたからである。
時代は変わり、キネマ旬報にもH氏の影響を受けた評論家たちの名前が目次に並び、H氏自身も対談という形で登場した。H氏がキネ旬の批判をしていた時代は遠い過去になっていて、もう誰も覚えていないのかもしれない。そして、私が受け取ったハガキも、捨ててしまったので、この話自体がフィクションだろう、と言われても反論できないのだ。
ただ、これもフィクションかな、と思うのは、伝記的なサイトには書いてないし、証拠もなさそうだからだ。
シュルツは何をやってもだめで、でも、絵だけは得意だった。なので、ディズニー・スタジオで雇ってもらおうと絵を送ったら、「あなたの絵は当スタジオの水準に達していません」として断られてしまった、というエピソード。
何をやってもだめな少年だったシュルツが自分をモデルに漫画を描いて成功した、というテンプレな伝記が作られていたのである(前の記事のバレエダンサーと似てるね)。
でも実際はシュルツは勉強はできて、飛び級で上の学年に上がっていたので、そこで年上のクラスメイトたちに囲まれて苦労したということのようだった。
また、漫画家としてもなかなか成功せず、苦労したのは事実。
でも、有名になってからはウォルト・ディスニーに対等の立場で会っている。
有名人には事実とは異なるテンプレな伝記があるというのはよくあることで、それが売る戦略になっていることも多い。チャーリー・ブラウンが飛び級するほどの優等生だったら受けない。
話変わって。
私が断りの手紙やメールを一番多く受け取っているのは、大学の教員公募と産業翻訳の会社からだ。
大学の教員公募は昔は必ず不採用の手紙が来たが(内容はもちろん、テンプレ。いわゆるお祈り)、最近は就活で言うところのサイレントお祈り(不採用の通知をまったく出さない)が増えている。来てもテンプレだからどうでもいいんだけど、それでもサイレントお祈りの大学は問題がありそうだと思って覚えておいている。
産業翻訳の会社の方は、圧倒的にサイレントお祈りが多い。来る場合はやはりテンプレが多いのだが(お祈りつき)、1社だけ、トライアルについてていねいに意見を書いてくれたところがあった。そこには感謝している。
産業翻訳会社でトライアルを受けさせてもらったのは2008年くらいからだが、最初は一応、トライアルを送ってきた。そこで訳して出してもほとんどサイレントお祈り。3社ほど採用されたが、仕事はほとんどなかった。やがてトライアルを送ってほしいとメールしても返事が来なくなった。この間2年くらいだと思うが、産業翻訳も翻訳家の供給過剰になっていたようだ。私の場合、専門分野を持たないこと、非常勤講師をしているので授業中は携帯にも出られないことなど、この業界では不利なことがいくつもあった。実際、理系のポスドクをしている人のブログに、翻訳会社と契約しているが、実験中に電話があるので仕事が受けられないと書いてあった。
翻訳会社に応募しなくなって5年くらいはたつので、今の状況はわからない。翻訳の世界というのは産業であれ出版であれ、変動が激しいというのが私の印象で、5年前と今では大きく違っていてもおかしくない。5年前に仕事をゲットして翻訳家になれた人の話はあくまで5年前の話なので、すでに翻訳家としての地位を確立している人の話はこれからの人には参考にならない場合が多いと、自分の経験で思う。年配者が今の大学生のきびしい現状(高い学費、利子つきの奨学金、ブラックバイト)をまったく知らずに、自分たちはこうして大学を出たのだからと言ったりしているが、過去と今はまったく違うこということが意外に人間にはわからないものなのだ。
お祈り(不採用通知)から話が脱線してしまったけれど、私にとって忘れられないのは映画評論家として有名なH氏からの断りのハガキである(誰だかすぐにわかっちゃうけど一応、匿名で)。
H氏はもともと仏文学者として高名な方であるが、80年代半ば頃には映画評論家として名を上げていた。そのH氏が新しい映画雑誌を創刊するという広告を見て、まだ創刊前であったが、「私にも執筆させてほしい」という手紙を書き、キネマ旬報に掲載された映画評のコピーを同封した。しかし、返事は、「キネマ旬報に書いたような文章は私たちの雑誌には向きません」という内容だった。
「私たちの雑誌」という表現にカチンと来て、すぐにハガキは捨ててしまった。この人には「私たち」と「彼ら」という2種類の人間がいるのだと思ったのだ。そして、私は「彼ら」の方だと。
私自身、H氏の名前は知っていたが、H氏のことをよく知らなかったので、確かに「彼ら」の方なのである。それはすぐにわかった。また、H氏がキネマ旬報を批判していることもわかった。それで納得したので、その雑誌が創刊されてからは遠くから見ている程度だったが、創刊第2号である女性の投稿による映画論が掲載された。そのとき、H氏が、「**さんのような繊細な女性の登場を期待する」みたいなことをあとがきで書いたので、またまたカチンと来た。なぜなら、その女性は私とは正反対のタイプの女性であり、なおかつ、そういう繊細な女性の登場を、という言い方が、英文学などのアカデミズムで男性たちが受け入れたい女性のテンプレだったからだ。
やがて90年代になると、H氏の影響を受けた若手の映画評論家が主流になった。90年代にかろうじて映画評論家を続けられたのは、H氏の影響を受けた書き手ばかりの現状に不満な編集者たちが私を採用してくれたからである。
時代は変わり、キネマ旬報にもH氏の影響を受けた評論家たちの名前が目次に並び、H氏自身も対談という形で登場した。H氏がキネ旬の批判をしていた時代は遠い過去になっていて、もう誰も覚えていないのかもしれない。そして、私が受け取ったハガキも、捨ててしまったので、この話自体がフィクションだろう、と言われても反論できないのだ。
なんだかなあ
アフリカ系アメリカ人のバレエダンサーを起用したCMで、バレエアカデミーが応募者を不採用にする手紙みたいなのを流してるんだけど、これを実際にこのダンサーが受け取った手紙だと言っているサイトがいくつかあった。
でも、普通に考えて、おかしいと思ったので、いろいろググってみた。
すると、このダンサーは13歳のときにバレエ教師に才能を見出され、この教師の推薦でバレエ学校に通って頭角を現したらしい。
彼女の経歴などを英語のサイトで見ても、彼女がバレエアカデミーに拒否されたという記述はなかった。
この手紙も、最初に「応募者様へ」と書いているが、普通、不採用通知に「応募者様へ」とは書かない。相手の名前を書く。
手紙の内容も、ダンサーの容姿がバレエに向いていないということ、13歳では遅すぎるということで、こういう理由でアカデミーが断るとは思えない。
アカデミーが断る理由はダンサーとしての資質や技量にもとづくはずなのだ。
ただ、13歳では遅いとか、容姿がどうとかは、一般的なクリシェイとしては存在する。
バレエは10歳くらいから始めるのが一番いいのだそうだが、有名なダンサーが3歳で始めたという話が伝わったりすると、13歳では相当遅いと感じてしまう。しかし、実際は10歳が適齢期だとすれば、13歳は少し遅いにすぎない。実際、13歳から始めて有名なローザンヌ賞を受賞したダンサーは日本にもいる。
確かに世の中にはこういう人はこういう仕事には向いていないというクリシェイがあって、それであきらめる必要はないのだと言ってもらえるとうれしい人は多いだろう。だからそのダンサーも人気があって、彼女が出演する演目はソールドアウトなのだそうだ。
なんだかなあ。
その昔、キャスリーン・バトルというアフリカ系アメリカ人のソプラノ歌手が日本のCMで大人気になって、メトロポリタン・オペラが来日したとき、彼女の出る「フィガロの結婚」は即ソールドアウトだったのだそうだ。バトルは実力のある歌手だけど、そのメトの公演で私がすべての公演を見た「ホフマン物語」にもアフリカ系アメリカ人のソプラノが主役で出ていた。でも、彼女の方は注目なし。なんだかなあ。
くだんのバレエダンサーは貧しい家に生まれ、母親は次々と男を替える生活、そんな中でバレエの才能で成功したアメリカン・ドリームということで人気が出るのはわかる。あの架空と思われるアカデミーの手紙にあるような偏見をものともせずに成功したのも事実だろう。
でも、あの手紙は、フィクションだと思うのだ。そういう風潮をもとにしたフィクションで、バレエの世界を知る人にはちょっとね、な内容じゃないだろうか。
一般人に受けるけど、その世界を知る人にはちょっとね、というのを見ると、なんだかなあと思うのである。
そのダンサーは自伝を出して映画化もされるということで、一部では、バレエより自己宣伝に力が入っているとか、バレエの技術はまだまだなところがあるとか批判されている部分もあるようだ。実力があるのは確かなのだから、あまり色物にならないでほしいと思う。
でも、普通に考えて、おかしいと思ったので、いろいろググってみた。
すると、このダンサーは13歳のときにバレエ教師に才能を見出され、この教師の推薦でバレエ学校に通って頭角を現したらしい。
彼女の経歴などを英語のサイトで見ても、彼女がバレエアカデミーに拒否されたという記述はなかった。
この手紙も、最初に「応募者様へ」と書いているが、普通、不採用通知に「応募者様へ」とは書かない。相手の名前を書く。
手紙の内容も、ダンサーの容姿がバレエに向いていないということ、13歳では遅すぎるということで、こういう理由でアカデミーが断るとは思えない。
アカデミーが断る理由はダンサーとしての資質や技量にもとづくはずなのだ。
ただ、13歳では遅いとか、容姿がどうとかは、一般的なクリシェイとしては存在する。
バレエは10歳くらいから始めるのが一番いいのだそうだが、有名なダンサーが3歳で始めたという話が伝わったりすると、13歳では相当遅いと感じてしまう。しかし、実際は10歳が適齢期だとすれば、13歳は少し遅いにすぎない。実際、13歳から始めて有名なローザンヌ賞を受賞したダンサーは日本にもいる。
確かに世の中にはこういう人はこういう仕事には向いていないというクリシェイがあって、それであきらめる必要はないのだと言ってもらえるとうれしい人は多いだろう。だからそのダンサーも人気があって、彼女が出演する演目はソールドアウトなのだそうだ。
なんだかなあ。
その昔、キャスリーン・バトルというアフリカ系アメリカ人のソプラノ歌手が日本のCMで大人気になって、メトロポリタン・オペラが来日したとき、彼女の出る「フィガロの結婚」は即ソールドアウトだったのだそうだ。バトルは実力のある歌手だけど、そのメトの公演で私がすべての公演を見た「ホフマン物語」にもアフリカ系アメリカ人のソプラノが主役で出ていた。でも、彼女の方は注目なし。なんだかなあ。
くだんのバレエダンサーは貧しい家に生まれ、母親は次々と男を替える生活、そんな中でバレエの才能で成功したアメリカン・ドリームということで人気が出るのはわかる。あの架空と思われるアカデミーの手紙にあるような偏見をものともせずに成功したのも事実だろう。
でも、あの手紙は、フィクションだと思うのだ。そういう風潮をもとにしたフィクションで、バレエの世界を知る人にはちょっとね、な内容じゃないだろうか。
一般人に受けるけど、その世界を知る人にはちょっとね、というのを見ると、なんだかなあと思うのである。
そのダンサーは自伝を出して映画化もされるということで、一部では、バレエより自己宣伝に力が入っているとか、バレエの技術はまだまだなところがあるとか批判されている部分もあるようだ。実力があるのは確かなのだから、あまり色物にならないでほしいと思う。
2016年6月11日土曜日
やっつけ仕事
ある映画本が誤字誤植変換ミスの山だというので、刷り直しが決定、購入者には希望により交換するという出来事があった。
どうも、以前あった、アインシュタインの伝記の機械翻訳みたいなことがまた起こったのだな、と私には思えた。
その本は最初に編集者の前口上があるらしいので、その編集者の企画なのかもしれない。
その出版社は最近、雑誌の過去記事を集めてムック本などを作っているところで、過去記事には原稿料を支払わないから、安くあげている本なのだろうなと、内心思っていた。
もしもその編集者の企画だとしたら、過去記事からテーマに沿って原稿を選び、新たなインタビューも加えて本を作るということを1人でやった可能性がある。
過去記事には古いものもある。それを自分でタイピングしたから誤字誤植変換ミスの山になったと想像されている。
でも、ちょっと待ってよ。スキャナーでスキャンしてテキストデータに変えるというソフトが素人向けのスキャナーにもついているんじゃないの? 少なくともそれをやってれば指摘されているような変換ミスは起こらないはず。
また、校正をしていないのだろうという指摘もある。あれだけのミスがあれば当然、校正はしていない。読み返すことさえしていないだろう。
タイピングや校正は人に任せて、と書いている人もいるが、過去記事で安く上げる本だからそんな人件費は出ないだろう。
編集者もこれにじっくり取り組むほどの報酬は得られないのかもしれない。
だが、結果的に、こういうミスの山の本を作り、発売から数日後にアマゾンのレビューで書かれてしまった以上、ほっかむりはできないので、刷り直しとなったのだが、大損である。
安く作るはずが逆に大損になったに違いない。
今のところ、アインシュタインの機械翻訳ほどには話題になっていないし、かばう人が多いというか、これだけのミスがあるのに絶賛のツイッターが出まくっていたというのもなんだけど。
なんというか、今、プロの出版がだめになっているのかなと思う。同人誌だってこんなことはない、というか、同人誌はみんな自分の原稿がきちんと活字になることにすごく神経質だから。
原稿に対するリスペクトが足りない。きびしいけど、そう言わせてもらう。つか、この出版社だけでなく、だいぶ前からそういうリスペクトがない出版社が増えていて、それで私は翻訳の仕事が続かなかったというのがある。翻訳は元の文章を書いた人を尊重しなければならないのだが、それを出版社に言ったりすると、うるさいやつと思われて仕事なくなるみたいな状態になったのだった。
どうも、以前あった、アインシュタインの伝記の機械翻訳みたいなことがまた起こったのだな、と私には思えた。
その本は最初に編集者の前口上があるらしいので、その編集者の企画なのかもしれない。
その出版社は最近、雑誌の過去記事を集めてムック本などを作っているところで、過去記事には原稿料を支払わないから、安くあげている本なのだろうなと、内心思っていた。
もしもその編集者の企画だとしたら、過去記事からテーマに沿って原稿を選び、新たなインタビューも加えて本を作るということを1人でやった可能性がある。
過去記事には古いものもある。それを自分でタイピングしたから誤字誤植変換ミスの山になったと想像されている。
でも、ちょっと待ってよ。スキャナーでスキャンしてテキストデータに変えるというソフトが素人向けのスキャナーにもついているんじゃないの? 少なくともそれをやってれば指摘されているような変換ミスは起こらないはず。
また、校正をしていないのだろうという指摘もある。あれだけのミスがあれば当然、校正はしていない。読み返すことさえしていないだろう。
タイピングや校正は人に任せて、と書いている人もいるが、過去記事で安く上げる本だからそんな人件費は出ないだろう。
編集者もこれにじっくり取り組むほどの報酬は得られないのかもしれない。
だが、結果的に、こういうミスの山の本を作り、発売から数日後にアマゾンのレビューで書かれてしまった以上、ほっかむりはできないので、刷り直しとなったのだが、大損である。
安く作るはずが逆に大損になったに違いない。
今のところ、アインシュタインの機械翻訳ほどには話題になっていないし、かばう人が多いというか、これだけのミスがあるのに絶賛のツイッターが出まくっていたというのもなんだけど。
なんというか、今、プロの出版がだめになっているのかなと思う。同人誌だってこんなことはない、というか、同人誌はみんな自分の原稿がきちんと活字になることにすごく神経質だから。
原稿に対するリスペクトが足りない。きびしいけど、そう言わせてもらう。つか、この出版社だけでなく、だいぶ前からそういうリスペクトがない出版社が増えていて、それで私は翻訳の仕事が続かなかったというのがある。翻訳は元の文章を書いた人を尊重しなければならないのだが、それを出版社に言ったりすると、うるさいやつと思われて仕事なくなるみたいな状態になったのだった。
2016年6月7日火曜日
節目の年
人生には何度か節目の年があるものだけれど、私の場合、それは1976年、1984年、1997年の3回だと思う。
最後の節目の年、1997年から来年で20年になるので、この辺でもう1回節目の年が欲しいよう、ということで、3回の節目の年を振り返ってみる。
1976年
1 映画「バリー・リンドン」を見て、アメリカ文学からイギリス文学(ヴィクトリア朝小説)に鞍替えする。翌年、原作者サッカレーについて卒論を書いた。
2 当時、日本で唯一の通学制の翻訳学校だった四谷の翻訳学校で有名な翻訳家・中村能三氏の授業を受ける。結局、翻訳学校は3か月でやめてしまったが、中村氏の教えの数々は今でも私にとって座右の銘となっている。実際に小説の翻訳をしていたとき、中村氏の教えが何度も脳裏によみがえった。
3 大学院進学を決意する。
「バリー・リンドン」でサッカレーに興味を持ち、原書で作品を次々と読み、英語の研究書まで手に入れて読むようになったが、私の大学には大学院がなかったので、英文学の研究者になるという考えは最初はなかった。そこで文芸翻訳家をめざそうと思ったのだが(当時はなりたい人があまりいなかったので、あのまま翻訳学校に行っていればなれたと思う)、どうも私のやりたいことは翻訳ではないと気づいた。それならと、他大学の大学院をめざすことにした。幸い、私の大学からは理系や教育学系の学生の一部が東大の大学院に進学していて、東大クラスの院をめざすのはめずらしくないことがわかった。院のない大学だからこそ、最高峰をめざすという考えがあった。
1984年
1 「フランケンシュタイン」解説で評論家になる。
2 キネマ旬報に執筆するようになる(映画評論家を名乗る)。
大学院に進学したものの、就職は女性差別がきびしかった。それでも前年、岡山大学から講師就任の依頼があったが、そのときすでに「フランケンシュタイン」解説を書き始め、評論家デビューの野望を抱くようになった私は、研究職に就く唯一のチャンスを断ってしまった。今なら地方の大学に就職しても映画評論家はできるが、当時は非常にむずかしかった。実際、キネマ旬報などの雑誌に書くには首都圏に住むことが大前提だった。
1997年
1 7年ぶりにキネマ旬報に本格復帰。
2 小説の翻訳を本格的に始める。
3 初めてのパソコンを買う。Windows95搭載のSHARPのMebius。30万円もしたが、クレジットの一括払いで買っているので、お金があったんだねえ。黒のラップトップに赤い小さな文字でMebiusと書かれているこのパソコンは今でも大事にとってある。SHARPがパソコンをやめ、そしてあんなことになるとは想像もしなかった。
80年代には大学院で研究したE・M・フォースターの映画化が相次いだことから、キネ旬ではけっこういい思いをさせてもらった。が、90年代に入ると編集部の体制が変わり、縁がなくなってしまった。その間は看護系の専門誌や「エスクアイア」などで執筆しつつ、非常勤講師や予備校の仕事をやっていたが、90年代半ばにこれらの仕事が激減。ヤバイと思って小説の翻訳に本格的に進出(下訳や短編の訳などは80年代からやっていた)。同時にキネ旬に連絡をとり、復帰を果たす。ただ、出版翻訳はこの頃氷河期に入っており、仕事が続かなかった。キネ旬ではこのあと10年間くらいが一番活動させてもらえた時期になる。
中村能三氏以外の名前はあげませんでしたが、ほかにもいろいろな方々との出会いやご厚意でこれまでやれてきたことは言うまでもありません。深謝。
最後の節目の年、1997年から来年で20年になるので、この辺でもう1回節目の年が欲しいよう、ということで、3回の節目の年を振り返ってみる。
1976年
1 映画「バリー・リンドン」を見て、アメリカ文学からイギリス文学(ヴィクトリア朝小説)に鞍替えする。翌年、原作者サッカレーについて卒論を書いた。
2 当時、日本で唯一の通学制の翻訳学校だった四谷の翻訳学校で有名な翻訳家・中村能三氏の授業を受ける。結局、翻訳学校は3か月でやめてしまったが、中村氏の教えの数々は今でも私にとって座右の銘となっている。実際に小説の翻訳をしていたとき、中村氏の教えが何度も脳裏によみがえった。
3 大学院進学を決意する。
「バリー・リンドン」でサッカレーに興味を持ち、原書で作品を次々と読み、英語の研究書まで手に入れて読むようになったが、私の大学には大学院がなかったので、英文学の研究者になるという考えは最初はなかった。そこで文芸翻訳家をめざそうと思ったのだが(当時はなりたい人があまりいなかったので、あのまま翻訳学校に行っていればなれたと思う)、どうも私のやりたいことは翻訳ではないと気づいた。それならと、他大学の大学院をめざすことにした。幸い、私の大学からは理系や教育学系の学生の一部が東大の大学院に進学していて、東大クラスの院をめざすのはめずらしくないことがわかった。院のない大学だからこそ、最高峰をめざすという考えがあった。
1984年
1 「フランケンシュタイン」解説で評論家になる。
2 キネマ旬報に執筆するようになる(映画評論家を名乗る)。
大学院に進学したものの、就職は女性差別がきびしかった。それでも前年、岡山大学から講師就任の依頼があったが、そのときすでに「フランケンシュタイン」解説を書き始め、評論家デビューの野望を抱くようになった私は、研究職に就く唯一のチャンスを断ってしまった。今なら地方の大学に就職しても映画評論家はできるが、当時は非常にむずかしかった。実際、キネマ旬報などの雑誌に書くには首都圏に住むことが大前提だった。
1997年
1 7年ぶりにキネマ旬報に本格復帰。
2 小説の翻訳を本格的に始める。
3 初めてのパソコンを買う。Windows95搭載のSHARPのMebius。30万円もしたが、クレジットの一括払いで買っているので、お金があったんだねえ。黒のラップトップに赤い小さな文字でMebiusと書かれているこのパソコンは今でも大事にとってある。SHARPがパソコンをやめ、そしてあんなことになるとは想像もしなかった。
80年代には大学院で研究したE・M・フォースターの映画化が相次いだことから、キネ旬ではけっこういい思いをさせてもらった。が、90年代に入ると編集部の体制が変わり、縁がなくなってしまった。その間は看護系の専門誌や「エスクアイア」などで執筆しつつ、非常勤講師や予備校の仕事をやっていたが、90年代半ばにこれらの仕事が激減。ヤバイと思って小説の翻訳に本格的に進出(下訳や短編の訳などは80年代からやっていた)。同時にキネ旬に連絡をとり、復帰を果たす。ただ、出版翻訳はこの頃氷河期に入っており、仕事が続かなかった。キネ旬ではこのあと10年間くらいが一番活動させてもらえた時期になる。
中村能三氏以外の名前はあげませんでしたが、ほかにもいろいろな方々との出会いやご厚意でこれまでやれてきたことは言うまでもありません。深謝。
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